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赤点ヒーロー

作者: 片山でこ

赤点ヒーロー

片山でこ



   1



 住宅街の一角にある公園。傾いた夕日が影を長く引き延ばし、周りからはカレーや焼いた魚のにおいが漂ってきている。

 そんな公園の中で、悪ガキといった風貌の男の子たちが、尻餅をついた女の子を取り囲んでいた。


「やーい、変子変子。そんな格好、今時だれもしちゃいねえぞ」

「そんなフリッフリ、赤ちゃんでちゅかあ?」

「へ、変子じゃないもん……。礼子だもん」

「うっせえ、変子!」

「似合ってねえんだよ、変子!」


 フリルのたくさんついた白のワンピース。わたぼうしのようなその服は、転んでしまったため泥にまみれてしまっている。その裾を、女の子は目に涙を浮かべて握りしめた。


「こらあ、お前ら――」


 その時、礼子と彼らの間に、一人の男の子が土埃をあげて走り込んできた。


「礼子をいじめる奴らは、この俺が……ゆる、さん!」


 ガキ大将といった感じの彼は、Tシャツにプリントされている某昆虫ヒーローの決めポーズをとり、対峙した三人の悪者をにらみつけた。


「げ……、恭二だ」


 自分たちよりも一回り大きなヒーローの登場に、男の子らがそろって逃げ腰になる。


「い、いつもいつも二人で遊びやがって……お、お前ら夫婦ですかあ?」

「うるせえ!」


 一歩離れたところから軽口を叩く男の子に向け、彼はどんと足を踏み出すと、ぐぐと膝を屈めた。必殺技、ライダードロップキックの構えである。

 その痛みを思い出したらしい。男の子らは、そろって顔を引きつらせた。


「へ、へん! き、気持ちわりいんだよ!」

「変子と変二でお似合いですねえ!」

「ふ、う、ふ! ふ、う、ふ!」


 ほどなく、蜘蛛の子を散らすように逃げ出す悪者たち。その捨て台詞に、

「うっせえ!」と返して、彼は自分が助けた女の子に振り返った。


「礼子、もう大丈夫だからな」


 優しく声をかける。手をさしのべる彼の顔を見て、女の子はぱっと表情をほころばせた。


「――ありがとう、恭二くん」

「いいってことよ。礼子は俺がずっと守ってやるんだからな!」


 たんぽぽのように柔らかな笑顔。自分にだけ向けられるその笑顔を前に、彼は夕日よりも真っ赤な団子っ鼻を、誇らしげにこすりあげた。



   2



 十畳を超える広さのリビングダイニングキッチン。その奥にある畳敷きの寝室には広い押し入れがあり、収納力抜群。風呂トイレはセパレートで、もちろん洗面台だって完備。角部屋で南と西にベランダがあるこの部屋は、最寄り駅まで十分という好立地のマンションの二階にある。

 辺りと比べて少し割高となるこの一室は、自然の色を生かしたシンプルな家具で整えられ、家主の落ち着いた性格が目に見えるようである。


 しかし、そんな室内の様子は今、『落ち着いた』から『落ち込んでしまう』へと、はるかにグレードダウンしていた。

 とにかく、汚いのだ。キッチンのシンクには、カレーのこびりついた皿や鍋がそのまま置かれており、その他カップラーメンをはじめとするインスタント食品の容器が、やはり洗われずにそのまま残っている。その足下には、ラーメンの汁を拭いたタオルがそのままで置かれており、こちらはシミとなって完全に乾いてしまっている。

 その他、ぬぎっぱなしの靴下や服、そこらに散らばる漫画雑誌。丸まってかぴかぴになっているティッシュや、人の背丈ほどにまで積み重ねられた缶。特に、ソファー周りがひどい。おまけに電化製品のたぐいはすべて付けっぱなしで、どれだけの惰性を重ねればここまで汚せるのかという有様である。


「ただいま」


 そんな部屋に、二十代後半と思われる女性が入ってきた。彼女こそ、この部屋の主――藤森礼子である。

 モデルのような長身と凛々しい顔立ちに、ショートカットがよく似合う。メタリックブラックのスーツケースを片手に、黒のスーツをしわ一つなく着こなすその立ち姿は、凛々さゆえに若干の冷たく見えてしまう顔立ちと相まって、甲冑姿の騎士を連想させる。


