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雑多小説倉庫

鍔迫姉弟 前編

作者: 腹黒ツバメ



 あの一本が、俺を変えた。


 遮二無二振り下ろした一撃は、予測していたよりも遥かに流麗な軌道を描き、相手の脇腹を捉えた。

 竹刀と防具が衝突した爽快な音が、体育館に響き渡る。

 そして――

 主審が「胴あり!」と宣告する声も、驚嘆の入り混じった仲間たちの歓声も、不思議と俺の耳朶には遠く聞こえて、


 憧れの姉に初めて試合で勝った瞬間は、喜びではなく困惑が俺の胸裏を埋め尽くしていた。



〈鍔迫姉弟 前編〉



 階上の窓から暖かい春の陽射しが差し込む中学校の体育館。

 放課後のここは、毎度のごとく各部活動に励む生徒たちで溢れ返り、いかにも体育会系らしい雄叫びが無秩序に飛び交っていた。

 そんな喧騒の中、館内の一角で一際大きな叫び声が反響する。

英次(えいじ)! 気が抜けてるぞ!」

 俺を名指しで叱咤した声は、眼前に立つ防具と白袴を纏った女性から発されたものだ。面金の奥の双眸は憤怒に燃え盛っている。

 反射的に俺は浅く頭を垂れ、

「……ごめん、姉ちゃん」

「部長と呼べ。それと、敬語も忘れるな」

「は、はい!」

 迫力の押し寄せる言葉に、慌てて返事を取り繕う。

 喝を入れるためだろう、姉ちゃんもとい部長は竹刀を降ろして歩み寄ってきた。他の部員には稽古を続けるよう大声で指示していたが、突き刺さる好奇の視線は消えない。

 市立松葉(まつば)中学剣道部。顧問から部員一同に至るまで素人だらけの、弱小剣道部だった――姉ちゃんが入部するまでは。

 俺たち姉弟は小学生の頃からの剣道経験者で、特に姉ちゃんは地元では有名な剣道少女だった。

 そんな彼女がこの公立中学の寂れた剣道部に入部し、お遊び程度で竹刀を握っていた部員たちを徹底的に鍛え上げたのだ。とはいえ、他校の実力者と比べればそれも付け焼刃、一年遅れて俺が入部した更に翌年の現在でも、大会で好成績を残しているのは彼女ひとりなのだが。

 しかし姉ちゃんも三年生なので今年中には引退、懸念なくこの部を去るために次期部長候補筆頭である俺への指導に一層熱を上げていた。

「最近集中力がないぞ。もっと真面目に練習しろ」

 しかし、ゆえに稽古の最中は決して俺のことを弟扱いしない。不甲斐ない後輩として厳格に技術を教え込んでいる。

 俺も剣道が好きだし、強く凛々しい姉のことを先輩として尊敬していた。だからこうやって彼女の言葉を――自分で言うのもなんだが――真摯に受け止めている。

「返事!」

「――はいっ!」

 丹田を震わせ声を出す。そうして、距離を置く姉に合わせて剣を構えた。

「じゃあまた始めるよ!」

「はい!」

 交わした叫びを合図に、俺たちは打ち合い稽古を再開した。

 そして頭の片隅で考える。――姉ちゃんの台詞は的確だ。実際に、近頃の俺はどうにも稽古に身が入っていなかった。練習を真剣に取り組むことができずにいた。それは、この体育館で“あの一本”を決めてからだった。

