女王陛下はあがきたい
ヴェルナー・グリプス。グリプス侯爵の次男。
デリアの即位とほぼ同時期に留学から戻った男だ。その後は経験を生かし、外交を担当する部署でその手腕を発揮している。異例の早さで出世の階段を駆けあがっている、将来有望な若手貴族だ。
陽気で溌剌とした物言いと、その性格に似つかわしい明るい美貌。家柄も良いが決して奢ることはなく、周囲への気配りも完璧であり、誰にでも優しく紳士的な態度を崩さない。となれば、年頃の娘の噂の的となるのは必定。
しかし黄色い歓声を上げて騒ぐ娘達を尻目に、デリアはヴェルナーを大の苦手としていた。
(あの笑顔が胡散臭い! 何考えてるのか分からなくて気持ち悪い! だいたいあんな異常な速さで出世する男がただの好男子なわけないじゃない!!)
それも海千山千の老獪な狸と、狡猾な狐と、底の知れぬ大妖怪の化かし合いが日々繰り広げられてる外交の、その担当の文官なのだ。
「オオダヌキ予備軍に決まってるじゃないのっ! ――いいえもう立派なオオダヌキよ。そうよ、そうよ、あと五年もしたら立派な化けダヌキになるんだわ」
頭からシーツを引き被って、広いベッドの真ん中でじたばたともがく。
「デリア様、いい加減になさいまし。本日は午前のお仕事がないとは言え、そろそろ起きて朝食を召し上がっていただきませんと」
声と共にシーツがはがされ、中からは髪をぼさぼさにした寝間着姿のデリアが現れた。
「えー! せっかくの休みぐらいのんびりさせてよ、リリィ」
「何をおっしゃいますか! 昨夜の夜更かしで痛んだそのお肌と、寝ぐせでボロボロなその御髪をどうなさるつもりなのです!? 今すぐ手入れを始めなければ午後の謁見に間に合いませんわ!!」
(手入れしたって元が元なんだもの、やるだけ無駄ってものでしょうに)
と心の中で思っても口に出さないだけの賢明さぐらいはデリアも持ち合わせている。
このリリィと呼ばれた侍女は彼女の乳兄弟だ。幼いころからの長い付き合いなぶん、言うことに容赦がない。ひとたび『私なんて』などと卑屈なことを言おうものなら、百倍の反論が返って来るだろう。
他の侍女相手なら言いくるめてもう少しゴロゴロする時間を確保できるだろうが、リリィが相手では無理だ。デリアは渋々と寝台から降りて寝間着のボタンを外し始めた。
「そう言えば、昨夜はいかがでしたの?」
「――私よりあなたのほうが詳しいんじゃなくて、リリィ?」
きっと侍女の間では朝から昨夜の話題で持ち切りだろう。
「もう! そう言うことではございません、デリア様。デリア様のご感想をお伺いしたいのです」
「どうもこうもないわ。いつものとおりよ?」
「んまぁ! あのヴェルナー様がエスコートなさったんですよ? 少しは進展がございましたのでしょう!?」
何なんだ、その決めつけは! と反論が湧く。
着替えを終えて、窓際の椅子へ腰をかける。朝食の前にここで茶を一杯飲むのが、遅く起きた朝の習慣である。
手渡された良い匂いのそれをゆっくりと飲みつつ、彼女はつまらなさそうに頬杖をついた。
(どうして、どいつもこいつも私とあの男をくっつけようとするの!?)
「ねぇ、リリィ。何度も言うけど、私はヴェルナーを婿に迎える気はないわ」
「なぜですの? あのお方ほどデリア様にお似合いの殿方はいらっしゃいませんわよ? 家良し、顔良し、性格良し、語学堪能で、切れ者で、おまけに武術にも長けていらっしゃる。三拍子どころか四拍子も五拍子もそろっている超優良物件でしてよ!?」
褒めているようで、物件扱いとは失礼な、と呆れながら、デリアは乾いた笑いでやる気のない相槌を打つ。
「それよりも何より、あの方は心からデリア様を愛していらっしゃるのですもの! 愛してくれる殿方と結ばれるのが一番の幸せではありませんか」
「――ぶっ!?」
リリィの爆弾発言で、思い切り茶を噴いた。淑女にあるまじき失態である。
ひとしきり咳き込んだ後、差し出されたタオルで顔を拭きつつ、リリィの言葉を反芻する。
「ねぇ、どこを、どう、見たら、あの人が、私を、好いているように、見える、の?」
「あら。どこもかしこも、でございますわよ?」
苦しい息の下から怒りを込めて尋ねても、リリィは涼しい顔だ。
「気付いてないのはデリア様だけですわね。聡明と名高い女王陛下もご自分の恋路には疎くていらっしゃるのですね。お可愛らしいですわぁ」
要するに鈍感だと言いたいのか? と上目づかいで睨んでも、幼馴染には効果がない。
「早く二人お子様の顔が見たいですわ。先王陛下もそう仰っておられるとか」
揚句に、また爆弾が落とされた。
「うっ!? お、お黙りなさい、リリィ! そんな根も葉もないことをよくも抜け抜けとっ」
とうとうデリアが切れた。
(どうしてみんな、ヴェルナーの好意を疑わないの? あの者はきっとただ権力が欲しいだけ。 そう。彼は私ではなく、私の玉座に好意を抱いてるのよ。私みたいな醜女、簡単に籠絡出来るなんて思いながら陰で笑っているに違いないわ。何故それが分からないの?)