「――さむ」


 礼子は部屋に入るなり、小さく体を震わせた。切れ長の目を鋭く動かす。その視線の先には、エアコンがごうごうと冷気を吐いていた。

 さらに視線をぐるりと動かす。そうして部屋の惨状を見渡すと、彼女は小さくため息をついた。


 これ以上転がしていけないスーツケースを靴箱に立てかけると、礼子は自分だけ部屋に上がった。

 ゴミの絨毯が敷かれたフローリングの上を注意深く進み、木目がきれいなテーブルにたどり着く。その上にあったリモコンを手に取ると、礼子はエアコンを停止した。それから、向かいに位置する窓まで歩いて行くと、足下まであるカーテンを全開にして、ベランダへとつながる大窓を開け放った。

 焼けるような夕日が、部屋の色調をオレンジに変える。夏のうだるような熱気が、冬のような冷気と混じり合う。

 そうして、礼子の肌にうっすらと汗が浮かび始めた頃、


「あっちい……」


 と、ちょうど日陰に位置するソファーから、一人の男が起き出した。

 伸びたTシャツと、くたびれたトランクスの間からはみ出る太鼓腹。伸び放題で清潔感のない髪に、顔の半分を覆う無精ひげ。その姿はまるで、カビの生えた裸の大将である。

 赤々とした団子っ鼻が特徴の彼は、柏恭二。実家を追い出されて以来、この部屋に寄生している礼子の幼なじみである。


「なら、その肉布団でもどければいいじゃない」

「あ、礼子。おかえり、早かったな」


 礼子の存在に気づいた恭二が、彼女の冷たい物言いなどなかったように振り返った。


「今回の事件は、明智さんがずいぶん早く眠ったのよ。それよりも、せめて寝るときは電気を消してって、いつも言ってるでしょう」

「いやあ、ついつい忘れちまってな」

「もう夕方よ」

「へえ。それにしても、本当に暑いな」


 山向こうに沈もうとしている夕日をどうでもよさげに眺めながら、ぱたぱたとシャツの襟を引っ張る恭二。その姿には、反省の色などみじんも見えない。

 礼子は疲れたように肩を落とすと、キッチンに移動し、冷蔵庫からペットボトルを取って、恭二に投げ渡した。


「おお、サンキュ」


 ボトルの先をかっぽりくわえ、恭二が大きくのどを鳴らし始める。

 その光景を横目に、礼子も冷蔵庫から十秒チャージで有名な栄養チューブを取り出した。そして、それを口にくわえると、玄関に置きっぱなしにしていたスーツケースを取りに戻った。


「またそんなもので済まそうとして。お前いっぱい働いてるんだから、ちゃんと栄養とらなきゃ駄目じゃねえか」

「いいの。栄養価はきちんと足りてるんだから」


 呆れ気味に声をかけてくる恭二を軽くあしらいながら、礼子はゴミをどかして、スーツケースの荷ほどきを始めた。

 スーツケースの中には、落ち着いた色調のワイシャツが数着、それに下着や小物類が、いくつもの小袋に分けられて入っている。礼子はそれらを、次々と寝室の衣装だんすや洗濯かごに片付け、ついでに飲み終えた栄養チューブも、きちんとゴミ箱に捨てた。

