女王陛下は憤慨したい
東のあずまやは大輪の薔薇の生垣に囲まれ、馥郁たる香りに包まれている。だが、その香りは決して持参した菓子と茶の匂いを妨害しない。いや、違う。
ここで食べるだろうことを告げられたリリィが、花の香りを妨げず、また香りと喧嘩しないような菓子と茶を用意したと言うのが真実だろう。
デリアは満足げにあたりを見回す。
幾重にも重なる花の垣根。さらさらと流れる小川の音。遠くの噴水には虹がかかっている。とても贅沢な眺めである。
一人、もしくはリリィと一緒だったらきっと靴を脱いで裸足で芝生の瑞々しい青さを堪能したことだろう。そして、楽しく笑い合いながら菓子を摘まんだことだろう。
だが現実はいささか気づまりである。
(あーあ。なんで私、こんな素敵な昼下がりにヴェルナーと顔をつきあわせてお茶を飲んでいるのかしら)
真正面に陣取った男は、周りの景色になど全く頓着せず、ただひたすらデリアを見つめてはにこにこと上機嫌に笑っている。
彼女は、ヴェルナーのその振舞いに、かすかな頭痛を覚えた。
(何が嬉しくて私なんかの顔を見つめているわけ!?)
それが女王の夫の座を射止めるための、『女王に恋する男』の演技だとしたら……。気持ち悪いを通り越して、逆に天晴れと言いたくなる。
ヴェルナーは事あるごとに、デリアを『つれない人だ』『酷い人だ』と甘い声でなじる。だが……
(本当に酷いのはあなたのほうでしょう?)
デリアは彼から視線を外したまま、小さな吐息を洩らした。
女王の夫の座が欲しいのなら、正直にそう言えばいい。それならまだ割り切りようがあるというもの。利害関係のみを考えてれば、このヴェルナーは女王の伴侶として申し分ないのだから。
(それなら政治的な問題として、考慮しようものを)
しかし、心ごと攫おうとするような、そんな手は卑怯だ。
今まで事あるごとに、歯の浮くような台詞を浴びせられ、突拍子もない行動に振り回されてきた。だがそれももうそろそろ終わりにしたい。
それでなくても頭の痛い問題が山積しているのだから、この男に煩わされるのはさっさと終いにしてしまいたいものだ。
となれば、これはちょうど良い機会ではないか? 幸い、他に人はおらず、時間にも余裕がある。これを逃がせばいつ次のチャンスが巡ってくるか知れない。
「ヴェルナー。あなたに言わねばならないことがあります」
「何でしょうか」
屈託のない笑顔で首を傾げられれば簡単に決心が揺らぐ。が、このまま躊躇っていれば、しびれを切らしたヴェルナーがまたあれこれと鬱陶しい台詞を紡ぎ出すに違いない。言いにくいことはさっさと言ってしまうに限る。
「今まで何度も言っていますが、私のことはもう放っておいて頂きたいのです」
「それはどういう意味でしょうか、陛下」
「文字通りの意味です。あなたが並べる美辞麗句にはもう飽きました。見え透いた嘘をつかれるのは気味の良いものではありませんのよ」
「あなたは全く私の言葉を信じてくださらないのですね」
「当たり前でしょう? 私は……自分の外見を重々承知しています。あなたの言葉を真に受けられるほど世間知らずでも身の程知らずでもないつもりです」
理性で割り切っても、自分で自分を醜いと言い放つのは惨めだ。だが、そう思っていることを目の前の男にそれを悟られるのも業腹だ。デリアは不自然に見えないように素知らぬ風を装いながら、横を向いた。
視線の先で、真っ赤な薔薇が優雅に咲いている。あの花のように美しかったら一生こんな惨めな思いもせずにすんだのに、と。言っても詮無い不満がわいてくる。
なんでこの男といるとこんなに感情がかき乱されるのか。
とうの昔に割り切ったはずなのに、その殻を破って我が儘な感情が湧きだしてくる。それが自分をダメにしてしまいそうで嫌だ。嫌なのにこの男の言動は殻に入ったヒビを強引に押し広げてくるのだ。
「私はもう少しここで休んでいきます。私には構わず、もうお戻りなさい」
虚勢が綻びる前にさっさと立ち去ってほしい。
なのに、目の前の男は立ち上がる気配さえ見せない。
いったい何をぐずぐずしているのかと苛立ちながら真正面に向き直り、彼女は驚きに息を飲んだ。
この男は一体誰? と思わずにいられないくらいに表情を消したヴェルナーがじっと彼女を見つめいていた。立ち上がるどころか、テーブルに乗せた手を軽く組み、しっかりと話し合う姿勢になっている。
「どうあっても、私の言葉は信じて頂けないと?」
当たり前だ。小さい目を煌めく星だの、特徴のない茶色の髪を甘そうだだの、その他諸々。
「耳を疑うようなお世辞の山を築いたのはあなたではないですか」
何を今さら、と皮肉げに笑えば、目の前の男はますます無表情になる。そのうえ、周りの温度まで下げて行くのだから始末が悪い。事実を言ったまでなのに、なぜかデリアは自分が悪いような気分になってくる。
「ではどうすれば、私が本気だと信じていただけるのでしょうか」
今まで耳にしたことがないような低い声で男が問う。その迫力にびくりと震えそうになる肩をなけなしの矜持で抑えたデリアは、真正面から彼を睨んだ。
