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第1話 酒がまずいから、営業ですが召喚されました

【三上 健太】


 じりじりとアスファルトを焦がす太陽から逃げるように、俺は商業ビルの通用口に駆け込んだ。ひんやりとした空気が火照った体を撫で、思わず安堵のため息が漏れる。今日の営業も無事に終了。あとは会社に戻って報告書を書くだけだ。そんな、いつもと変わらないはずの一日が、唐突に終わりを告げた。


 視界が真っ白に染まったかと思うと、体がふわりと浮き上がるような奇妙な感覚に襲われる。抵抗する間もなかった。次に目を開けた時、俺……三上健太みかみけんたは、見たこともない場所に立っていた。


 床も、壁も、そして天井も、全てが磨き上げられた大理石でできている。荘厳、という言葉がこれほどしっくりくる場所を俺は知らない。まるで西洋の神殿のようだ。いや、神殿そのものなのだろう。部屋の中央には、天窓から差し込む光を浴びて、一人の女性が佇んでいた。


 絹のように滑らかな銀色の長髪。見る者を射抜くような力強い、それでいて慈愛に満ちた金色の瞳。透き通るような白い肌を、薄い衣が緩やかに包んでいる。人知を超えたその美しさは、神々しいとしか表現できなかった。


(うわ……美人……いや、次元が違う。これが女神ってやつか?)


 あまりのことに呆然と立ち尽くす俺に、その女性……女神様は、ゆっくりと口を開いた。


「よくぞ参られました、異世界の救世主よ」


 鈴を転がすような、とはまさにこのことか。心地よく響く声だった。


「わたくしは、この世界を司る豊穣と祝祭の女神、リディアと申します。あなたを召喚いたしました」


「しょ、召喚……ですか?」


 ようやく絞り出した声は、自分でも情けないほどに上ずっていた。


「はい。この世界……わたくしが愛するこの世界は今、深刻な危機に瀕しているのです」


 女神リディアは、その美しい顔を悲痛に歪ませる。一体どんな恐ろしい魔王が、あるいは未曾有の大災害がこの世界を襲っているというのか。ゴクリと、固唾を呑む音がやけに大きく響いた。


「この世界の……酒が、あまりにもまずいのです!」


「……はい?」


 予想だにしない言葉に、俺は間抜けな声で聞き返した。危機の内容が、想像の斜め上をいっていた。


「えっと……お酒、ですか?」


「そうなのです! 泥水を()しただけのような代物ばかり……! 祝祭は活気を失い、人々の笑顔は消え、豊穣の恵みに感謝する心さえも薄れつつあります。これは由々しき事態です!」


 拳を握りしめ、女神リディアは力説する。その姿は真剣そのもので、どうやら冗談を言っているわけではなさそうだ。


「そこで、酒造りの高度な技術を持つ異世界……あなた方の世界から、優れたる『酒造りの匠』を召喚しようと決意したのです! さあ、救世主よ! あなたのその腕で、この世界に真の酒を……人々を笑顔にする至高の一杯を、もたらしてください!」


 キラキラとした期待の眼差しが、真っ直ぐに俺を射抜く。その純粋な期待が、ひどく、ひどく痛かった。


(ああ……これは、非常にまずいパターンだ)


 俺は確かに酒造メーカーに勤務している。大手酒造メーカー『月白(げっぱく)酒造』に。しかし、致命的な問題があった。


「あの……女神様。大変、大変申し上げにくいのですが……」


「何です? 遠慮はいりません。何でも言ってください」


 にこやかに微笑む女神様に、俺は意を決して、そして正直に告白した。


「恐らく、人違いかと存じます」


「……はい?」


「確かに俺は、月白(げっぱく)酒造の社員です。ですが、俺の仕事は酒を『造る』ことではなくて……酒を『売る』ことなんです。つまり、営業でして……」


……しーん。


 神殿に、気まずい沈黙が流れた。女神リディアは、金の瞳をぱちくりと瞬かせ、俺の言った言葉を頭の中で反芻しているようだった。やがて、その意味を完全に理解したのか、彼女の顔からすっと表情が抜け落ちる。


「えいぎょう……ですって?」


 先ほどまでの張りのある声はどこへやら。か細く、力のない声が神殿に響く。


「はい。醸造の知識は、まあ、研修で習った程度には……でも、酵母がどうとか、麹がどうとか、専門的なことは全く……。どちらかというと、どうすればこのお酒がお店に並ぶかとか、どんな料理に合うかを提案するのが仕事でして……」


