*転*
「ケルベロス」
例によって例の如く、ヴィアンは開口一番そう言った。そして続けて、
「何度も言うようだけど、僕は専門家じゃないから正確な情報じゃないかもしれないけど、それは承知しといてね」
と、お約束の前置き。
「地獄の番犬、ケルベロス。冥界から逃げ出そうとする亡者を捕え、貪り喰らう、冥界の王の忠犬。他にもケルベルスやサーベラスなんて呼び方があったり、とある文献なんかじゃ五十の首を持つ怪物だなんて言われてたりしてるけど、まぁ一般的には三つ首の犬、ってのがよく知られている姿だね」
「それが、健太に宿ったモノなのか?」
遡ること十数分前。
無事(大神さんの誤解と馬渕に出会ったことをカウントしなければ)境内に続く石段に着いたところで、オレたちは丁度散歩から帰ってきた目的の人物――ヴィアンに会うことに成功した。
そして、
「確かに人間には趣味というか癖というものがあるし、あって然るべきだとは思うけどさ、さすがに倫理的許容範囲を超えるのはどうかと思――」
「うるせぇ、黙れ、殺すぞ」
予想通りヴィアンにも健太の姿が見えていることを確認。
で、現在。
いつも通りオレの部屋で、事の成り行きをヴィアンに説明し終えたところだった。
「まぁ、ケルベロスで間違いないと思うよ。なんたって、当の本人がそう言ってるんだろう? だったら、それに間違いないさ」
「言ってるからそれで、ってそんなアバウトでいいのかよ? お前には要点をまとめて話したけど、正直オレが聞いた感じ、健太の記憶はかなり曖昧だったぞ」
「いいんだよ、それで。曖昧だからこそ、肝心な部分が際立つものなのさ。それに、どう認識しているか――どう認識されているかが、“僕ら”の存在にとって最も重要だからね」
「……まぁ、お前がそう言うならそれでいいけどさ」
ヴィアンが専門家じゃないなら、オレはそれ以上に専門外だ。知識に関しては頼る他ない。
ちなみに『健太にもう一度話を聞く』という選択肢は、ここにはない。本人不在では、当然それは選べないからだ。
と言っても、健太がいなくなったわけでも、鎖が切れたわけでもない。
「健太くん。サトル兄ちゃんと二人で話したいから、悪いんだけど少し部屋の外で待っててもらえるかな」
というヴィアンの言葉に、健太は何の疑問を抱くことなく従って部屋を出た。
だけどもちろん、オレには疑問が残った。いくら専門外といっても、これまでそれなりに経験は積んでいる。
“ヤツら”の対策を立てる最良の手段は、本人から直接話を聞くことだったはず。
だから健太が部屋を出てすぐ、声を潜めてヴィアンに理由を訊いてみると、
「今の彼は、極めて不安定な存在だからね。下手に情報を与えると、状態を悪化させてしまう恐れがあるのさ」
とのこと。
なので今、健太は廊下で出会った時と同じく体育座りで待機中。オレたちを繋ぐ非物質の鎖が、真横の襖を貫いているような状態だった。
「だけど、ケルベロスは間違いないとしても、今回の場合『宿った』という表現は間違いというか相応しくないね」
「どういう意味だよ?」
「『宿る』ってのは器があって初めて出来るものさ。だけど今の彼にはそれがない。極めて精神世界に近い――“僕ら”に近い存在だ。だから彼の場合は『宿っている』というよりは『成っている』という表現が一番適切だろうね」
「成っている、か」
「あぁ。そして、それが故に不安定なんだよ。コップに入った水と水そのもの、どちらが外的影響を受けやすいかは論ずるまでもないだろう? だから彼には退室願ったってわけさ」
そう言って襖を――鎖に先にいるであろう健太をしばらく見つめ、
「それで――」
ヴィアンはおもむろに口を開いた。
「チルチルくんは、どうしたい?」
「どうしたい……って、そんなの決まってるじゃねぇか。アイツを――」
「助けるって言うんだろう? 君のことだから」
そのくらいなら僕にも分かるようになってきたよ、と口元に笑みを浮かべるヴィアン。
だったら、何でわざわざそんなこと訊いたんだよ?
オレがそう口にしようとした瞬間だった。
「――だけど」
ヴィアンが一瞬にして笑みを殺し、言葉を続けたのは。
「彼を助けるということがどういうことか、分かってるかい? その結果をちゃんと理解して、しっかりと納得してるかい?」
「そ、れは……」
理解はしてるつもりだ。
出会ったときには、もうすでに手遅れだった。元に戻すことも、前に進むこともできはしない、と。
だけど、頭と心は別ものだ。理解ができても、納得はできていない。
「早めに言っておくけれど、あまり悠長に構えてる時間はないよ。何せあれだけ不安定な状態だ。正直、いつケルベロスとして覚醒してもおかしくない。むしろ、今まで覚醒していないことが不思議なくらいだ」
「……もし覚醒したら、どうなる?」
「たとえ覚醒したとしても、一つ首では不完全だ。しかし、残念なことにケルベロスの場合、それは逆効果。その不完全さは強い飢えとなって凶暴さを増幅させ、それを満たすために狂犬の如く暴れ回るだろう。足りない首を――二人の友達を取り込むまで」
そして、とオレの目から右手に視線を移してヴィアンは続ける。
「最初の犠牲者は、間違いなく君だ」
「…………」
つられてオレも自分の手に視線を落とす。
そこにあるのは、健太を縛る鎖。
だけど健太がケルベロスとして覚醒したなら、その関係は逆転する。
鎖の長さは変わらない。ここまで一緒に歩いてきて分かったことだ。
だからもし健太がケルベロスとなり、暴走を始めたとしても、オレにはその牙や爪から逃げる方法がない。一度や二度なら躱すこともできるかもしれないが、いつまでも躱し続けることは不可能だろう。
そして、たとえそうなってしまっても、健太と戦うことなどオレにはできない。その選択肢だけは選べない。
だけどこのまま何もせずにいれば、遠からず確実に健太はケルベロスとなる。
そうなればオレも、健太の二人の友達も無事では済まない。攻撃力のないヴィアンには止める術はないだろうし、もしかしたら大神さんや馬渕も巻き添えを食うかもしれない。
「……ダメだ」
そんなのはダメだ。
それだけはダメだ。
それじゃあ、誰も助からない。
誰も、助けられない。
そして誰より――健太自身が救われない。
健太がそんな結末、望むわけがない。
「ヴィアン、頼む」
右手を強く握る。
もちろん、そこから生える鎖を掴むことはできない。だけど、心の中の何かを握り潰せた気はした。
オレでは元に戻してあげることも、前に進めてあげることもできはしない。
だけど、それでも――
「健太を助ける方法を教えてくれ」
ちゃんと終わらせてあげることなら、できるはずだ。