女王陛下はどうしたい?
ヴェルナーの目は蕩けるような色を湛えていると言うのに、一筋だけ氷のように冷たい何かが残っている。それを敏感に感じ取って、デリアは身構えた。
「私の言うことが信じられないとおっしゃいますが、信じられないのではなく、信じたくないのではないのですか?」
「な、何を……」
「そんなに私を信じるのが怖いですか? ご自分の外見のせいにして、頭ごなしに全て否定して、聞く耳をいっさい持たない。それは卑怯でしょう。ただ逃げているだけじゃありませんか。あなたはそれでいいんですか」
デリアは図星をさされてぐっと押し黙った。
指摘されたことがいちいち勘にさわって、腹の底がふつふつと湧いてくる。
「いいわけないじゃない! どうしてあなたは私なんかに構うの!! もう放っておいてって言ってるの! あなたがそばにいると調子が狂うのよ。見え透いた世辞だって分かってるのに、信じたくなっちゃうの」
黙っていようと思っていた言葉が、腹にたまった怒りとともに噴き出した。一瞬しまったという気持ちが頭をよぎったが、すぐに、こうなったら全てぶちまけてしまえという気持ちに変わった。
吐露してしまおうと腹を括れば、言葉が後から後からあふれ出す。言葉使いさえも女王然としたものでなく、王女時代のそれに逆戻りしていた。
「女王の『夫』の座がほしいなら、正直にそう言えばいいじゃない! そうしたら政治の一環としてちゃんと考えるから!! それを……それをこんな回りくどい手を使って! それこそ卑怯って言うのよ。ねぇ、あなたの言動に振り回される私はさぞ滑稽に見えたでしょうね。もうそろそろ飽きたでしょ? もう放っておいて!」
怒りのあまり握った拳が震え、目には涙までうっすらと滲んだ。瞬きをしたり、俯いたりしたら、いとも簡単に頬を滑り落ちてしまうだろう。
(絶対に泣くもんですか)
デリアはヴェルナーから視線を逸らさず睨み続けた。
どういう反応が戻ってきても、負けるものか。そういう態度を隠しもせずに身構えるが、目の前の男は驚いたように目を見開いてデリアを見下ろしている。
「デリア様、それは……私の言葉は、あなたにきちんと届いていた、と。そう解釈してよろしいのでしょうか?」
「え? あ、それは……」
あわてて取り繕おうにも、口から出てしまった言葉は戻せない。
しどろもどろになるデリアをよそに、ヴェルナーは嬉しそうに破顔した。
「ずっと相手にされていないのだと思っておりました」
「い、いや、相手にしてないから。ヴェルナーの言うことなんて、一つとして信じていないから!!」
必死に否定しても、ヴェルナーは聞く耳を持たない。ただただ幸せそうに頬をゆるめている。
「本当に世辞なんかではないのです。あなたは誰よりも美しい」
ヴェルナーは、宝物に触れるようにそっとデリアの頬をなぞった。彼女の背筋をぞくりとした感覚が走り抜けた。悪寒と似た、だが全く違う甘い感覚に戸惑う。
「ただ単に顔の造作が美しいと言う者なら、この世にごまんといるでしょう。でもあなたの美しさはそんな軽いものじゃない。そんなものと同列に置いて良いものじゃないんです」
「何を言い出すかと思えば、そんな……」
「良いから黙ってお聞きください」
うんざりとした口調で遮ろうとするデリアの言葉を、逆に遮ってヴェルナーは先を続けた。デリアは不快そうにしながらも押し黙り、彼の話を聞く。
「この細い肩にのしかかる重責はいかばかりですか。あなたはそれにひとりで耐えている。そして己の力を軽んじることも、逆に奢ることもなくこの国を正しく導こうと努力し、何があっても決して俯かない。その心根に惹かれない男がいると思いますか?」
ヴェルナーは彼女の肩を抱いて引き寄せた。油断していたデリアは、抵抗する間もなくあっさりと彼の腕の中に落ちた。
抱きすくめられたデリアは身を強張らせたが、彼は腕を解こうとはせず、ますます強く抱きしめた。
「あなたが即位したあの日。戴冠式の場に私もおりました。まだ伺候しておりませんでしたので父のお供で列席させていただいたんです。先王から譲られた王冠を戴くあなたはとても堂々としていて美しかった。あなたの声は柔らかく優しいのに隅々まで響きわたって、私の心にもしっかり刻まれました。生まれながらの女王とはあなたのことを言うのだ、と。私はそう思いましたよ。あなたは女王になるために生まれた特別な人間なのだとね。でもね、退出際に私は見てしまいました。あなたのこの細い肩が小刻みに震えているのを」
不思議なことにデリアは抱きしめられても嫌悪感を覚えず、そのことに戸惑いを覚えた。
戸惑いを誤魔化すように、中身のないことを問う。
