王子と魔女の契約結婚
レグナリア王国の第二王子、レオン・アズレウスは、王宮の回廊を歩きながら、深くため息をついた。
「また政略結婚の話か……いい加減、うんざりだな」
白い大理石に映る自分の影を見下ろしながら、レオンは自嘲した。
第一王子である兄は病弱で、父王も高齢。国は次の世代を担う者に期待をかけている。
だからこそ、レオンに次々と持ち上がる縁談は、単なる個人の問題ではなかった。
「王族とはいえ、俺だって……誰かを愛する自由ぐらい、持っていたい」
とはいえ、現実は厳しい。
周囲は家柄と権力、利益でしか花嫁を選ばせようとしない。
レオン自身は心の底では、そんな形式ばった結婚に意味を見いだせずにいた。
だから、思いついたのだ。
政略結婚を無効にする、破天荒な手段を。
それは――「既に結婚している」と既成事実を作ること。
そして、相手はできるだけ“誰も口出しできない存在”でなければならない。
その結論として、レオンが選んだのが――辺境に住む悪名高い魔女、カミラだった。
***
数日後、レオンは王都を抜け出し、馬を走らせていた。
目指すは北のはずれ、深い森の奥にあるという「魔女の塔」。
噂はさんざんだった。
「冷酷な女」「人を呪う存在」「誰も近づかない恐怖の魔女」――。
だが、レオンには直感があった。
その噂は、きっと誇張されている。何より、自分の人生を守るためなら、多少の危険は冒す価値があった。
森を抜け、古びた塔が見えた時、レオンは馬を降りて歩き出した。
塔の扉は、音もなく開いた。
「ようこそ、王子様」
そこに立っていたのは――
長い黒髪に、琥珀の瞳を持つ、冷たくも妖艶な美しさを持った女性だった。
彼女がカミラだった。
「話は聞いているわ。……“契約結婚”がしたいんですって?」
カミラはくすりと笑った。どこか興味深そうに、レオンを値踏みするような目を向ける。
「そうだ。結婚だけの契約だ。愛情も、未来も求めない。……ただ、既成事実さえ作れればいい」
「ふうん……なるほどね」
カミラは指先でワイングラスをくるくる回しながら、考え込んだ。
「私にどんなメリットがあるのかしら?」
「莫大な金貨。そして、王宮からの不干渉。君が望むなら、王国の特許権や領地も手に入る」
レオンはあらかじめ準備してきた取引条件を淡々と告げた。
カミラは微笑を深めた。
「悪くない話ね。……でも、ただのお遊びなら、つまらないわ」
カミラはレオンに近づき、そっと顔を覗き込んだ。
「私と本当に契約を結びたいなら――証明してもらうわ。形だけでも“愛している”と」
そして、指を立てる。
「まずは――キス、よ。契約の印に」
レオンは一瞬、驚いた。だがすぐに、真剣な眼差しでカミラを見つめ返した。
「……いいだろう」
ためらいなく、レオンはカミラに顔を寄せる。
唇が触れる、ほんの一瞬の接触。
それは嘘のキス。
けれど、どこか胸の奥が、微かに疼いた。
カミラもまた、目を細めながら呟いた。
「面白い人ね、王子様」
そして、二人は契約書にサインを交わした。
偽りの夫婦が、ここに誕生した――。
レオンとカミラは、王都へと戻った。
***
契約結婚の報告を受けた宮廷は、当然、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
「第二王子が、あの魔女と結婚だと!?」 「正気を失ったのか!?」 「即刻、無効にせねば!」
貴族たちは口々に非難したが、レオンは意に介さなかった。
正式な契約書と、国の法に則った婚姻届。どれも抜かりなく整えてあった。
法の上では、誰も彼らの結婚を否定できない。
そしてカミラは、堂々と王宮の一角にある王族用の居館に住むことになった。
とはいえ、彼女に向けられる視線は冷たいものだった。
使用人たちは遠巻きにし、貴族たちは陰で嘲笑い、王族たちは面と向かって侮蔑を隠さなかった。
「ふふ、歓迎されているみたいね」
カミラは皮肉たっぷりに言ったが、その琥珀の瞳には微かな痛みが滲んでいた。
レオンはそれを見て、胸の奥がざらつくのを感じた。