 俺が説明すればするほど、女神様の肩がどんどん落ちていくのが分かった。銀色の長い髪が、力なく床へと垂れていく。そしてついに、彼女はその場にがっくりと膝をついた。


「そんな……わたくしの全力の神力を使った召喚が……ただの、セールスマンを……」


(セールスマンって……まあ、そうなんだけど……)


 あまりの落胆ぶりに、なんだか申し訳ない気持ちになってくる。俺が悪いわけではないはずだが、この状況を作り出した一端を担っているのは事実だ。


「あ、あの! 女神様!」


 俺は慌てて彼女に駆け寄った。


「確かに俺は、お酒を造ることはできません! でも、美味しいお酒がどんなものかは、誰よりも知っているつもりです! それに、どういうお酒が人々に喜ばれるのか、どうすればその魅力が伝わるのか……その道のプロではあります!」


「……プロ?」


「はい! 例えば、この世界のお酒が本当にまずいとして、その原因を探ったり、どうすれば改善できるかのヒントくらいは出せるかもしれません! それに、もし美味しいお酒ができたとして、それを広めるのは俺の得意分野です!」


 営業で培ったハッタリと勢いで、俺は必死にまくし立てた。すると、うなだれていた女神リディアが、ゆっくりと顔を上げた。その金色の瞳に、ほんのわずかだが、光が戻っているように見えた。


「……本当ですか?」


「本当です! やれるだけのことは、やらせていただきます!」


 俺が力強く胸を叩くと、女神リディアはしばらく俺の顔をじっと見つめていたが、やがて、ふっとかすかな笑みを漏らした。


「……わかりました。今はもう、あなたに賭けてみるしかありません」


.そう言って立ち上がった女神様は、しかし、どこか申し訳なさそうな表情で口を開いた。


「ただ……三上健太さん。あなたに謝らなければならないことがあります」


「はい?」


「実は……あなたを召喚するのに、わたくしの神力のほとんどを使い果たしてしまったのです。なにせ、世界を渡る召喚は久しぶりだったものですから、加減を間違えまして……」


 てへっ、と効果音がつきそうな仕草で女神は舌を出す。おいおい、マジか。


「したがいまして、あなたに与えられる特別な力……いわゆる『転生特典』のようなものは、何もありません。剣の才能も、魔法の才能も、鑑定スキルも……残念ながら」


(うわー……マジか……)


.どんどん雲行きが怪しくなっていく。話が違う、なんてレベルじゃない。


「その上、わたくしは神力を使い果たしたため、一年ほど眠りにつかねばなりません。神殿を維持する力も残っておりません。……つまりですね」


 女神リディアは、すっと人差し指を立てて、にこりと微笑んだ。その笑顔が、なぜかとても恐ろしく見えた。


「まことに、まことに申し訳ないのですが……今すぐ下界に降りて、自力で頑張っていただきたく……」


「ええっ!? そんな無茶な!」


 俺が抗議の声を上げるよりも早く、女神がパチンと指を鳴らした。その瞬間、俺が立っていた大理石の床が、綺麗さっぱり消え失せる。


「あ〜れ〜!」


 俺の体は、なすすべもなく神殿から放り出された。はるか上空から、真っ逆さまに落ちていく。眼下には緑豊かな大地と、青い空が広がっていた。いや、空を見ている場合じゃない。このままでは地面に激突して、異世界ライフは開始数分で終了だ。


(マジかよ、あの女神様! ポンコツにもほどがあるだろ!)


 風切り音だけが耳元で鳴り響く。死を覚悟して、ぎゅっと目を瞑った、その時だった。


 ふわり。


 まるで柔らかなクッションに受け止められたかのように、落下速度が急激に落ちる。恐る恐る目を開けると、俺の体はゆっくりと、本当にゆっくりと降下していた。やがて、地面にそっと、音もなく着地する。


(最後の最後に、ほんの少しだけ神力が残ってたのか……。最後の優しさ……なのか?)


 何はともあれ、助かった。安堵のため息をつき、俺は顔を上げた。そして、目の前に広がる光景に息を呑む。


 そびえ立つ、巨大な城壁。どこまでも続くように見えるその壁は、一つの巨大な都市をぐるりと囲んでいた。城門の上には兵士らしき人影が見え、活気のあるざわめきがここまで聞こえてくるようだ。


(ヨーロッパの古い街みたいだな。とりあえず……行ってみるしかないか)


 俺は自分の服装を見下ろす。よれよれのスーツに、営業用のビジネスバッグ。中身はパンフレットと、飲みかけのペットボトルのお茶だけ。


 こうして、スキルなし、知識なし、経験なし、ないない尽くしの俺の異世界生活が、本当に始まった。果たして、ただの営業マンに、まずい酒しかない世界が救えるのだろうか。正直、自信は全くなかったが、やるしかなかった。

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