 次の大会は二週間後――入賞すれば、年に一度の県大会への切符が手に入る。腑抜けている場合ではないのだ。


 けれど、結局下校時刻まで、俺は稽古に熱意を注げないまま竹刀を収めた。




 その日の晩、両親と姉と俺、向き合って食卓を囲む。夕飯時は一家団欒を心がけるのが我が島本(しまもと)家の伝統だ。

 普段と変わらぬ家族との日常。会話の中心にいるのは、やはり姉ちゃんだった。

「ひかり。最近は剣道部の方にかかりきりみたいだが、勉強は大丈夫か?」

 という父の問いに姉は、

「心配ないよ。予習復習はちゃんとしてるから」

 余裕の表情で、焼き魚を咀嚼しながら答えた。

 姉ちゃんは文武両道の鑑のような人物で、授業の成績も学年トップクラスだ。その上血縁でも息を呑むほど容姿端麗のため、弟としては誇らしい反面、すこぶる肩身が狭い。

 当然、姉が両親から受ける期待も大きいので、父さんとは毎日のようにこういった問答を繰り返している。

 父さんは腕を組んで大仰に頷いて、

「そうかそうか。まあ、ひかりを心配する必要はないか。それに引き替え……」

 呆れたような視線と話の矛先がこっちに向いたのを察して、俺は俯いて食事に集中するフリをした。

 ――自慢できる話ではないが、俺は姉ちゃんみたいな完璧超人とは程遠い。成績は中の下、容貌も十人並みだし、唯一の取り柄といえる剣道だって目立った実績はないのだ。

 一年遅く生まれただけで、なぜ姉弟でこれほど差がついたのか――こっちこそ親に抗議したいくらいだ。

「英次、おまえもひかりを見習ってだな――」

 実際にはそんなこと口が裂けても言えず黙秘する俺に、恒例のお説教が始まる。毎度のことなので適当に聞き流していると、

「待ってパパ。英次も頑張ってるんだよ」

 俺の右隣から反論の声。

 稽古のときは修羅のような姉ちゃんが、俺への叱責を中断すべく助け舟を出してくれた。そう、基本的には優しい姉貴なのだ。

 そして僅か口角を持ち上げた姉ちゃんが、ぽんと俺の肩を優しく叩いて堂々宣言した。まるで、自身の功績を誇るように。

「この間の練習試合では、初めてあたしに勝ったんだから」

 刹那、俺の心臓が跳ね上がった。姉の語る練習試合、そのときの体感が脳裏に鮮明に浮かび上がり、走馬灯のように駆け巡る。


 我武者羅に振るった竹刀――遠くに聞こえた声援――胴に打ち込んだ確かな手応え――


「ほう、そうなのか?」

 目を丸くした父が疑念混じりの瞳で俺を見た。弟は決して姉に敵わない――それが俺たち家族の間では常識だったから。

「……まあな」

 おざなりに頷き、白飯を口にかき込む。あまり積極的に語りたい話題ではなかった。

 傍目にも明らかな不機嫌を露わにした俺に、しかし父さんは実に嫌味な口調で続けた。

「だがおまえが出る試合は男子部門だからな。あまり調子に乗るなよ」

「ちょっとお父さん!」

 さすがに隣で聞いていた母さんが窘める。

「……わかってるよ。ごちそうさん」

 構わず俺はそそくさと夕食を食べ終え、食卓を立った。背中に不安げな姉ちゃんの視線を感じたが、無視して二階の自室へ直行する。

 しっかりと部屋の鍵を閉めると、俺はベッドに仰向けで寝転んだ。

「はぁ……」

 腹の奥に溜まった憂鬱とともに、溜息を吐き出す。

 ――やけに胸糞悪かった。

 でもそれは、父さんの台詞が原因じゃない。繰り返すが、有能な姉を持つ身としてはあれくらい日常茶飯事だ。父さんも、それをわかってこその辛辣な口調だったんだろう。

 だったら、この胸裏に渦巻く暗雲の源泉はなにか。

 自分でもわからない。俺はなにをそれだけ腹に据えかねているのか。

 ただひとつ確実なのは、この鬱屈と剣道に対しての怠慢の理由は、直結しているということ。

「あのとき……」

 眩しい蛍光灯を掴むように右手を掲げ、想起する。姉との練習試合を。入魂の一刀をぶつけた瞬間の感覚を。

 思えば稽古に身が入らなくなったのは、姉ちゃんから初勝利をもぎ取ってからだ。そして試合中の光景を思い出す度、隠しきれない苛立ちが心臓を揺さぶる。