「気にするな。どうせ最初から、誰も俺たちを祝福する気なんてなかった」
「ええ、わかってるわ。……ただ、ちょっと懐かしいだけ」
「懐かしい?」
「辺境に追いやられたときも、こんな目で見られたから」
カミラはさらりと言った。
それ以上、過去を語ろうとはしなかったが、レオンは察した。
この女は――ずっと孤独だったのだ。
***
契約夫婦としての生活は、奇妙な均衡を保っていた。
二人は日中は別々に過ごし、公式な場では並んで立つ。
カミラは見事なまでに「王族の妻」として振る舞い、礼儀も教養も完璧だった。
だが、プライベートでは互いに必要以上に踏み込まなかった。
「君は俺の自由を守るためにここにいる。俺も君の自由を尊重する」
それが、暗黙の了解だった。
それでも、時折、ふとした瞬間に互いを意識してしまうことがあった。
たとえば、食堂で偶然、視線が合った時。
たとえば、渡り廊下で、雨宿りをしていたカミラに傘を差し出した時。
たとえば、夜の庭園で、二人きりになった時。
そのどれもが、心に小さな波紋を広げた。
***
ある日の午後、王都の市街地で事件が起きた。
貴族たちの馬車が暴走し、通行人を巻き込む寸前だったのだ。
たまたま通りかかったレオンは、迷うことなく飛び出した。
子供を庇い、馬車の進路を変えるために、自ら身を投げ出す。
轟音と悲鳴が響いた。
駆けつけたカミラが目にしたのは、地面に倒れるレオンの姿だった。
「レオン……!」
カミラは駆け寄り、血に染まった彼の手を取った。
幸い命に別状はなかったが、腕を強く打ち、動かすことができない。
周囲はどよめき、誰もがカミラを遠巻きに見ていた。
「魔女が何をするつもりだ」 「呪いか……!」
そんな声が聞こえた。
カミラは一瞬だけ、周囲を睨んだ。
だが次の瞬間、彼女は静かにレオンを抱き起こした。
「……バカね。どうしてそんな無茶を」
カミラの手から、温かな光が溢れた。
癒しの魔法――
この国では忌避される、魔女だけが使える奇跡の力。
レオンの傷は、ゆっくりと癒えていった。
レオンは、朦朧とする意識の中でカミラの顔を見た。
そこにあったのは、あの冷たい仮面ではなかった。
ただ、誰よりも必死に、自分を守ろうとする一人の女性の顔だった。
(カミラ……)
心が、微かに震えた。
仮面のように冷たかった関係の下で、確かに本物の何かが芽吹き始めている。
レオンは、気づかぬふりをすることができなかった。
***
数日が経ち、レオンは王宮内の私室で、怪我した腕を包帯で固定しながら書類に目を通していた。
完全に癒えたわけではないが、カミラの癒しの魔法のおかげで、思ったより回復は早かった。
「まったく……庶民の前で、あんな騒動を起こすとは……」
眉をひそめてため息をついたところで、扉がノックされた。
「どうぞ」
静かに扉が開くと、そこには当然のようにカミラが立っていた。
黒いドレスに身を包み、どこか曇った表情のまま、そっと室内に入ってくる。
「もう少し、安静にしておくべきじゃない?」
「君が癒してくれたおかげで、随分楽になったよ」
レオンはそう言って微笑んだ。
だがカミラは、その笑顔に素直に返せず、しばらく黙っていた。
やがて、ぽつりとこぼれるように言葉が落ちた。
「どうして、あんなことしたの?」
「……あれか。庶民を庇ったこと?」
「そうよ。王子なのに、自分の立場を危うくするようなことをしてまで――どうして?」
レオンは静かに椅子から立ち上がり、ゆっくりとカミラの方へ歩み寄った。
カミラの瞳が、ほんの少し揺れる。
「俺は、王族である前に、人間だ」
レオンはそう言って、カミラの顔を見つめた。
「この国の人々の命を、ただ“数”としてしか見られなくなったら……それはもう、騎士でも、王族でもないと思ってる」
それは、彼の内にずっとある価値観だった。
王家の中で“異端児”と呼ばれ、上からは疎まれ、下からは敬遠される生き方。
だが、それでもレオンは信じていた。
「君は、俺のことを“普通の王子”だと思ってるのか?」
不意に問われ、カミラは言葉を詰まらせた。
そして、視線を逸らして答える。
「……思ってないわ」
