第2話 営業は体が資本です
【三上 健太】
俺は土埃で汚れた革靴を気にしながらも、固く決意して一歩を踏み出した。幸い、街までは一本道が続いている。道中、何度かすれ違った人々は、麻や革で作られた素朴な服を着ており、俺のスーツ姿を奇妙なものを見る目で遠巻きに眺めていった。
(まあ、そうだよな。完全に浮いてる)
三十分ほど歩いただろうか。巨大な城門が、その全貌を現した。分厚い木と鉄で補強された門の両脇には、いかにもな鎧兜に身を包み、長い槍を手にした衛兵が二人、厳しい顔で立っている。
俺が門をくぐろうとすると、その内の一人が槍の石突きで地面を突き、行く手を阻んだ。
「待て。何者だ?」
低く、鋭い声。値踏みするような視線が、俺の頭のてっぺんからつま先までをなめるように往復する。
(さて、どう切り抜けるか……。営業マンの腕の見せ所だな)
正直に「女神に召喚されたけど、人違いで放り出されました」なんて言っても、頭のおかしい奴だと思われるのが関の山だ。俺は、いつもの商談モードに頭を切り替え、人好きのする笑みを顔に貼り付けた。
「これはご丁寧にどうも。わたくし、三上と申します。遠方の国から参りました、しがない商人でして」
「商人だと? その奇妙な服が、お前の国の正装か?」
衛兵は眉間のしわを深くする。どうやら、スーツという文化はこの世界にはないらしい。
「はい。我が故郷では、大切な商談の際には、このような服装で臨むのが礼儀となっております」
「ふん……。で、通行証は持っているのか?」
「つうこうしょう、ですか?」
聞き慣れない単語に、思わず素で返してしまった。しまった、という顔をすると、衛兵の目がさらに険しくなる。
「この街……王都アステリアに入るには、身分を証明する物か、商業ギルドが発行した通行証が必要だ。持っていないのか?」
「あ、いえ、その……長旅の途中で紛失してしまったようでして……。申し訳ありません」
咄嗟に嘘をついたが、衛兵は「やはりな」とでも言いたげに鼻を鳴らした。完全に怪しまれている。
「ならば通すわけにはいかんな。立ち去れ」
「まあまあ、そうおっしゃらず! わたくし、決して怪しい者ではございません!」
食い下がる俺に、もう一人の衛兵が面倒くさそうに口を挟んだ。
「おい、問答はいい。その鞄の中身を調べさせろ。武器や禁制品を隠し持っているかもしれん」
絶体絶命か。しかし、俺は内心でガッツポーズをした。武器など持っているはずもない。むしろ、この鞄の中身こそが、俺の唯一の武器だった。
「ええ、どうぞどうぞ! いくらでもご覧ください!」
俺は恭しくビジネスバッグを差し出した。衛兵は訝しげな顔をしながらも、バッグを受け取って中身を改め始める。出てきたのは、クリアファイルに挟まれた会社のパンフレット、販促用のボールペン、そして飲みかけのお茶。
「……何だこれは? 奇妙な絵姿が描かれた、つるつるとした紙……それに、この書く道具は?」
衛兵は、月白酒造のパンフレットを不思議そうに眺めている。美しい白壁の酒蔵や、金色に輝く大吟醸酒の写真が、彼らの目には奇妙な絵画に映ったようだ。
チャンスだ。
「それは、わたくしが扱う『商品』の絵姿でございます」
俺はパンフレットの一番美しいページ……金賞受賞のプレートが輝く、最高級大吟醸『月詠の雫』の写真を指さした。
「これは『サケ』と申しまして、米と水から造られる、我が故郷が誇る至高の飲み物です。わたくしは、この素晴らしい酒を広めるために、この地へやって参りました」
「……酒、だと?」
その言葉に、二人の衛兵の目の色が変わった。女神様が言っていた通りなら、この世界の酒は相当ひどいはずだ。彼らの反応は、俺の仮説を裏付けていた。
「左様です。祝いの席に華を添え、一日の疲れを癒やす魔法の液体……それが酒。お二方も、お好きでしょう?」
俺がにこやかに問いかけると、二人は顔を見合わせ、気まずそうに咳払いをした。
「……まあ、嫌いではないが」
「よし、通そう」
一人の衛兵が、意外なほどあっさりと結論を出した。
「ただし、条件がある。すぐに冒険者ギルドか商業ギルドへ向かい、身分登録を済ませろ。それが済むまでは、城壁内での商業活動は一切許さん。いいな?」
(免許もたいなもんが必要ってことか? まあ仕方ないか……)
「はい! もちろんです!」
渡りに船とはこのことだ。俺は深々と頭を下げた。衛兵はパンフレットとボールペンを興味深そうに眺めた後、「これは預かっておく」と言って懐にしまい、ビジネスバッグだけを返してくれた。
(販促品、早速効果あったな……!)
こうして俺は、まんまと王都アステリアへの入場許可を得た。一文無しの状況は変わらないが、大きな一歩だ。ざわめきと活気に満ちた街並みを前に、俺はスーツの襟を正し、新たな営業先へと足を踏み入れた。