 迷いのないその作業に、中身はあっという間になくなっていき、後は底の方に入れてある貴重品を残すばかりになった。


「――ちょっと待った」


 その時、恭二が声をあげた。時計を片付けようとしていた礼子が、驚いた様子で立ち止まる。


「なに、恭二くん?」

「その時計は寝室じゃないって。こっちのテレビ台の中だ」

「あ……、うん。そうだったわね」


 間違いを指摘され、礼子は言われた通りの場所に時計を片付けた。

 その間に、恭二はソファから身を乗り出して、スーツケースの中身を確認し始めた。そして、何が残っているのかを把握すると、得意げに指示を出し始めた。


「あのペンダントは寝室の衣装だんす。指輪は本棚の上のケース。通帳は押し入れの中で、印鑑は救急箱だからな」

「分かってるわ」

「あと、クレジットカードは食器棚の中。キャッシュカードは冷蔵庫の中、札束は額縁の裏の封筒だ」


 次々と出される指示の声。偉そうだが、しかし間違いではないその声に従う形で、礼子が部屋の中を縦横無尽に移動する。

 そして、財布の中身が札束だけになった時、ふと、あくせく動いていたその足が止まった。


「……ねえ。やっぱり、こんなにばらばらにすると、出て行くときに不便なんだけど」


 振り返って、礼子が言う。じっとり汗が浮かぶ彼女の顔は、どことなく引きつっている。

 そんな彼女に、恭二は指を突きつけて言った。


「何を言ってんだ、泥棒が来たらどうするんだよ!」

「それはそうだけど……、最新のオートロックよ?」

「分からねえぞ。某蜘蛛男みたいに、窓から入ってくる奴だっているかもしれねえじゃねえか」


「はあ!」と、手からネットを出す仕草をする恭二。もちろんそんなものが出るはずもなく、盛大に飛び散るのは、口に含んだ水分だけである。

 その飛沫は見事な放物線を描いて、礼子の頬まで小さな虹の橋を渡した。


「――んもう!」


 そこで遂に、堪忍袋の緒が切れたらしい。


「そんなに泥棒泥棒言うんだったら、この泥棒が入ったみたいな部屋をどうにかしなさいよ!」


 礼子は足音を怒らせて居候男に詰め寄ると、切れ長の目をナイフのように鋭くした。


「なに、あのシンク? どうして、せめて水に浸けておかないの?」

「ああ、それ。いやなに、部屋を彩り鮮やかにしようと思ってな」


 問題の箇所をびしびし指さしつつ、きつい口調で問いかける。そんな彼女に、恭二はまったく悪びれなく答えた。


「じゃあ、その下のタオルは? どうしてほったらかしなの?」

「朝、牛乳まけた時とか、そのまま使えて便利じゃねえか」

「なら、その缶は? なんでこんなに積まれてるの?」

「俺の手が、バベルを作れって言い出したんだ」

「じゃあ靴下は? なんで丸まってるの?」

「いもむしという生命を生み出そうと」

「どうして片っぽしかないの?」

「逃げていっちまったかな?」

「散らばっている漫画は?」

「ポスターの代わりだ」

「丸めたティッシュ」

「造花だよ」

「――それで、このゴミの海を見て何か私に言うことは?」

「海賊王に、俺はなる!」


 ソファーという船の上で両手を広げ、盛大な野望、もとい無謀を口にする恭二。その姿に礼子は頭を抱え、深く深くため息をついた。


「……分かった。片付けするから、ちょっと外に出て行ってちょうだい」

「ええ、なんか悪いなあ」


 言葉とは裏腹に、その目は何かを催促しているようである。礼子は慣れた手つきで、財布の中から一万円を抜き出した。


「おお、サンキュ」


 差し出された万札をためらいなく受け取ると、恭二はソファから立ち上がった。立ち上がったその背丈は、礼子よりも頭ひとつ低く、並ぶと余計に太って見える。