「なら、わかってくれ。
俺はこの結婚を“契約”で済ませるつもりだったけど……最近は、そう思えなくなってきた」
静かに、それでいて真っ直ぐに放たれた言葉。
カミラは何かを振り払うように、レオンから距離を取った。
「やめて、レオン。……それは、ただの感情の揺らぎよ。私たちの関係は契約でしかない。お互いに自由でいるための、偽りの形でしかないのよ」
「でも、それでいいのか? 本当に、何も感じていないのか?」
カミラは答えなかった。
答えられなかった。
彼女の胸にも、確かに何かが芽生えていた。
だがそれを認めれば、過去も傷も、すべてが音を立てて崩れてしまう気がした。
「……私は、感情で生きるのが怖いのよ。レオン」
その言葉に、レオンは目を細めた。
「それでも、感情を交わす価値があるなら、怖くても進むべきだと、俺は思う」
静寂が降りた。
やがて、カミラは力なく微笑んだ。
「……ずるいわね、あなたは」
その笑顔は、今まで見せたどんな仮面よりも柔らかく、そして弱さに満ちていた。
レオンはそっと彼女の手に触れた。
カミラは、わずかに戸惑いながらも、その手を振り払わなかった。
***
その夜。
王宮の庭園で、カミラは一人、月を見上げていた。
風が髪を揺らす。
契約の結婚。それは本来、形だけのものだったはず。
けれど、いつからか、レオンという存在が彼女の心に入り込んでいた。
優しさ、強さ、そしてまっすぐな信念。
カミラは、自分が長年遠ざけてきた“人を信じる”という行為に、もう一歩踏み出しそうになっていた。
その時、レオンの声が背後から響いた。
「月が似合うな、カミラ」
彼女は振り返り、ほんの少しだけ、頬を染めて言った。
「……また、軽口?」
「いや、本気さ」
そのやり取りの中に、確かに“仮面”ではない温度があった。
カミラはレオンと並んで月を見上げながら、ゆっくりと息を吐いた。
心の奥に、さざ波のような感情が広がっていた。
あれほど距離を取っていたはずなのに。
どれだけ冷たく装っていたはずなのに。
レオンの隣にいると、仮面は自然と剥がれていく。
「ねえ、レオン。あなたは……この契約が終わったら、どうするつもり?」
何気ない問いのように聞こえたが、カミラの指先はわずかに震えていた。
レオンはその揺れに気づきながらも、あえて視線を逸らさずに答える。
「たぶん……君がいないと、寂しくなる」
「……バカね、そういうの、冗談で言うと信用できなくなるわよ」
「冗談じゃない」
きっぱりと言われて、カミラは一瞬、言葉を失った。
それでも強がって笑おうとする彼女に、レオンは一歩、距離を詰める。
「俺は最初、政略結婚を避けるためだけに君を選んだ。
でも、今は違う。君と過ごした日々の中で、気づいたんだ」
「何を?」
「“形だけの関係”って、案外壊れやすい。
でも、本当の信頼があれば、それは思っているよりずっと強くて、心地いいものになる」
カミラは何も言えなかった。
ただ、胸の奥で何かが、熱を持って軋むような音を立てた。
「私は……」
それでも、言葉を紡ごうとしたそのときだった。
ふいに、レオンが手を伸ばし、彼女の髪に触れた。
「この髪も、この瞳も、すべてが“魔女”の象徴だと人は言う。でも俺は違うと思う」
「……何を言ってるの?」
「君は誰よりも、人間らしいよ。寂しさを知っていて、傷つくことを恐れていて、それでも他人に手を差し伸べられる」
レオンの言葉は、刃のように鋭くもあたたかく、カミラの心の奥に突き刺さった。
その刹那。
カミラはレオンの胸にすがるように身を預けていた。
自分でも気づかぬうちに、両手が彼の背を抱きしめていた。
「……私は、本当にずっと、誰にも必要とされていないと思っていたの」
「今は違う」
レオンは、カミラの背中にそっと手を回した。
「俺には、君が必要だ」
その言葉に、カミラの目から静かに涙が溢れた。
契約なんて、どうでもよかった。
偽りの関係に隠れていたものが、今ようやく形を得た。
***
翌朝。王宮では、二人が手をつないで歩く姿が目撃された。
宮廷の者たちはざわめいたが、レオンは堂々と彼女を連れて歩いた。
