守護霊に溺愛されている
会社のちょっと苦手な上司が倒れたと聞いたとき、私は頭を抱えた。仕事のこともだけれど、上司の命がとにかく心配でならない。一命をとりとめたと聞いて、心底ホッとした。
──私の周りには、悲しいことに、不幸があふれている。
***
私の人生は、不幸の連続である。不幸続きではあるが、不貞腐れていても仕方がないので、人にやさしく親切に、そこそこ善行を重ねて生きてきたつもりだ。
しかし残念なことに、中にはそんな私を利用しようとする人や、心ない言葉をかける人もいた。
「あなたの不幸を聞いて、しめしめ、面白くなってきた! と思いました。だってあなた、おもしろい小説を書くじゃないですか。もっと不幸な目に遭った方がいいですよ」
なんだこの人、ちょっと距離をとろう──それが私の、率直な感想である。特段怒ったわけでもなければ、反論したわけでもない。
「結構な不幸に遭ってきたので、これ以上はごめんですね」と、苦笑して返すにとどめた。
数年経って久しぶりに見かけたとき、この方のお嬢さんが亡くなったと知って、愕然とした。
喪失感がつづられた日記に、ひどく心がえぐられるようだ。
──私の周りには、悲しいことがあふれている。
***
私には、不思議なものが一瞬だけ見えることがある。疲れていたり、ただの見間違いだろうと思っていたら「あなた霊感強いよ」と何人にも言われてしまった。
じゃああれは霊なのか。見間違いよりも、そっちの方が怖い。怖すぎるので「私には霊感がない」と自己暗示をかけてみたこともあったが、やはりたまに見えるので、あきらめた。
霊感が強いと言うのが一人や二人なら「ふーん、そうなんだ」で済むところだけれど、オカルト好きの人々に相当な回数言われてしまうと、認めざるおえない。
なんでも私には、変わった守護霊がいるらしい。
そうして、その守護霊に溺愛されているそうである。
「たとえるなら、モンペだね」
「モンペ」
モンスターピュアレンツみたいな守護霊なんて、聞いたことがない。
帰り道、ふと顔を上げると、住宅地で風車がうれしそうに回っていた。なぜそう思ったのかは、わからない。
***
あるとき、気付いてしまった。
私をいじめた人が不幸な目に遭うことがあまりにも多すぎやしないか。
職場でちょっと苦手だった上司、「不幸な目に遭った方がいい」と言った人、その他にも思い当たる節が数人ある。
皆、その人にとっての大切な存在に不幸が訪れて、喪失感や苦悩を抱える結果になっている。
まさか、と私は慄いた。
私を溺愛しているというモンペな守護霊が何かしたのではないか──?
私がさほど気にしていなかったり、「まぁそういう人もいるよね」と苦笑して流したりしているというのに。
モンペだからなのか──。
「うちの子に何をやらかしたんですか? この子にはもう、不幸のおかわりはいらないんですよ。それなのに、よくもふざけた真似を」
モンペというなら、こんな感じだろうか。おっかない。
ただの偶然に違いない。人の不幸に理由をこじつけるのは、あまりにも失礼だ。
そうは言っても、モンペな守護霊が本当にいるならば、その怒りは鎮めねばなるまい。私はご飯と水、塩をお供えするようにした。ズボラなので毎日ではないが、ご飯を炊いたときにはそうしている。たまに読経もする。
理不尽に対する怒りはごもっとも。私も腹を立てることがある。しかし、度が過ぎている。
「あなたを溺愛している守護霊はね、あなたがどう変わっても、あなたのことが大好きなのよ。でもあなたの純粋さや、いいところを曇らせるような人が、許せないのね。あなたのそういうところが、特に好きだから」
だったら、私によくしてくれた人にささやかな幸運が訪れるのでもいいのではないか。
守護霊に、溺愛されている。