 脱ぎ散らかしたズボンの一枚に足を通す。はちきれんばかりの尻のラインに対して、裾は巻き寿司のごとく何度も折り返されている。


「さあて、今日は海でフィーバーするぞお」


 何かを掴んだ形の手のひらをくいくいと回しながら、恭二は意気揚々と部屋を出て行った。

 肉厚の背中がドア向こうに消える。それを少し遠い目で見送ってから、礼子はソファの向かいにあるテレビの上に目を向けた。

 そこには、恭二と二人で映った、小さい頃からの写真がある。そのうちの一枚を手に取り、礼子はしみじみと呟いた。


「……昔は、もうちょっと格好よかったんだけどなあ」


 羨むような目で、十代の頃の恭二を見つめる。写真の頃の恭二は、まだ礼子より背が高く、彼女はその横顔を見上げて笑っている。

 特徴的な団子っ鼻こそ今と変わりないものの、背丈もお互いの関係も、今はほとんどが変わってしまった。そのことを思い、礼子は再びため息をついた。


 そうした時、ピンポーン――と呼び鈴の音が部屋に響いた。


「あ……、はいはあい」


 礼子は写真をそっと元の位置に直すと、玄関近くにあるドアホンに駆け寄った。

 外部カメラのボタンを押しこむ。すると、手のひらサイズの画面に、さっき出ていったばかりの恭二の顔が表れた。

 しかし、その表情は先ほどまでのような平和ボケしたものではなく、何かを焦っているように見える。


「……何か、忘れ物でもしたの?」

「そ、そうそう! いやあ、俺としたことが会員証忘れちゃってさ」


 探るような礼子の声に、恭二が上ずった声を返してくる。


「そう……、分かったわ」


 何か変だな。そう思いながらも、礼子はゆっくりドアを押し開けた。


「あ、ははは……」


 ドアの隙間からは、画面で見たものと同じ表情をした恭二の姿――


「金を出せ」


 と、その首にナイフを押し当てている、某蜘蛛男のマスクをかぶった大男の姿があった。


「……、どうぞ」


 わずかの沈黙の後、状況を察した礼子はドアを押し開いて、二人を中に招き入れた。

 なるべく相手を刺激しないようにドアを閉め、振り返る。すると、上目遣いで機嫌をうかがう恭二と目が合った。


「ほ、ほらな。こんなパターンだってあるんだよ」

「……、こんなヒーローお断りだわ」


 ごまかすように言う恭二に、礼子は眉間に手を当てた。

 その緊張感のないやりとりが気に障ったのか、強盗が靴箱を蹴りつけた。


「おい、聞こえねえのか! 金だ、金を出せ!」

「ひい……」


 木の砕ける音に、恭二が身を震わせる。その拍子に、彼の短い首にうっすらと朱が走った。


「ご、ごめんなさい。お金ね……、ちょっと待ってて」


 礼子が慌てて財布を取りに戻る。そして、ソファに放ってあったそれを引っ掴むと、そのまま強盗に差し出した。

 舌打ちしながら、強盗がそれを奪い取る。そして、ナイフを恭二に押し当てたまま、器用に財布の中身を確認し始めた。


「こんなんで足りるわけねえだろうが!」

「ひいい……」


 苛立たしげに、財布を靴箱の上に叩きつける。それから、震える恭二の体ごしに身を乗り出して、強盗が叫んだ。


「カードだ! クレジットとキャッシュ、あるだけ持ってこい!」

「……持ってくれば、その人を離してくれるかしら?」


 間を置いて、礼子が取引を持ちかける。

 その問いに、マスクに映る口の影が、薄く引き伸ばされた。


「……ああ、いいとも」


 その言葉を聞き、礼子は動いた。キッチンに移動し、食器棚の引き戸を開けてクレジットカードを、冷蔵庫のスイングドアを開けてキャッシュカードをそれぞれ取り出す。そして、それらを胸に抱えると、玄関に戻った。