カミラは、少し照れながらも、初めて王宮の中で微笑んでいた。
「……これで、私も“嘘の妻”じゃなくなるのかしら」
「そう思うなら、もう一度キスしてもいい?」
「バカ」
そう言って笑うカミラの横顔に、レオンもまた微笑を返した。
“契約のキス”は、もはや嘘ではなかった。
本物の想いが、そこにあった。
***
春の気配が王都に漂い始めた頃、王宮に激震が走った。
老王、オルヴァイン三世の容態が急変したのだ。
第一王子であり皇太子のユリウスは、幼い頃から病弱でありながら、常に国の未来を託されてきた。
だが今、そのユリウスも床に臥し、政務の場から離れて久しい。
その結果、第二王子であるレオンに、王位継承の現実味が帯びてきたのだった。
「俺が……この国を継ぐかもしれない、か」
王宮の執務室で、報告書の束を見つめながら、レオンは重い溜息を吐いた。
かつては自由を求め、政略結婚を回避するために、無茶な手段をとった男。
だが、今は違う。
カミラと過ごした日々の中で、レオンは“誰かと共に国を背負う”という覚悟を、少しずつ胸に刻み始めていた。
そんな彼の元に、ひとつの報告が届けられる。
「王宮評議会の中で、“魔女を王妃にしてはならない”という意見が多数派になりつつある」
文面に目を通したレオンの眉が、ぴくりと動く。
「……案の定、か」
評議会の保守派貴族たちは、カミラの存在を快く思っていない。
彼女の魔女としての力と出自を、王家にふさわしくないとして断じようとしているのだ。
レオンは拳を握りしめた。
王妃の座など、形式にすぎないと思っていた。
だが今や、それが“彼女を守れるかどうか”の試金石になりつつある。
***
その夜、レオンはカミラの部屋を訪れた。
彼女は香炉の香りに包まれながら、本を読んでいた。
「また政務? それとも、ただの夫婦の会話?」
「そのどちらでもある」
レオンは静かに扉を閉め、彼女の隣に腰を下ろした。
「王の容態が悪化している。兄上の体調も芳しくない。……評議会では、俺に王位を継がせる流れが加速してる」
「そう……そうなると思ってた」
カミラは微笑んだが、その微笑みはどこか寂しげだった。
「カミラ。もし、俺がこのまま王位に就くことになったら……君には、王妃になってもらう」
レオンの言葉に、カミラは小さく息を呑んだ。
「それは、契約の延長として?」
「……いいや、そうじゃない」
レオンは彼女の瞳をしっかりと見つめた。
「これは俺の、意志だ。君に“契約”ではなく、“生涯の伴侶”として傍にいてほしい」
カミラの瞳が大きく見開かれた。
その表情には驚き、戸惑い、そして――ほんの僅かな喜びが混じっていた。
だが。
「……ありがとう。でも、それは無理よ」
カミラはゆっくりと立ち上がり、窓辺へと歩いた。
「私は、魔女よ。王妃になどなれるわけがない。私はこの国で、何もかもを“恐れられる存在”でしかないの」
「そんなことは――」
「あなたが、どれだけ力を尽くしても。私が王妃になれば、必ず不穏の火種になる。あなたを傷つけることになる」
カミラの声音は、どこまでも冷静だった。
だがその冷静さの裏にあるものを、レオンは感じ取っていた。
それは、恐れだった。
自分が誰かを、レオンを傷つける存在になってしまうかもしれないという恐れ。
レオンはそっと、カミラの背に近づき、言葉を探した。
けれど、その背は彼の言葉よりも早く、遠ざかった。
「……だから、契約を解きましょう」
カミラは静かに、はっきりとそう言った。
「この関係は、ここまで。ありがとう、レオン。あなたに出会えて、私は救われた。でも、それだけで十分なの」
レオンはその場に立ち尽くした。
何も答えることができなかった。
契約ではなく、本当の想いを伝えた矢先。
その想いは、彼女の手のひらから、こぼれ落ちようとしていた。
***
カミラの言葉を受けてから、レオンはしばらく彼女に会わなかった。
政務の合間に、剣の稽古に没頭し、無理やり思考を埋める。
だが、どれだけ体を動かしても、胸の奥に広がった空洞は埋まらなかった。
(本当に、これでいいのか?)
