女王陛下は迷いたい
午後の日差しが柔らかく入る執務室に書類をめくる乾いた音と、ペンの走る音が響く。
デリアは書き終えた書類を脇によけた。これが最後の一枚だ。
はぁ、と息を吐き出して大きく伸びをする。
補佐官がいれば「はしたない」と小言を言われるだろうが、幸いなことに彼はいま席を外している。
署名し終わった書類を彼に渡し、不備がなければ今日の仕事はこれで終わりだ。
「彼が戻ってくるまで休憩してて良いわよね」
寝不足の体にうららかな日差しは魔物だ。眠気を吹き飛ばそうと換気のために窓を開ける。途端に新鮮な風が吹き込んで、彼女の上気した頬を冷ました。
「気持ちの良い風ねぇ!」
気持ち良さげに目を細めて、眼下に広がる庭園を眺める。オストール宮廷が誇る中庭である。農業国……それは植物の育成に長けた国を意味するのだから、国の威信を賭け、最高の庭師たちの手で、完璧に整えられている。
デリアとて国外からやってきた賓客に庭園を褒められれば、我が子を褒められたように嬉しい。その自慢の庭は一番良い季節を迎えて、百花咲き乱れている。
一番良い季節なのに、それを堪能することも出来ず一日中執務室に閉じ込められていたのでは割に合わない。そんな不満がふつふつと湧いてくる。
(今日こそゆっくり散歩するんだからっ!)
「陛下」
不意にかかった声に、デリアの心臓がどきりと跳ねた。
(こ、この声はっ)
慌てて周囲を見渡せば、窓の下の歩道に人影がひとつ。
「ヴェルナー!」
「ご機嫌麗しゅう、我が女王。――先日はまこと夢のようなひとときを……」
「ヴェ、ヴェルナー!!!」
デリアは慌てて彼の言葉を遮った。もちろん彼は数日前に開催された夜会の事を言っているのだが、聞きようによってはもっと深い『何か』があったように聞こえてしまうではないか。
真っ赤になって、魚のように口をパクパクさせている彼女を見上げながら、ヴェルナーは精悍な顔に、どこか意地悪気な笑みを浮かべた。
「これは失礼いたしました。まさか、このような形で陛下にお目にかかれるとは思いもよらず、つい我を忘れはしゃいでしまいました」
満面の笑みを見下ろしながら、デリアは小さく眉をひそめた。
(……確信犯ね。本当にいけ好かないったら!)
「世辞は要らないと、何度言えば分かるのですかっ」
威厳を込めて言ったつもりが、少しばかり声が上ずった。
「世辞ではございません、と、私も何度も申し上げております、陛下」
「……話にならないようね。もう結構。自分の仕事にお戻りなさい」
「――御意のままに」
やけにあっさり引き下がったことを少し不思議に思ったものの、そんなことは些末なこととばかりに、デリアはさっさと退却を決め込んだ。
そそくさと窓際から体を離し、近くのソファに座り込んだ。
(ああ、驚いた。もう! 何であんなところにヴェルナーがいるのよぉ……)
せっかく気持ちの良い風にあたっていたと言うのに台無しだ。気分転換さえ満足に出来ないなんて、少し酷くないだろうか? と頬を膨らます。
彼と話すと調子が狂ってばっかりだ。それが腹立たしくもあり、怖くもある。先日の夜会でもそうだ。優しいかと思えば強引で、意地悪かと思えば頼もしい。女王とあろうものが一臣下に振り回されっぱなしだった。それでも一応、ヴェルナーはデリアの体面に配慮して、他人にそれと分かるような事はしなかったが、だからこそ余計に憎々しいのだ。
そして一番困ったのが、惜しげもなく、そして歯の浮くような甘い言葉ばかり並べ立てることだ。
貴族たちの世辞など右から左に聞き流す術など、とうの昔に修得済みだと言うのに、何故か彼の言葉だけは、耳を通り抜けず、心に溜まってしまうのだ。それがいつか溢れてしまったら……
(きっと彼の言葉を真に受けてしまう)
だから放っておいてほしいのに。
(なぜ事あるごとに顔を出すわ、話しかけてくるわ、ちゃっかりエスコート役におさまってるわするわけ!)