 礼子の差し出した数枚のカードを、強盗がつまんで奪い取る。


「さあ、早く。その人を離してちょうだい」


 催促の声に、カードを眺めていた強盗の表情が動いた。


「ああ、そうだな」


 彼はカードを靴箱の上にある財布の横に置くと、恭二の首元のナイフから力を緩めた。

 すかさず、礼子が恭二を助けようと動く。


「――おおっと」


 すると、それを見た強盗が、すぐにナイフを元に戻した。

 礼子が顔を上げる。その問いかけるような視線を受けて、マスク下の口元がにやりと笑った。


「カードじゃあ、電話一本で何も出来なくなるからなあ」

「電話なんてしないわ」

「いやあ、信用できねえなあ」


 即答した礼子をおちょくるように、間延びした口調で強盗が言う。

 そうしながら、手の内でナイフをもてあそび始めた。時折首筋に触れるその冷たさに、恭二の震えが大きくなる。

 それを見て、礼子の口元がへの字に歪んだ。


「通帳と印鑑」


 礼子の焦りを見て取った強盗が、突きつけるように言った。


「通帳と印鑑だ。持ってくれば、今度こそ離してやるよ」

「……、本当ね?」

「ああ」


 再度の取引に、強盗ははっきりと答えた。しかし、その口元に浮かぶ笑みは、先ほどからまったく変わっていない。


「おい、早くしねえか! こいつがどうなっちまっても知らねえぞ!」

「ひいいい……!」


 警戒して動かない礼子に、強盗は人質の首にぐっとナイフを押し当てて見せた。先ほどはにじんだだけだった血が、今度は流れてシャツの襟を汚した。


「……分かったわ。分かったから、ほら、落ち着きなさい」


 なだめる仕草をしながら、礼子が静かに後ずさる。そうしながら寝室にたどり着くと、押し入れから通帳、救急箱から印鑑を取り出して、戻ってきた。


「……意外と少ねえんだな」


 慎重な手つきで差し出された通帳を開きながら、強盗が舌打ちをする。


「これくらいしかないの。だから……、ほら。その人を離して出て行ったらどうかしら?」

「いやあ、まだまだ」


 味を占めたらしい強盗は、礼子の交渉に取り合わない。口元の笑みをよりはっきりさせて、部屋の中を見回し始めた。


「汚ったねえけど、こんないい部屋に住んでんだ。もっと金目のもんがあんだろう? ほら、指輪とかよ」

「……ないわ。指輪なんて、誰も買ってくれないもの」


 礼子が苦笑を浮かべて言う。


「いやいや。そんだけの身なりして、一つや二つ持ってるだろうが」

「いいえ、本当にないのよ」

「いやいやいや」


 強盗が笑いながら、またナイフをもてあそび始める。恭二の震えはより大きくなるが、今度は、礼子も表情を揺らすことはなかった。

 お互いそのまま。駆け引きの時間が過ぎていく。すると、


「――ほ、本棚にあるじゃねえか!」


 緊張に耐えきれなくなった恭二が、礼子を裏切った。


「ほら、やっぱりあるんじゃねえか」

「……ええ。すっかり忘れてたわ」


 強盗が勝ち誇ったように笑う。それに機械的に返して、礼子は早足で移動を始めた。本棚は、部屋の隅にある。


「おいおい、今度はそっちかよ! 質屋閉まってたらどうするんだよ!」

「そうだぞ、礼子! 泥棒さんが不便だろうが!」


 人質が乗っかって、礼子を揶揄する。


「……」


 顔を伏せて戻ってきた礼子が、どん、と時計の入ったケースを靴箱に置いた。そして離れる際に、恭二に向けて顔を上げた。その伝説の武器級の目つきに、恭二は慌てて目をそらした。


「なかなかいいもんがあるじゃねえか」


 そんなやりとりの横で、強盗が舐めるように中身を見つめる。


「おい、まだあるんだろ?」

「もうないわ」


 顔を上げた強盗に、礼子は捨てるように答えた。すると、今度はその視線を恭二に振った。


「どうなんだ、デブ?」

「は、はい。それは――」


 すぐさま答えそうになる。しかし、のど元まで声が出てきたところで礼子と目が合うと、小さな悲鳴と共に飲み込んだ。


「チャーシューにされてえのか?」

「ありますありますあります、ありますとも!」


 しかし、やはり無理だった。


「あっちのテレビ台の下には時計! 寝室の衣装だんすにはペンダント! それと、トイレの給水タンクの中に金のインゴット、シャワーのノズルヘッドの中には金の指輪があります!」

「……最後の二つ、私も知らないんだけど」


 土曜深夜の駅前のようなゲロっぷりを、礼子は眉間に深いしわを刻むことで讃えた。


「はっはっは、いいねいいねえ! お前、まるで警察犬みてえだなあ」

「はい! 自分はあなたの犬であります!」

「はっはっはっは! おい、女。全部集めて来いよ」


 情けない忠義の光景に頭を押さえながら、礼子は動き始めた。先ほどまでシャンと伸びていたその背筋は、今はしおれたように曲がり、夕日の差す背中になんとも言えない哀愁が漂っている。