何度も自問した。
自分の願いは、カミラにそばにいてほしいというものだった。
彼女に負担をかけたくなかったわけではない。
だが、彼女自身が望まないのなら、無理に引き止めることもできない。
そう、理解していた。
理解しているはずなのに、心は納得しなかった。
夜。
誰もいない王宮の庭園で、レオンは一人、剣を振っていた。
無心で振り続ける剣。
そんな彼の前に、影が落ちた。
「こんな夜更けに剣を振るって……王子様も案外、無茶をするのね」
その声に、レオンは振り返った。
カミラだった。
黒いマントに身を包み、月明かりの下、静かに立っていた。
「……どうした、カミラ。君はもう俺たちの契約を終わらせたはずだ」
「終わらせたわ。でも、最後に伝えなきゃいけないことがあると思った」
カミラはゆっくりと近づき、レオンの前に立った。
「私は、あなたを裏切るのが怖かった。
あなたが王になる時、私の存在があなたを苦しめるんじゃないかって。……それが怖かったの」
レオンは黙って彼女を見つめた。
「でも……」
カミラは拳をぎゅっと握り締めた。
「一番怖かったのは、自分があなたを――好きになってしまったことだった」
その言葉に、レオンの胸が熱くなる。
「だから、逃げたの」
カミラは震える声で続けた。
「あなたを傷つけるのが怖くて、失うのが怖くて……逃げたのよ、私」
レオンは剣を地に突き立て、ゆっくりとカミラに歩み寄った。
「それなら、同じだ」
「え……?」
「俺も、君を失うのが怖かった。君を王妃にすれば、周囲は君を攻撃するだろう。それでも――」
レオンはカミラの手を取った。
「それでも、一緒に生きたいんだ。どんな運命でも、君となら乗り越えられると信じてる」
カミラの目から、大粒の涙がこぼれた。
「……レオン」
震える声で呼ばれるその名に、レオンはそっと微笑んだ。
「一緒に戦おう、カミラ。契約じゃない、本当の誓いを、君に捧げたい」
カミラは声を詰まらせたまま、力いっぱいレオンの手を握り返した。
あたたかかった。
怖いものなど、何もなかった。
この手を、離さなければいい。
***
その夜。
王宮では、大きな変化が静かに始まっていた。
魔女との結婚を認めない保守派たちは、裏で密かにレオンを排除しようと動き始めていたのだ。
彼らにとって、レオンもカミラも「不都合な存在」だった。
そして、悲劇の予兆は、静かに近づいていた。
翌日、レオンは王宮の評議室へ呼び出された。
表向きの理由は、「王位継承に向けた最終調整」だった。
だが、王宮内に漂う空気は、どこか不穏だった。
(……妙だな)
違和感を覚えながらも、レオンは評議室へ足を踏み入れる。
そこには重鎮たちがずらりと並び、冷たい視線を一斉に向けてきた。
その中心に立つのは、王国宰相・グランディール公爵。
保守派の中心人物であり、カミラを「王妃にふさわしくない」と公言してはばからない男だった。
「レオン殿下。本日は重要なお話がございます」
グランディールは、猫なで声で切り出した。
「貴殿の結婚相手――魔女カミラ嬢について、重大な問題が発覚しました」
そう言って、分厚い資料を机に叩きつけた。
そこには、ありもしない罪状――
カミラが王宮の魔法障壁に干渉しただの、王都の疫病を操っただのといった、捏造された嫌疑が並んでいた。
「……馬鹿な」
レオンは憤った。
「そんなもの、捏造だ!」
「しかし、証拠は揃っております」
グランディールは涼しい顔で言う。
「このままでは、王家の威信に関わります。よって、殿下には直ちにカミラ嬢との関係を解消していただきたい」
レオンは拳を握りしめた。
これは明確な追放工作だ。
カミラを排除し、レオンの影響力を削ぐための――。
「拒否したら?」
「……その場合、殿下にも“事故”が起こるかもしれませんな」
脅迫だった。
剣の柄に手をかけたレオンを、周囲の兵士たちが取り囲む。
数では不利だった。
そして、相手はレオンが迂闊に剣を抜けば「謀反の罪」で葬り去るつもりなのだ。
(どうする……?)
