第5話 伝説の酒蔵跡へ
【三上 健太】
冒険者ギルドの酒場が、俺の考案した『果汁入りエール』の熱狂に包まれた翌日のことだった。開店前の静かなギルドに呼び出された俺は、カウンターを磨いていたマスターのバルガスから、思いがけない言葉をかけられた。
「兄ちゃん、ちょっと付き合え」
有無を言わさぬ口調。しかし、その声には昨日のような刺々しさはなく、むしろ何か期待のような響きが混じっていた。
「付き合うって……どこへですか?」
「いいから来い。お前の『アイデア』を貸してほしい場所がある」
バルガスはそう言うと、店の鍵を別のスタッフに預け、さっさとギルドの外へ出て行ってしまう。俺は慌ててその後を追った。
バルガスに連れられて歩くこと三十分ほど。王都の賑やかな大通りを抜け、次第に人通りの少ない寂れた地区へと入っていく。石畳の道はひび割れ、道の両脇に立つ家々もどこか活気がない。やがて、彼の足は一軒のひときわ大きな、しかし完全に朽ち果てた建物の前で止まった。
蔦が壁を覆い尽くし、屋根には大きな穴が開いている。かろうじて原型を留めた扉は傾き、隙間から薄暗い内部が覗いていた。建物の前には、文字のかすれた古い看板が寂しげに転がっている。
「ここはいったい……?」
「……見ての通り、酒蔵の跡地だ」
バルガスは重々しく口を開くと、ぎしりと音を立てる扉を押し開けた。途端に、埃っぽいカビの匂いが鼻をつく。
中に足を踏み入れると、そこは時間が止まったかのような空間だった。天井の穴から差し込む光が、空気中を舞う無数の埃をきらきらと照らしている。巨大な木製の樽は腐り落ちて見る影もなく、醸造に使われていたであろう道具類は、赤茶けた錆に覆われていた。
(ひどい状態だ……。けど、造りはしっかりしてる。月白酒造の資料で見た、昔ながらの日本の酒蔵にもどこか通じるものがあるな)
俺が物珍しそうに辺りを見回していると、バルガスがぽつりと語り始めた。
「昔、ここには王都で一番の酒を造る職人がいた。ここで造られる『陽光の雫』って酒は、王家御用達の銘酒でな。俺もガキの頃に一度だけ、親父に隠れて舐めさせてもらったことがある……。太陽の味がする、とんでもねえ逸品だった」
彼のゴツい顔が、遠い昔を懐かしむように、わずかに和らいでいた。
「だが、その職人が亡くなってから、跡を継いだ息子がどうにも駄目だったらしい。味は落ち、客は離れ、十年も経たないうちに、このザマだ」
バルガスは、床に転がっていた陶器の破片を、その大きな手でそっと拾い上げた。
「昨日、お前がやったことを見て思い出したんだ。あのまずいエールに、果実一つで新しい価値を付け加えやがった。あの発想力があれば……あるいは、と思ったのさ」
彼は真剣な眼差しで、俺をまっすぐに見つめた。
「こいつを、もう一度世に出してやりてぇんだ。この伝説の酒を、復活させたい。兄ちゃん、お前の力を貸してくれ」
熱い言葉だった。しかし、俺は酒を造れない。
(どう断ったものか……)
心苦しく思いながら、何か手がかりはないかと散らばった残骸に目をやった、その時だった。腐りかけた木箱の中から、羊皮紙の束がはみ出しているのが見えた。俺はそれを慎重に取り出す。それは、醸造に関する記録……いわゆるレシピの断片だった。
書かれている文字はほとんど読めないが、「原料の選定」「三段階の温度管理」「九十日間の長期低温発酵」といった単語が、奇跡的に読み取れた。
(これは……! 造り方は分からなくても、どんなコンセプトで、どれだけ手間暇をかけて造られていたかは分かるぞ!)
そうだ。俺は杜氏じゃない。酒は造れない。でも、月白酒造でセールスマンだった俺には、できることがある。
このレシピを元に、最高の腕を持つ職人を探し出す。バルガスのような情熱的な協力者とチームを組む。そして、完成した酒の魅力を誰よりも雄弁に語り、世に広める。それはまさに、俺が日本でやってきた『営業』という仕事そのものじゃないか。
(これ……俺でもいけるかも?)
俺は古びた羊皮紙を握りしめ、覚悟を決めて顔を上げた。
「バルガスさん。俺は酒を造ることはできません。醸造の知識は、素人同然です」
「……そうか」
落胆の色を隠せないバルガスに、俺はにやりと笑ってみせた。営業マンのスイッチが入る。
「でも、最高の酒を造るためのチームを作って、最高の酒をこの世に送り出す『プロデュース』なら、お任せください。俺、そういう交渉ごとは得意なんですよ。人は口説けますから」
崩れた天井から、陽光が俺とバルガスさんの顔を照らしていた。