「あの者が私を好きだ? ふざけるのもたいがいにしなさい!」
手近にあったクッションを投げつけるが、護身と警護を兼ねて様々な武術をかじっているリリィは難なく受け止めた。
「あら、こちらのクッションは気に入りませんでした? では別のものに御取り替えいたしましょう」
分かっているくせに、そんなとぼけたことをしれっと言い放つのも憎たらしい。
「――デリア様。貴女様は、贔屓目を抜きにしても、充分に魅力的な女性であられます。どうかご自分を卑下するのはおやめください」
「それが贔屓目だって言うのよ」
口調を改めたリリィが真剣な顔で告げても、デリアは疑いの眼差しを返すだけだ。困ったものだと心配性の侍女は、人知れずため息をついた。
敏いデリアは早くから自分の見た目と、それに対する周囲の評価をよく心得ていた。
周りの令嬢たちが容姿を磨くことに興味を覚え、沢山の失敗と成功を糧にどんどん美しくなっていく頃、彼女すでに自分に合うもの合わないもの取捨選択し終えていたように思う。
華美にならず、かと言ってみすぼらしくもなく。つまり『平凡』の範囲で収まる大人しい服装や化粧を選び、その範を超えることがなかった。
舞踏会に出るよりも歴史書や農業書を読むほうが好き。見目の良い殿方のうわさ話で盛り上がるより、武官文官たちから国内外の話を聞くのが好き。そんな一風変わった少女は、しかし真っ直ぐに育ち、為政者としても、個人としても、非常に魅力のある女性となった。
ずっとそばで見ていたリリィはそれを熟知している。
デリアの唯一の欠点は、己の容姿を必要以上に卑下していることだけだ。それがリリィには歯がゆくてならない。いつかどこかで折れてしまうのではないか。そんな不安さえつきまとう。
侍女の彼女では、デリアを支えるにも限界がある。
(デリア様には、生涯支えてくれる伴侶がいてくれるといいんだけど)
それはリリィだけでなく、周囲の者たちの総意でもあった。
並み居る年ごろの青年貴族の中で花婿候補を考えて見れば、必ず名前が挙がるのがヴェルナー・グリプスその人である。挙がるどころか最有力候補なのだが、何故か当のデリアは彼を苦手としている。
周囲の者が理詰めで説き伏せれば、聡明なデリアは最終的にヴェルナーとの婚姻に首を縦に振るだろう。だが、それは最終手段だ。
出来ることなら自然に恋に落ち、その結果として幸せな結婚をして欲しい。女の身で一国の命運を背負う宿命を義務付けられたデリアには、普通の娘としての幸せはなきに等しい。せめて、生涯の伴侶くらいは彼女の意志を汲みたいものだ、と。もしも、彼女が他の男と恋に落ち結婚したいと言うのならそれもいい。ただし、その相手の男が相当の痴れ者であったのなら話は別だが。
デリアは周りの者にそう思われるほどには、敬愛される君主であった。
(でも、本当は、出来るだけヴェルナー様と結婚して頂きたいんですけどね!)
それもまた周囲の者の本音だ。
だって、そこに申し分のない花婿候補が転がっていて、なおかつその花婿候補は女王に事のほか執心しているのだ。
デリアさえ、首を縦に振れば万事解決、国家安泰なのだから。
(ああもう、どうしてデリア様はこんなに頑ななのかしら!? ヴェルナー様がデリア様に恋い焦がれているなんて、洗濯女だって馬丁だって知ってるわよ)
リリィはグッと拳を握りしめて、脳裏に浮かべたヴェルナーの姿に向かって、気合の入ったエールを送った。
(ヴェルナー様! 何としてでもデリア様を落としてくださいませ!!)