己の無力を噛みしめながら、レオンは冷静に打開策を探ろうとした。
その時だった。
評議室の扉が、爆風と共に吹き飛んだ。
「何事だ――!?」
騒然とする中、黒衣を纏った一人の女性が現れた。
カミラだった。
風をまとい、琥珀色の瞳を鋭く光らせながら、堂々と室内に歩み込む。
「……カミラ!」
レオンが驚愕する間に、カミラは杖を高く掲げた。
「これ以上、レオンを傷つけさせない」
その宣言と共に、魔力が爆ぜた。
空間が震え、評議室全体を覆うように、透明な結界が張られる。
兵士たちが動こうとするが、カミラの結界に阻まれ、一歩も動けない。
「これが、魔女の力だ」
グランディールが青ざめる。
だがカミラは、彼らを傷つけるつもりはなかった。
「この場で、あなたたちの陰謀を白日の下に晒す」
カミラの魔法は、嘘を暴く結界――
この結界の中では、隠し事も虚偽もすべて露わになる。
「レオンを陥れようとした者たちの名を、どうぞ自らの口で語りなさい」
そう告げた瞬間、数人の貴族たちが怯え、互いに責任を押し付け合い始めた。
「私は知らない!」 「そ、その計画を立てたのはあいつだ!」
次々と暴かれる陰謀。
グランディールは顔色を失い、がたがたと震え出した。
レオンは、剣を抜くことなく、静かに立ち上がった。
「……これが、魔女カミラだ」
誰よりも強く、誰よりも誇り高い――
そして、誰よりも優しい。
レオンは、カミラに向かって歩み寄った。
「君は、俺の誇りだ」
その言葉に、カミラの瞳が震えた。
王宮の空気が変わっていくのを、レオンは感じていた。
***
数日後。
王宮では、正式に発表が行われた。
「第二王子レオン・アズレウス殿下は、正式に王位を継承し、同時にカミラ・アルディス嬢を王妃と定める」
その知らせは瞬く間に国中に広がった。
かつて魔女と恐れられ、忌み嫌われた存在が――
今や、王の隣に立つ正しき王妃として認められたのだった。
もちろん、すべてが一夜にして変わったわけではない。
未だに反発する者もいたし、民衆の中にも疑念を抱く声はあった。
けれど、あの日、カミラが命を賭してレオンを守った姿を、見ていた者たちもまた確かに存在した。
その勇気と覚悟は、少しずつ人々の心を溶かしていった。
***
戴冠式の日。
レオンは、真新しい王衣を身にまとい、玉座の前に立っていた。
その隣には、緋色のドレスを纏ったカミラがいる。
琥珀の瞳は、少しだけ緊張しながらも、誇り高く前を見据えていた。
「……似合ってるよ、カミラ」
「ふふ、王妃にしては少し怖そうな顔かしら?」
「いや、堂々としてて素晴らしい。誰よりも美しいよ」
からかうでもなく、心からの言葉で。
カミラは恥ずかしそうに視線を逸らしながら、そっとレオンに手を重ねた。
それだけで、十分だった。
二人は並び立ち、民の祝福を受けた。
***
夜、式がすべて終わり、王宮のバルコニーに出た二人は、静かに夜風に吹かれていた。
星々が降るように瞬いている。
「レオン」
カミラが、ぽつりと呟く。
「私、本当はずっと怖かったの。自分が、誰かに愛されるなんて思ってなかった」
レオンはそっと彼女の手を取った。
「もう怖がらなくていい」
優しく、そして力強く、レオンは言った。
「俺は、君と生きる未来を選んだ。君がどんな過去を持っていても、どんな呼び名で呼ばれてきたとしても」
カミラは、涙ぐみながら微笑んだ。
「ありがとう……レオン」
その瞬間、ふたりの間にあった最後の壁が、完全に崩れた。
レオンはカミラをそっと抱き寄せ、深く、確かなキスを落とした。
契約ではない、本物の誓い。
仮面でも、嘘でもない。
ただ、ふたりだけの、真実の約束。
星々が夜空に祝福の輝きを放つ中、二人の影はひとつに重なっていった。
***
後に語り継がれることになる。
“魔女と呼ばれた王妃と、異端の王が築いた、最も美しい時代の物語”を。
そして人々は信じるようになった。
――愛は、運命すら変える力を持つのだと。