自然と寄ってしまう額のシワを、ぐりぐりと指で解していると、軽くノックの音が聞こえた。所用で出ていた補佐官のレオナルトが戻ってきたのだろう。デリアは顔も上げずに短く「どうぞ」と答えた。
「失礼いたします」
ん? と違和感を覚えた。聞こえた声がレオナルトのものとは違う気がする。が、そんなはずはない……はずだ。女王の執務室に気軽に入って来られる男がそうそういるわけがないのだから。
「だいぶお疲れのようですね」
(この声!!)
声の主に思い至って、デリアは跳ね起きた。
「ヴェルナー!? えっ、なっ、どっ?」
だらしなくソファに座り込んでいるところを見られた彼女は、真っ赤になりながら目を泳がせている。ヴェルナーはその様子をさも嬉しそうな目つきで眺めている。
「陛下。それはどうして私がここに居るのか、とお尋ねでしょうか?」
「そ、その通り、です。わ、私は先ほど、自分の仕事に戻るよう命じたはずです」
こくこくと頷けば、男はますます嬉しそうに目を細めた。
「ご心配には及びません。これも仕事のうちでございますから」
「仕事のうち、ですか?」
「はい。今しがたレオナルト様にお会いしまして、陛下への伝言を預かってまいりました。もう少し時間がかかるそうで、少しお休みくださいとのことです」
「あら。そうなの。伝言は確と受け取りました。ヴェルナー、ご苦労様でした」
言外にもう下がれと言ったつもりなのだが、ヴェルナーは動かない。宮廷で生きる者がその程度の事を察しないわけがない。これもまたわざと気付かないふりをして立ち去らないでいるのだ。
何の嫌がらせかと、デリアの柳眉が吊り上がった。どうやらはっきり『下がれ』と言わなければいけないようだ。渋々口を開きかけたが、それより先にヴェルナーが話し出した。
「もしよろしければ、少し散歩をいたしませんか? ああ、レオナルト様の了解は頂いております。それからこれを。リリィ殿に事情を話したところ、用意してくださいました。陛下のお好きな菓子の詰め合わせだそうです」
悪戯っぽく片目をつむりながら、彼が掲げた手には小さなバスケットがひとつ。
「飲み物も用意して貰いました。東のあずまやあたりで召し上がりませんか? 一日中執務室にこもっておられては気が滅入ってしまうでしょう。それでは良い案もなかなか思い浮かばなくなってしまいます。気分転換も仕事のうち。そうは考えられませんか?」
何と言う悪魔の囁きだろう。散歩と菓子の誘惑に加えて、罪悪感を薄れさせるようなこじつけ付き。ここまでお膳立てされて気持ちが揺らがないはずがない。
(だ、誰が口車なんかに乗るものですか!)
と、強がって見ても、籐で編まれたバスケットの隙間から甘く香ばしい焼き菓子の匂いが漂って来るものだから、どんどん抵抗心が薄まって行ってしまう。
(だって、休憩して良いっていったのはレオナルトだものね。ちょっとぐらいなら、ヴェルナーに付き合ってあげても良いかも……)
彼女が激しい葛藤の最中だと分かっているようで、ヴェルナーは返事を急がすでもなく、ただ楽しそうに彼女の顔を見つめている。くるくると変わる表情が、さも愛らしくてたまらない、と言った風情で。
少し時が流れ、長考から現実に戻ったデリアは小さく首を縦に振った。彼の提案を飲んだのがよほど心外だったのか、恥ずかしそうにすぐ横を向いてしまった彼女は、だから知らない。
ヴェルナーがホッと肩の力を抜いたことを。
1/6、誤字報告ありがとうございました。
訂正させていただきました。