「これで、本当に全部よ。後は……、ゴミしか残ってないわ」


 腕に抱えた荷物を置き、礼子は力なく言った。


「へえ……。どうなんだ、犬?」

「は……、あ――」


 ご主人様の問いに、恭二は何かに気づいたように手をトランクスの中に突っ込むと、出がけに礼子から受け取った一万円を取り出した。


「これで、本当に全部です!」

「そんな汚ねえもんいらねえよ!」


 恭二の手から打ち払われた万札が、ひらひらトイレの方に飛んでいった。

 もはや、そんなはした金にこだわらない強盗は、悦に入った様子で戦利品の山を見下ろした。


「いやあ、それにしても、こんなに持てるかなあ」

「バッグが必要ですか? でしたら――」

「いや、いい。それよりも……、荷物持ちがいいなあ」

「……、え」


 その言葉に、恭二の笑みが固まった。


「おいおい、心配すんな。お前じゃねえよ」

「そ、そうですよね。い、いやあ、残念だなあ」


 言いながら、あからさまに安堵した様子である。そんな彼の肩口から、強盗はすっと手を伸ばした。


「――来いよ、女。そしたら、今度こそこいつを離してやる」

「…………、え」


 その言葉に、恭二の顔から笑みが消えた。


「……、今度こそ、本当なんでしょうね?」

「ああ、キリストに誓ってもいい」

「……、分かったわ」


 気だるげに尋ね、気だるげに頷く。そうして、礼子はどうでもよさげな素振りで強盗の元へ歩き始めた。

 そんな彼女を迎えるために、強盗はナイフを下ろして腕を広げた。

 拘束が解ける。そうして、ようやく自由の身となった恭二は満面の笑みを浮かべて、


「――いやあ。やっぱ、自分が行きますよ!」


 そう、大声で宣言した。

 言うなり、素早く荷物を集め始める。突然豹変した彼の肩を、戸惑った様子で強盗が掴んだ。


「おいおい、何勝手しようとしてんだよ? 俺はな、そこの女と行くって言ってんだよ」

「いやいや、自分がいいですって。なんてったって、犬ですから!」

「はあ? ざけんな、もういらねえんだよ」

「いやあ。自分、意外と役に立ちますよ」

「――いらねえって言ってんだろうが!」


 強情な恭二の肩を引っ張り、引きずり倒す。そうして、邪魔者を玄関から追い出すと、強盗は再び礼子を向いた。


「おい、女。行くぞ」


 彼女を奪おうと、手を伸ばす。その手に、弾かれたように立ち上がった恭二が、力の限り噛みついた。


「ぐう……!」


 くぐもった声が、強盗の口から漏れる。


「お前……、何してくれてんだ?」


 マスクごしでもはっきり分かるその怒りに、恭二はにへらと笑みを浮かべた。


「い、いやあ……。飼い犬も手を噛むと言いますし――」


 言い終わる前に、恭二は蹴り飛ばされていた。

 肥満体がゴミを押しつぶしながら転がっていく。それを追って、強盗が部屋に上がり込んだ。そして、うつ伏せで呻く恭二に向け、血のにじむ手に強くナイフを握り込んだ。

 その姿を見て、恭二は恐怖に目をむいた。しかし、飛び出そうな悲鳴はのど元で飲み込むと、笑う膝を押さえて立ち上がった。


「――分かったわ。一緒に行きましょう」


 その時、恭二をかばうように礼子が間に割って入った。


「……れ、礼子」

「いいのよ、恭二くん」


 呼び止める恭二の声に、礼子は優しく答える。そして、強盗のナイフを持った腕を取ると、自分の胸に抱きかかえた。


「は……、はは。そ、そうだよ、最初からそうやって素直なら、俺だって何もしねえんだ」


 胸の膨らみを押しつけられ、悦に入った様子の強盗が、その腕の力を解いた。


「おい、行くぞ」

「ええ、行きましょう――」


 すると、礼子は素早くナイフをたたき落として腕をひねりあげると、足を刈り取って、強盗をその場に組み伏せた。


「ちょっと、そこの警察まで」

「…………、へ?」


 突然の出来事に、強盗は明らかに理解が追いついていない様子である。

 礼子はそんな彼のマスクをはぎ取って、その正体を明らかにする。そして、勝ち誇ったように言った。


「ごめんなさい。私、刑事なの」



 警察署からの帰り道。事情聴取などでなんだかんだと時間を取られ、夜はもう深夜に入ろうとしている。

 礼子のマンションは住宅街の中にあって、帰り道は深夜にもなると非常に静かである。靴音だけが響くそんな道を、防犯目的の青い外灯に照らされながら、礼子と恭二は歩いていた。