『どうすれば』なんて聞いてくるのは卑怯だ。自分の言葉を他人に信用させたいのならそんなことを尋ねるより先に、信用に足るだけの何かを成せばいい。なのにこの男は、信じないデリアが悪いと言わんばかりだ。
なぜ責められねばならないのか、と腹が立つ。そして、一瞬でも怯んでしまった自分がもっと腹立たしい。
「愚かな問いに答える必要はありません」
悔しかったら信用させてみろ、と。言外に言い放って席を立った。
「あなたが下がらないのであれば、私が戻ります。なかなか有意義なひと時でした」
立ち上がり、踵を返したデリアは不意に手首を引っ張られてバランスを崩した。彼女の手首を強引に引いた手が勢いのまま、彼女の背をあずまやの柱へ縫いとめる。
ヴェルナーの右手はデリアのすぐ横の柱へ、そして左手はあずまやを囲んでいる柵へと延ばされ、デリアの身動きを封じる。
それだけでは拘束が足らないとでも言いたいのか、男は長身を良いことに、彼女の体に覆いかぶさるようにして、見下ろしている。
のしかかる男のせいで陰った視界が、デリアの混乱を呼び起こす。
「手を、はなしなさい、ヴェルナー。これはあまりにも無礼な振舞い」
男の力に敵うわけがないと理性で分かっていつつ、それでも足掻かずにはいられない。左手を拘束されたまま身をよじるが、ただ手首が痛むだけで終わった。歯を食いしばりつつ元凶の男をねめつければ、男はさも楽しそうに唇を吊り上げている。
「不敬は元より承知。後ほどいかような罰でも喜んでお受けしましょう。首を刎ねると仰るなら喜んでこの首を差し出します。それはそれでなかなか楽しそうだ」
顔は笑っているのに眼差しだけが真剣で、それが返って不気味さを増す。
「あなたが私の死刑を命じる。それはあなたの手で死ぬということだ。そして、あなたが私を殺したと言う事実は未来永劫消えない。ねぇ、それはなかなかに素敵なことだとは思いませんか? 忘れ去られてしまうより、ずっと良い」
ヴェルナーはうっとりと目を細めて笑みを深め、その様子を間近で見てしまったデリアは理解できない彼の思考に戦慄した。
「ふざけた事を言っていないで、手をどけなさい。今ならまだこの無礼は不問といたしましょう」
「いいえ。忘れ去られるくらいなら、罰を受けたほうがましだ」
左手の拘束が解かれ、安堵したのもつかの間。今度は頤を掴まれて強引に仰向かされた。否が応でもヴェルナーの得体のしれない瞳と対峙しなければならない。
やっと両手が自由になったのだから何とかなるだろうと安堵したのは間違いだった。顎を固定されるのは、思っていた以上に身動きがとりにくい。
今、バランスをとるため左手を乗せている柵は、腰よりも低い。少し体をずらして後ろに倒れれば、柵の向こうに落ちられるのではないか? だが、仮にそうして逃れることが出来たとして、その代償にひっくり返るなんて無様な格好を晒すことになるが。ついでに上手く受け身をとらないとその後逃げ出すことも難しい。わたわたしてるうちに、この男にあっさり捕まってしまうだろう。
さて。どうしたものか、とデリアは混乱しつつ、思考を巡らせる。考えるのをやめたらそこで負けだ。
(とりあえず、靴は脱いだ方が良さそうよね。ヒールのある靴では走りにくいわ)
泥や草に塗れた姿で執務室に戻ったら、大騒ぎになりそうだがそんなもの知ったことか。後のことは後で考えればいい。
デリアは逃げ出す算段をしつつ、そっと靴を脱いだ。――つもりだったのだが、落ちたヒールがかたい床にぶつかって、ことり、と音を立てた。
(しまった)
思ったが、もう遅い。
耳ざとくその音を聞きつけたヴェルナーが小さく目をみはり、それからさも楽しそうに口の端をつり上げた。
ばれたと焦ったが、同時に肝が据わった。そもそも何で自分がこのような形で追い詰められなければならないのか。全くもって意味が分からない。理不尽な要求に断固あらがうことに何の躊躇いが要る? ばれたからには時間がない。男が動くより先に動かねば勝機はなくなる。
デリアは顎にかかる手を払いのけ、同時に思い切り重心を後ろへ移動した。
「残念ながら逃げられませんよ」
デリアが動くのとほぼ同時にヴェルナーの腕がデリアの腰に回り、引き寄せられた。ダンスを踊るときのように、いや、それ以上に体が密着する。
これではまるで恋人同士が抱き合っているようではないか。そう思い至った途端、彼女の頬が真っ赤に染まる。
男の胸に手をつき、腕をつっかえ棒にしながら距離をとる。が、ヴェルナーにとっては可愛らしい抵抗でしかない。片腕を彼女の腰から外して、少し力を込めて抱けば彼女の腕などいとも簡単に押さえつけてしまえる。
なのに抵抗をやめない彼女が愛おしく、さらに意地悪な振る舞いをしてしまいたくなった。
「やってみなければ分からないでしょう?」
憤りも露わな目でにらみあげてくる彼女に、ヴェルナーの心が甘くうずく。
「ああ、そうです。あなたのその気概が大好きなんです」
胡散臭いと言わんばかりに眉をひそめるデリアの顔を、男はうっとりと眺めた。
1/6、誤字修正しました。
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