「がっかりしたでしょう?」
「いいえ。逆です。私はその時初めてあなたが、ひとりの少女であることを思い出したのです。大の大人でも尻込みしそうな重責を背負い、その重さに打ち震えながらも決して俯かない。その強さに惹かれたんですよ」
その時のことを思い出してか、ヴェルナーは切なげに長いため息をついた。
「それまでの私はね、適当にふらふら生きて、時期が来たら父の跡目を継いで、適当に生きていけば良いかと思っていたんです。うちの領地はここから遠い田舎で、政争なんて全く縁のない土地です。そこでのんびりと生きていくのが夢でした。ですが、あの一瞬に気が変わりました。あなたの元で、あなたの手となり足となり、微力ながらあなたの為に力を尽くそうとそう思ったのです」
ヴェルナーは彼女の体から両手を離した。密着していた体が離れ、それを名残惜しいと思う気持ちを押し殺した。
「まさか、その忠誠心に、恋心まで加わってしまうとは私も予想だにしておりませんでしたが」
ヴェルナーが困ったように笑うのを呆然と見ながら、デリアはぽつりとつぶやいた。
「嘘……」
「いいえ。私は今まであなたに何一つとして嘘は言ったことがありません。信じていただけなかったことは残念ですが、私の言葉があなたに届いていたことが分かっただけでも幸せです。もう、これで満足です。――最後に、一つだけ思い出をください。それで私はあなたの御前から消えましょう」
言い終わるや否や、ヴェルナーはデリアの顎をつかみ、強引に上向かせた。驚きに目を見開いたままの彼女の唇に、己のそれを強引に合わせた。重ねた彼女の唇は甘くて柔らかい。その感触に酔いながら、彼は角度を変え、飽くことなく何度も何度も彼女を貪る。
「――んっ!? んんんーー!!」
噛みつくような勢いで降りてきた唇に驚いたデリアは、覆い被さる男の肩や胸を叩くが、一向に離れる気配がない。
食われるのではないかと思うほどの勢いに翻弄され、息も奪われ、息苦しさと得体の知れないざわめきに頭が朦朧としてくる。
甘い感覚に流されてしまえば楽なのではないか、という囁きさえ脳裏に浮かぶ始末。
認めるのは悔しいが、どうやら確かに自分はこのヴェルナーが嫌いではないらしいと自覚したが、しかし、こちらの意志を汲まないこの行為を許すかどうかは全く別次元の問題である。
おまけに、だ。今後、彼の言うことを少しは信じてみようと言う気になったのに、彼は勝手になにやら決めて、最後にしようとしているではないか。
驚きの連続のせいで吹き飛んでいた怒りが、またぶり返してきた。これはがつんと言ってやらなければ気が済まない。
とすれば、早くこの甘すぎるキスをどうにかやめさせなければ。
靴はさっき脱いでしまったので効果的な足踏み攻撃は出来ない。肩を叩いても胸を叩いてもびくともしない。残る手段は……爪だ。
デリアは自分に覆い被さる男の頬を思い切り引っ掻いた。
「っつ!!」
ヴェルナーは驚いたように体を離し、左頬を押さえた。
ようやく満足に息が出来るようになったデリアは、大きく肩を揺らしながら息をついた。その間も油断なく身構えながら、目の前の男を睨んでいる。
「当然の報いよ! 何を勝手に決めて、勝手に消えるとか言ってるわけ!! ふざるのもたいがいにしてよ。何なのもう、さっきから!! 私の意志はどうなるの!? 好きだとか言いながら自分勝手すぎるわっ」
(勝手なのは私もだけどね)
と、心の中に残った冷静な部分が自分の言動に呆れるが、あえてそれは無視する。
「しかし、陛下」
「な、なによっ」
「私は臣下として決して許されぬ過ちを犯しました」
「だから、消えると言うの? 過ちを犯したと言うなら、私の裁可に従うべきでしょう? 何で自分で決めるの!」
「しかし……」
「これからは少し真面目にあなたの話を聞こうかなって思ったのに! ああ、もう腹立たしいったらないわ! ねぇ、あなたって実はすっごい馬鹿なの? 馬鹿よね! 裏があるんだと思ってずっと悩んでいたけれど、全部無駄だったんじゃないの。損した気分よ」
呆気にとられた顔で、ヴェルナーが呆然とデリアを見下ろしている。
「今は混乱していて正しい判断が下せないので、あなたの処分は保留にします。とりあえず、その頬の傷は物笑いの種になるわね。いい気味だわ」
デリアが顔をツンと逸らす。その頬が少しばかり赤い。
「参り、ました……」
ぽつりと呟いたヴェルナーは、くすりと小さく吹き出し、その笑いは段々と大きくなって、終いには腹を抱えての爆笑に変わった。
「嫌だな、ますます惚れてしまったじゃないですか」
「はいっ!?」
(この男はどう言う思考回路をしているの!?)
