ガム好きの男
満員電車に揺られて仕事に向かっている。端の席で寝ているおじさん。スーツ姿で携帯を眺めているサラリーマン。変わらない日常に飽きつつも、ぼーっとその景色を眺めている。前に座る女子高生は、どこかで見たことあるような本を読んでいて、彼女のイヤホンからは流行りの曲がうっすら聴こえている。僕はわざとらしく手を後ろに回して、何にも触れないように体に密着させる。女性の前ではいつもそうしている。音楽なんて何が良いんだろうな。まともに聴いたことすらないのにそんなことを考えながら、味のしなくなったガムを、まだ生きている味を片っ端から探すように噛んでいる。
駅の近くのコンビニでコーヒーを買って、ベンチに座った。ポケットから折り畳まれたガムの包み紙を取り出し、味のしないガムを吐き出す。それをまたポケットにしまいコーヒーを一口飲む。「コーヒーはブラックが一番美味い」
ってあいつは言っていたが、俺は甘いコーヒーこそが至高だと思う。
「ブラックコーヒーは甘いものに合うじゃん。」
「なら最初から甘いコーヒーで良くね?」
「わかってないな。お前は、そんなんだからモテないんだろ。」
あいつは俺の少ない友達で、発言こそ気に食わないが、カッコよくて女にモテそうな人間だった。今でも仲良くしていて、控えめに言って最高だ。そして俺の捻くれ、甘い脳味噌を変えてくれた人でもある。
2年前に初めてあいつに会った。俺がコーヒーを飲んでいたところにあいつがぶつかってきて、ワイシャツにコーヒーが少しかかった。取引先を怒らせてしまい、大口の取引を逃した部下が上司に謝るみたいに「本当にごめんなさい!」と頭を下げてきた。俺が「いいよ、別に大丈夫。」と言っても聞いてくれず、「ラーメンを奢る」の一点張りだったから俺は仕方なく仕事終わりについて行った。その日から俺とあいつは、よく二人でラーメン屋に行くようになった。あいつには子供もいて、毎日忙しいはずなのに、こんな俺と付き合ってくれた。俺の誕生日には服をプレゼントしてくれた。俺もお返しに、あいつが好きなバンドのcdをプレゼントした。あいつが、「奥さんからスニーカーをプレゼントしてもらった。」と嬉しそうに言っていたときの笑顔を見てると、俺まで幸せになった気分だった。でも次の日になると「ガムを踏んだ」と悲しそうに俺に言ってきた。そのときのあいつの顔は今でもずっと忘れていない。
俺は毎週日曜日に必ず同じ夢を見る。暗い部屋に一人で座っていて、死神が上から俺に語りかけ、1週間の間に起きた失敗を責める。
「あいつ、ガム踏んだらしいな。」
今日もまたその夢を見た。
俺は味のしなくなったガムを道端に吐く癖がある。理由の一つは、捨てるのがめんどくさいから。もう一つは、悪いことをするのが格好いいと思ってしまっているから。
「あいつが踏んだガムはお前のだろう。」
骨で出来た細い体に真っ黒い頭巾を被った様な見た目の死神は、俺のことを理屈で罵倒してくる。戦えば勝てそうなのに、俺は大人しく座って死神の話を聞いている。
「お前の甘い考えで起こした何気ないことが、人の心に深い傷をつけたんだ。」
どのくらいの時間言われっぱなしだっただろうか。
ようやく目が覚めた。
会社であいつにガムのことを聞いた。話を聞いたところ、俺が捨てたガムではないっぽい。俺が食べない味のガムだったからだ。俺は一瞬安心して、すぐにそんな自分が恥ずかしくなった。次の日も電車で会社に向かう。俺のポケットにはしっかりとガムの包み紙が入っていた。
俺は、荒地の様なところで死神と二人で立っていた。目の前にはレバーがある。そしてその奥には線路があって、二つに分かれている。片方には縛られて動けない人間が1人いて、涙を浮かべた目でこちらに何かを訴えている。もう片方にはガムのダンボールが大量に置かれていた。線路には電車が走っていて、数十秒もすれば自分の目の前を通過するだろう。目の前の状況をようやく理解したくらいのところで死神が口を開いた。