 彼女への憧憬から竹刀を手に取った俺にとって、その戦果は金銀財宝にも代えがたい至高の価値を持っていたはずなのに――


 ――それなのに、むしろ俺から剣道への情熱を奪った。


 姉にいくら注意されても叱咤されても、ちっとも意欲は湧かない。脇目も振らず稽古に励んだ日々が、まるで遠い過去の記憶のようだった。

 不思議と今は、剣道のことなんか微塵も考えたくなくて。

 そんな自分に嫌気が差して自己嫌悪に陥って、余計にやる気を失って。

 無限に増殖を続ける負の勘定の靄を胸中に滞留させたまま、俺はいつの間にか眠りに落ちた。




 以降も、適当な気持ちで稽古に臨む無為な日々が流れた。

 部内で練習試合をすれば、同輩連中はおろか後輩からも容易く一本を取られる始末だ。悔しいなんて立派な感情は窺えず、ますます吸い取られる覇気。幾度となく姉ちゃんの怒声が飛んだが、俺の胸中にまるで影響はなかった。

 そうして迎えた大会前日。

 俺たち剣道部一同は空き教室で、出場選手を決めるミーティングをしていた。

 本来ならば顧問が主導するはずの議論だが、その顧問にはろくすっぽ剣道の経験がない。実質的に姉ちゃんの独断で出場者が発表されていった。

 けれど、どうせ今の俺には関係ない――そう思い、茫洋とした心持ちで窓の外を眺めていた。

 選手の名前が順に呼び上げられる。まずは団体戦、当然ながら先鋒から大将まで俺の出番はない。県大会に繋がる細い道筋、真面目に稽古に取り組まないような輩では役者不足だ。

 そして発表は個人戦に移り、次々に指名される部員の鬨の声を、俺は適当に聞き流し――


「島本英次」


 ――だから、姉の言葉に咄嗟の反応ができなかった。

「え……?」

 俺を呼ぶ声に、意識が唐突に現実へと引き戻される。当惑した俺はわけがわからず自分の顔を指差して呻いた。

 数秒遅れて、やっと“今、部長に名前を呼ばれる意味”を理解し、今度は驚愕に目を瞠る。

 すっかり腑抜けていた俺が試合に選抜されるなんて、予想だにしていなかったから。

 顔を上げれば、部員たちの注目を集める姉ちゃんが、鋭利な視線で俺を射抜いていた。

 刹那、腹の奥底で首をもたげるは強い拒絶の意志。

「でも……」

 べらぼうに情けない、逃避の言葉が口を衝いて出る。

「俺、最近勝ち星ないし、やっぱり他の人が出た方が……」

 部長の決定への抗議、それはこの剣道部において前代未聞のことで、にわかに周囲の部員がざわめき出した。八方から微かに漏れ聞こえる困惑のひそめき声が、鼓膜を埋めていく。

 彼らが発する雑音は次第に量を増やし、硬直した場面でやがてミーティングという統制からも逸脱を始め――


「黙りなさい!」


 激声を張り上げた姉が、正面の机を強く叩いた。

 教室中に伝播したその音と彼女の異様な迫力に押し黙る一同。

 誰もが固唾を呑んで見守る中、姉は揺れる俺の両眼を真っ向から睥睨し、険悪な声音で、

「いい? アンタを選んだのは、別に身内贔屓しているからじゃない。あたしから一本を奪った島本英次の潜在能力を買ったからなの。そこは勘違いしないで」

「…………」

 胸の奥で叫ぶ。――違う。俺は、自分の実力に不安があるわけじゃない。

 あんなに精魂注いだ剣道が、微塵も楽しいと思えなくなって。稽古も試合も、ただ煩雑になって。


 ――今は、竹刀を握りたくもないんだ。


 だが、有無を言わせぬ調子の姉の台詞に、ただ沈黙して目を逸らすしかできない。それが精一杯の抵抗だった。

 対照に、あくまで不動の姿勢を崩さない姉ちゃんは厳然と告げる。

「今回の試合結果で以降の選抜を決めるから、各自肝に銘じておいて。それじゃあ今日は解散」

 そう言葉を断ち切った彼女は、踵を返して教室を去った。

 瞬間、教室を覆っていた威圧感が失せ、張り詰めた空気が一気に弛緩する。あちこちから、小さい溜息が漏れたのを感じ取れた。

 そして、帰り支度を済ませた部員たちが次々に席を立って扉をすり抜けていく。

 後には、夕陽に晒されて呆然と座り込む俺ひとりが残された――







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