あきれ果てて、素っ頓狂な声が口をついた。
ヴェルナーは、デリアの胡乱げな眼差しを物ともせず、満面の笑みを浮かべている。
そして、おもむろに片膝をつくと、彼女の手を取り、手の甲に口づけた。
「寛大なご処置に感謝いたします、陛下」
「わ、分かったからお立ちなさい」
まだ混乱から抜け切れていないのか、乱れた言葉遣いのままそう言い、男の手を振り払った。
彼女の言葉に大人しく従い、ヴェルナーは優雅な動作で立ち上がった。
「とにかく! 私はもう部屋に戻ります。あなたも自分の仕事にお戻りなさい」
「そう言うわけにはまいりません。御身に何かあっては一大事。執務室までお供させていただきます」
「……あなたがそれを言うのですか、ヴェルナー」
お前以上の危険物がこの宮廷にそうそうあるわけないだろう、と言いたげな目で、じとりと隣を見やるが、睨まれた当の本人は屈託のない笑顔で小首を傾げるのだから、喰えない男だ。
(さっきまでのしおらしい態度はどこへ行ったの!!)
とデリアが思うのも無理はない。
こめかみあたりをぐりぐりと揉みほぐしながら、あずまやを出ようとして自分が靴を履いていないことを思い出した。
「陛下、こちらでございます」
デリアの思考を読み取ったかのような速さで、ヴェルナーが膝をつきながら小さな靴を差し出す。
「ありがとう」
礼を言いながら靴を履こうとして、はたと気がつく。跪く男の目の前で、足を晒しながら靴を履くのは些か恥ずかしい行為ではないか、と。
躊躇っていると、ヴェルナーが不思議そうに見上げてくる、その視線とぶつかった。
邪気の感じられないその視線に、自分だけが妙な事を意識していたのかと気恥ずかしくなってくる。
デリアはままよとばかりに靴を履き、ヴェルナーが立ち上がるのも待たずに踵を返した。
その様子を充分に堪能した彼は素早く立ち上がり、幸せそうに彼女の半歩あとを歩き始める。
正反対に、前を行くデリアは非常に不機嫌な顔をしていた。
(ああもう、何が何だか分からないし、疲れたし、混乱してるし、こんな状態で執務室に戻って大丈夫かしら。さっき書いた書類が書き直しにでもなったら、私、魂抜けちゃうわ)
デリアは大きく肩を落として、ため息をついた。
(それもこれも全部、ヴェルナーのせいよ!)
振り返ってキッと睨めば、ヴェルナーは「どうしましたか?」と、いつも通りの飄々とした態度だ。それは腹立たしいのだが、彼の頬に残る盛大な蚯蚓腫れを目にして溜飲を下げた。
彼が周囲の者から傷の理由を尋ねられた時「この世で一番可愛い子猫に引っ掻かれました」と答えていることを知り、デリアはひとり憤慨するやら、いたたまれない気持ちになるやらで、大層もだえることになるのだが、それはまた後の話。
女王は果たして彼に絆されるのか、それとも逃げ切るのか。
それもまた後の話。
ふたりの関係は変化を迎えたばかりである。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