「このままだと人が轢かれて死んでしまう。」
今日は月曜日だ。日曜日ではない。なのに俺の隣には死神がいる。
「お前の前にあるレバーを引けば、電車の進行方向が変わって、人は助かる。代わりに、お前の大好きなガムが大量に無駄になる。」
死神のくせして、ちゃんと全部説明しているのが余計に気味が悪い。でも俺は死神の話を真剣に聞いていた。
「レバーを引くかどうかはお前の自由だ。さあ、選べ。」
は?何言ってるんだこいつ。俺は初めて死神に腹が立った。俺が人の命よりガムの方を大事にする奴とでも思っているのだろうか。
引くに決まってるだろ。
これは誰が考えてもこの結論に至ると思う。
「人を殺すこととガムを捨てることはどっちが悪いことですか?」
こんな問題がテストで出てきたら、誰もが前者に丸をつける。あの逆張りが格好いいと思っているあいつも同じだろう。そして同時にこの問題をテストで出した教師に恐怖心を抱くと思う。実際今の俺もそうだ。今目の前で起こっている状況、というか選択が簡単すぎて謎に不気味だと感じている。だからこそ多くの人は「何か裏があるのかも」と思い後者に丸をつける。そして何人かにはバツがつく。きっと、俺以外に今この話をしても「レバーを引くだろ」というと思う。俺だってそう答える。なのに俺は今大量に汗をかいている。
俺は思考を、記憶を、ガムの様に片っ端から探し回る。嬉しい思い出から悲しい思い出まで必死に探る。でも答えは決まって「レバーを引く」だった。あれ?なんだ簡単じゃないか。選択肢は一つだろう。でも確信できているわけではないのはなぜだろう。甘いはずの俺の脳が、こんなに苦い思いをしているのはなぜだろう。未だに脳の奥底で、「引かない」と考えてしまっているのはなぜだろう。ふと線路の上で縛られている人を見る。その顔に表情はなかったが、恐怖は痛いくらいに伝わる。それで思わず顔を背ける。そこには死神がいる。死神は表情こそないが、目の奥で笑っているのがわかる。人と死神は同じ真顔のはずなのに、感情は全く違っている。ははっ、今すぐにこの死神を殴ってやりたいなあ。俺は右手を振り上げ、その手を死神ではなくレバーに伸ばす。
レバーにはガムが付いていた。ついさっき誰かが「ぺっ」と吐き捨てたばかりみたいなガムが。俺は伸ばした手を反射的に引っ込めた。でもまたすぐにその手をレバーに伸ばした。
死神が口を開く。
「お前。今一瞬、躊躇ったな?」
手はレバーを握っていない。伸ばしたままで空に浮いている。
「なんだよ」
「躊躇ったな?」
一瞬ではその言葉の意図が理解できなかった
「お前は『ガムに触りたくない』と思ったんだ。人の命がかかっているのにも関わらず。」
何か言い返してやりたいのに言葉は出てこない。
「人の命と自分の嫌悪を天秤にかけたんだ。」
暴論だ。なのに妙に説得力がある。だからこそ心を蝕んでいく
「お前のだ。」
え?
「そのガムは。お前のだ。」
俺の思考を差し置いて、聞こえてくる言葉だけが先に行ってしまう。
「お前が昔、地面に吐き捨てたガムをそこにつけた。」
混乱と怒りが頭を駆け巡る。甘い脳味噌が何かに齧られている感覚になる。伸ばした手は、いつのまにか俺の横まで下がっていた。
「そして、あれはお前だ。」
死神は細い手で何かを指さしている。
その指の向く先には、縛られている男が、自分に向いた指を眺めていた。
電車を見る。もうすぐそこまで迫ってきている。俺は助けを訴えるために涙を浮かべた目で友達の方を見る。あいつの隣にいる死神の指先がこっちを向いている。
「今助ける!」
あいつはすぐさまレバーに手を伸ばす。
電車の走行音がうるさいくらいに聞こえる。
あいつはレバーに伸ばした手を、一瞬だけ戻していた。




