*結*
じゃらん、と音がした。
すでに聞き慣れ始めた鎖の音。多分、健太が姿勢でも変えたんだろう。
と、思ったのと同時だった。
「――チルチルくんっ!」
目を見開き、ヴィアンが叫ぶ。
意味は分からない。だが、異変はすぐに現れた。
「っ!?」
突然、何かの力がオレの体を真横に突き飛ばした。
慌てて畳に両足を突き立てて、前のめりに倒れそうになる体を支える。
襖と睨み合うような状態。そして、そこから自然と遠ざかろうとする体。
「――っ!」
その時、体の反応に頭がようやく追いつく。
違う。突き飛ばされたんじゃない。
――引っ張られているんだ。
そう理解した直後、ぐいん、と引きつける力が強まった。
咄嗟に足に力を込める。しかし、
「やばっ――」
力はうまく畳に伝わらず、オレの足はその上を滑った。
前へ引きずられながらも、頭から後ろに倒れていく体。浮遊感にも似た感覚の中、自分の意識だけが取り残されたように世界がスローモーションに見える。
まずい。全身が粟立つようなこの感じは、経験上、絶対に回避しなくちゃならねぇ“何か”に間違いない。
だけど、もう無理だ。ここから体勢を立て直す方法は……ない。
やけに冷静な頭がそう判断しようとした瞬間、
「耐えろ、チルチルくん!」
背後から聞こえたその言葉が時の流れを戻し、浮遊感を消した。首だけで振り返ると、ヴィアンの肩が見える。
両腕に感じる力と熱。おそらく羽交い絞めのような状態で、ヴィアンが体を支えてくれているんだろう。
……ん?
両、腕?
反射的に視線を自分の右手に移す。
そこには、当たり前のカタチをした手の平。
そう。あったはずの――そして、あるべきはずの鎖の姿がそこにはなかった。
――じゃあ、オレは一体何に引っ張られている?
浮かんだ疑問を解決すべく、自分の体を見下ろす。すると、答えはすぐに見つかった。
心臓。
オレの胸のちょうどその位置から、ぎしりと軋みながら襖に向かって一直線に伸びる鎖が生えていた。
そうか。さっきの鎖の音は、健太が動いたからじゃない。
あれは、鎖自体が動いた音だったんだ。
「チルチルくんも少しは踏ん張ってくれ!」
「分かってる――けど、何故か体に力が入んねぇんだよ! 」
ずるずると少しずつ、だけど確実に、ヴィアンごと引っ張られる体。それが、まるでどこか遠くにあるかのように言うことをきかない。
「くっ、まずい……すでに生気が喰われ始めてる」
後ろから、そんなヴィアンの苦々しい声が聞こえた。
――生気。
多分、それを喰われているせいで全身に力が入らず、それを喰うために鎖の位置は人間の真ん中へと変わったんだろう。
そして、この鎖の距離がゼロになった時、生気も何もかも全て喰われてしまう。
ケルベロスの牙に、掛かってしまう。
だけど。
いや、だからこそ。
ここで終わるわけにはいかない。ケルベロスを解き放つわけにはいかない。
オレ自身のためにも――健太のためにも。
「ミチル! お前、も……手伝え……」
足下に視線を落とし、自分の影を怒鳴る。
しかし、思い通りの声が出たのは一瞬だけ。腹に力が入らず、最後の方は完全にかすれてしまった。
「無茶言うなよぉ……」
だが返ってきたのは、それ以上に力ない声。そして今にも消えてしまいそうなほど曖昧にぼやけた、ミチルの両手首だけだった。
「精神世界はダイレクトに存在を喰われてるんだ。チルチルよりダメージでかいんだよ……」
か細くそう愚痴りながらも、オレの両足を掴むミチル。
しかし、その力は言葉通りあまりにも弱々しく、鎖の勢いはまるで変えられない。
――やばい。
もうすでに手を伸ばせば届くくらいの距離まで、襖が迫ってきている。
「くそ……どうすればいい、ヴィアン?」
もう完全にヴィアンにもたれ掛かる状態で、振り返ることもできずに訊く。
まるで一日中休みなく動き続けたかのように体は重く、視界も霞んできた。正直、口を開くのもつらい。
「早く断ち切るんだ、鎖を」
「切るったって……触れもしねぇのにどうすんだよ?」
「大丈夫だ。たとえ触れられなくとも、見えているなら――意識できているなら、君の言乃刃は有効なはずだ」
「…………」
言乃刃で、鎖を断ち切る。
ヴィアンが改めて健太を助けることについて訊いてきたのは、そういう意味だったのか。
自らの手で最後を看取る覚悟はあるのか、と。
「急いでくれ、チルチルくん。どんどんとケルベロスの気配が強くなってきている。それに、今ならまだ間に合うかもしれない!」
「分かってる……」
小さく呟くように応え、オレはポケットへと手を伸ばす。そして、残された気力を振り絞ってポケットの中身を――無太刀を取り出し、その鞘を抜いた。
すらりと現れる直刀の刃。
だけどその形が、時々大きく歪む。まずい、こっちも時間がない。オレの意識が薄れてきたせいで、言乃刃を維持できなくなってきてる。
「…………」
静かに目を瞑り、大きく一つ深呼吸する。
迷うな、悩むな。覚悟はもう、決めたはずだ。
――オレがちゃんと終わらせてやるんだ。
そう意を決し、目を開いた瞬間だった。
「サトル兄ちゃん?」
襖の向こうから、健太の声が聞こえた。
しかし、その声は一つじゃない。そこには低く昏い、地の底から響く獣のような声が混じっている。
「サトル兄ちゃん、そこにいる?」
「……あぁ、ここにいる。どうした?」
「あ、あのね……さっきから僕、なんかすごく眠くて……だから、今のうちにお礼言わなきゃって思って」
「お礼?」
「うん……僕ね、ずっと一人ぼっちであんなトコいて、すごく寂しかったんだ……だからサトル兄ちゃんが、一緒に来るかって言ってくれた時、すごく嬉しかった……でもあの時、びっくりして言えなかったから、今、ちゃんと言わなきゃって思って」
――ありがとう、サトル兄ちゃん。
「僕を見つけてくれたのがサトル兄ちゃんみたいな優しい人で、本当に良かった」
そう言って、健太は笑った。
もちろん、顔は見えていない。だけど笑っていると、確信できた。
だからオレも、せめて口元だけでも笑う。別れのシーンには、この表情が相応しいはずだ。
「そうか……」
優しい――か。
子どもが苦手で、ロクな話し相手になってやれなかったオレが。
助けてやることもできず、こんな終わり方しか選べないオレが。
謝ることも、別れの言葉さえもまともに告げられないこんなオレが――
「お前には、そう見えたのかよ」
言乃刃を振り下ろす。
しゃん、という甲高い音を立てて、オレの代わりに鎖が泣いた。