*承*
「逃げ切れると思うなよ」
また一つカーブを曲がり、あと少しで山道を抜けるところ。
そんな恐怖の一言を背に、オレは車を降り、魚住さんと別れた。
……正直、明日学校行きたくねぇ。月曜日なんか来なければイイのに。
しかしそんな願いとは裏腹に、貴重な日曜日の残り時間は一秒一秒減り、オレは山道を一歩一歩登る。
今、通ってきたばかりの道を戻る。
もちろん、その目的は一つ。そのために、こんな自然いっぱいの不自然な場所で、オレは多少強引に魚住さんの車から降りた。
まぁ、そのせいで『デートする相手』についての議題から逃げたように思われたが。
しかし、そんな不名誉なレッテルを貼られても尚、オレにはしなければならないことがあった(逃げる気など全くなかったということは、この括弧内で堂々と宣言しておくとしよう)。
今さっき見たものを――見えてしまったものを、見間違いだと確かめる。
魚住さんが正常で、自分が異常だと証明する。……と言っても、わざわざ証明しなくても、しばらく前から十分過ぎるほどオレは異常だけど。
だけどそれでも、こんな状況は初めてだ。異常になる前も、なった後も。
そしてこの状況を説明する一番シンプルな答えを、オレは知っている。
分かりやすくて、分かりたくない答えを。
「…………」
ここで地形的な説明を付け加えると、直前に曲がったカーブは山肌に沿ったもの。つまりオレが車を降りた場所からは、男の子の姿は山の陰となって見えていなかった。
そう、見えて――いなかった。
「うん、なるほど……」
まばたき四回。その後、左右上下と首のストレッチをするように視線を一度逸らしてから、前方に戻す。
オレの目には確かに見える彼に、視線を送る。
「やっぱり、そういうことなのか……」
男の子は変わらず体育座りで、何するわけでもなく道路の真ん中にいる。
存在して、実在している。
さぁ、ここで選択肢は二つ。
一つは、見たモノを見なかったことにしてこのまま帰る。そして残り半日を明日の魚住さん対策に費やす。
日曜の昼下がりという平和の中で見るからかもしれないが、彼が危険なモノには見えない。夜に目撃していたらかなりショッキングな体験になっていただろうが、穏やかな日差しの下では微塵の恐怖すら感じない。
というか、あまりにも当たり前に見えていて、自分の予想が間違っている気さえする。
だからオレがここで再びUターンしても、何の問題もない。オレが関わらなくても自然と時間の流れがうまい具合に対処してくれるはずだ。
…………。
…………。
……その、はずなんだけどなぁ。
「なぁ、こんなところで何してるんだ?」
自然な感じで、オレはそう声を掛けた。
はっきり言って、子どもは苦手だ。その昔、顔を見ただけで泣かれたことも何回かある。
だから極力、口調を優しく、表情は……少し強張ってるかもしれないけど、オレはそう訊いてみた。
「えっと……とりあえず、こんなところに座ってるのは危ねぇと思うぜ。いくら車が滅多に通らないからって、さすがに道路は、な?」
「…………」
きょとん、だ。
オレは知ってる。この場合の効果音は『きょとん』、それ以外はない。……よく考えてみれば、無音に対して効果音ってのも、おかしな話な気もするけど。
つーか、体育座りの男の子の前に立つ男子高校生って、何気に変な誤解を生みそうな感じがする。
微妙に涙目だし。
……まぁ、ここは殆ど人が通らないから、誤解される可能性はねぇけど。
田舎万歳だ。いや、嬉しくも、めでたくもねぇけど。
「…………」
しかし、何だろう? 下から見上げられるという、この優越感は。
ヴィアンや馬渕は(大神さんは違うと思う)、こんな風にオレのことを見ていたのか?
いや、別にそこまでの――それほどまでの身長差があるわけじゃない。
こっちは地面に座ってるわけだし。
一応、ご存知のない方のために改めて説明しておくが、オレが小さいわけではない。アイツらがでかいんだ。オレの身長は、高二男子の平均値(付近)だということを、ちゃんとご理解頂きたい。
と、オレのオレによるオレのための親切な解説を終えたところで、ようやく、
「――あ、あの」
不安そうな瞳で、男の子からの答えが返ってきた。
そして続く一言で、オレは事態を――予想していた状況が予想通りだと、理解する。
「お兄ちゃんには、僕が見えるの?」
「えーっと……まぁ、とりあえず見えてるし聞こえてるって感じ、かな」
「そう――なんだ。良かった……僕は一人ぼっちじゃなかったんだ」
涙目だった瞳をさらに潤わせ、自分に言い聞かせるように呟いた男の子。そしてそのまま、彼は俯いてしまった。
「――っ!」
まずい、泣かれる!
いくら誰にも見えないからといって、目の前で泣かれて気分がイイわけがない。しかも、相手は小さい男の子。罪悪感は半端ない。
とりあえず何か、何かを言わなくては――
「あ、あの――」
しかし先に口を開いたのは、オレではなかった。
そして零れそうになる涙をしっかり堪え、その瞳でオレの顔を真っ直ぐ見上げ、男の子は訊く。
「シュウとダイスケは、何でここにいないんですか?」
じゃらり、と。
男の子の首元から金属の音がした。
それは、足下のアスファルトから生えた鎖――彼をこの場所に縛り付ける、犬の首輪だった。