「……な、なあ、礼子」


 礼子の後ろを歩く恭二が、ふと足を止めた。


「何よ?」

「あのさ……、俺、出てった方がいいよな?」


 振り返る礼子に、恭二は消え入るような声で尋ねた。その表情は、外灯の青さと相まって非常に落ち込んでいるように見える。


「……、どうしてそう思うの?」

「俺……、礼子のこと、全然守れなかった」


 恭二が顔を伏せて言う。そのために表情は分からないが、丸っこい彼の指は、シャツの裾を強く握りしめていた。

 それを見た礼子は小さく息をつくと、軽い口調で言った。


「強盗捕まえるのに、守られる刑事なんていないわ」

「で、でも……」


 恭二が顔を上げる。思い詰めた表情の彼に、礼子はひらひらと手を振りながら言った。


「気にしなくていいわよ」

「だ、だけどさ……」

「いいのよ。ちゃんと分かったから」


 そう言って、話は終わりとばかりに歩き出す。心なしか嬉しそうなその背中を追いかけながら、恭二はしきりに首をかしげていた。



   3



「……それ、どうしたの?」


 翌週の夜。仕事から帰ってきた礼子はひどく戸惑っていた。

 床がきれいなことにではない。ソファ周りがきれいなにことでも、缶タワーがないことにでもない。それらは、彼女が恭二も協力させて必死に掃除したから当たり前のことである。そうではなくて、部屋のこと以外で彼女を驚かせることがあったのだ。


「どうしたって、そりゃ、作ったんだよ」


 その原因――恭二が、大きな体に前しか隠れていない女物のエプロンを括り付け、盛りつけられた謎の料理の前にいた。


「作ったって……、恭二くん」


 パンプスを脱ぎ捨て、部屋に上がる。そうして、机の上にある奇妙な料理と、自分のエプロンをした奇妙な恭二という二つの物体Xを激しく見比べながら、礼子はテーブルへ近づいていった。


「まあ座れ、ほれ」


 言われるがままに、引かれた椅子に座る。そうして、礼子は目の前のスープ皿をじっとのぞき込んだ。


「いいか、礼子。栄養ってのはな、栄養価が足りてるだけじゃ駄目なんだ。ちゃんと吸収されやすい形ってもんがあってな、何でもかんでもサプリとかお菓子みたいな栄養食に頼ってちゃ駄目なんだ。そもそも――」


 インターネットで調べでもしたのか、恭二が得意げに語り始める。しかし、残念ながら、礼子の耳にはまったく届いていないようである。

 彼女はひとしきり料理を見て、匂いを嗅ぐと、スプーンを手に取った。


「いただきます」

「おい、こら! まだ話は終わってねえぞ!」


 恭二の注意をよそに、ひと掬いして口に運ぶ。そして、目を閉じてゆっくり味わうと、深く息を吐いた。


「……、どうだ?」


 尋ねながら、恭二が団子っ鼻を誇らしげにこすり上げる。

 そんな彼に、礼子は一言。


「――まずいわ」

「……、え」

「塩入れすぎ。油かけ過ぎ。火も通ってないし、形も悪いわ。恭二くん、毒味したの?」

「そ、そんなはずは……」


 ショックを隠せない恭二は、自分もスプーンで一口する。すると、ぐうの音も出なくなったらしく、悔しげに頭を机に落とした。

 そんな恭二を見ながら、もう一口する礼子。


「ふふふ。本当にまずいわね」


 そう呟く彼女の顔には、たんぽぽのように柔らかな笑顔が咲いていた。


 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。片山でこというものです。

 小説家になるべく、今は短編小説で修行中です。評価、感想、よろしくお願いします。


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