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王子と魔女の契約結婚

作者: セイジン


 レグナリア王国の第二王子、レオン・アズレウスは、王宮の回廊を歩きながら、深くため息をついた。


「また政略結婚の話か……いい加減、うんざりだな」


 白い大理石に映る自分の影を見下ろしながら、レオンは自嘲した。

 第一王子である兄は病弱で、父王も高齢。国は次の世代を担う者に期待をかけている。

 だからこそ、レオンに次々と持ち上がる縁談は、単なる個人の問題ではなかった。


「王族とはいえ、俺だって……誰かを愛する自由ぐらい、持っていたい」


 とはいえ、現実は厳しい。

 周囲は家柄と権力、利益でしか花嫁を選ばせようとしない。

 レオン自身は心の底では、そんな形式ばった結婚に意味を見いだせずにいた。


 だから、思いついたのだ。


 政略結婚を無効にする、破天荒な手段を。


 それは――「既に結婚している」と既成事実を作ること。


 そして、相手はできるだけ“誰も口出しできない存在”でなければならない。


 その結論として、レオンが選んだのが――辺境に住む悪名高い魔女、カミラだった。


***


 数日後、レオンは王都を抜け出し、馬を走らせていた。

 目指すは北のはずれ、深い森の奥にあるという「魔女の塔」。


 噂はさんざんだった。

 「冷酷な女」「人を呪う存在」「誰も近づかない恐怖の魔女」――。


 だが、レオンには直感があった。

 その噂は、きっと誇張されている。何より、自分の人生を守るためなら、多少の危険は冒す価値があった。


 森を抜け、古びた塔が見えた時、レオンは馬を降りて歩き出した。


 塔の扉は、音もなく開いた。


「ようこそ、王子様」


 そこに立っていたのは――

 長い黒髪に、琥珀の瞳を持つ、冷たくも妖艶な美しさを持った女性だった。


 彼女がカミラだった。


「話は聞いているわ。……“契約結婚”がしたいんですって?」


 カミラはくすりと笑った。どこか興味深そうに、レオンを値踏みするような目を向ける。


「そうだ。結婚だけの契約だ。愛情も、未来も求めない。……ただ、既成事実さえ作れればいい」


「ふうん……なるほどね」


 カミラは指先でワイングラスをくるくる回しながら、考え込んだ。


「私にどんなメリットがあるのかしら?」


「莫大な金貨。そして、王宮からの不干渉。君が望むなら、王国の特許権や領地も手に入る」


 レオンはあらかじめ準備してきた取引条件を淡々と告げた。


 カミラは微笑を深めた。


「悪くない話ね。……でも、ただのお遊びなら、つまらないわ」


 カミラはレオンに近づき、そっと顔を覗き込んだ。


「私と本当に契約を結びたいなら――証明してもらうわ。形だけでも“愛している”と」


 そして、指を立てる。


「まずは――キス、よ。契約の印に」


 レオンは一瞬、驚いた。だがすぐに、真剣な眼差しでカミラを見つめ返した。


「……いいだろう」


 ためらいなく、レオンはカミラに顔を寄せる。


 唇が触れる、ほんの一瞬の接触。


 それは嘘のキス。

 けれど、どこか胸の奥が、微かに疼いた。


 カミラもまた、目を細めながら呟いた。


「面白い人ね、王子様」


 そして、二人は契約書にサインを交わした。


 偽りの夫婦が、ここに誕生した――。


 レオンとカミラは、王都へと戻った。


***


 契約結婚の報告を受けた宮廷は、当然、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。


「第二王子が、あの魔女と結婚だと!?」 「正気を失ったのか!?」 「即刻、無効にせねば!」


 貴族たちは口々に非難したが、レオンは意に介さなかった。

 正式な契約書と、国の法に則った婚姻届。どれも抜かりなく整えてあった。


 法の上では、誰も彼らの結婚を否定できない。


 そしてカミラは、堂々と王宮の一角にある王族用の居館に住むことになった。


 とはいえ、彼女に向けられる視線は冷たいものだった。


 使用人たちは遠巻きにし、貴族たちは陰で嘲笑い、王族たちは面と向かって侮蔑を隠さなかった。


「ふふ、歓迎されているみたいね」


 カミラは皮肉たっぷりに言ったが、その琥珀の瞳には微かな痛みが滲んでいた。


 レオンはそれを見て、胸の奥がざらつくのを感じた。


「気にするな。どうせ最初から、誰も俺たちを祝福する気なんてなかった」


「ええ、わかってるわ。……ただ、ちょっと懐かしいだけ」


「懐かしい?」


「辺境に追いやられたときも、こんな目で見られたから」


 カミラはさらりと言った。

 それ以上、過去を語ろうとはしなかったが、レオンは察した。


 この女は――ずっと孤独だったのだ。


***


 契約夫婦としての生活は、奇妙な均衡を保っていた。


 二人は日中は別々に過ごし、公式な場では並んで立つ。

 カミラは見事なまでに「王族の妻」として振る舞い、礼儀も教養も完璧だった。


 だが、プライベートでは互いに必要以上に踏み込まなかった。


「君は俺の自由を守るためにここにいる。俺も君の自由を尊重する」


 それが、暗黙の了解だった。


 それでも、時折、ふとした瞬間に互いを意識してしまうことがあった。


 たとえば、食堂で偶然、視線が合った時。


 たとえば、渡り廊下で、雨宿りをしていたカミラに傘を差し出した時。


 たとえば、夜の庭園で、二人きりになった時。


 そのどれもが、心に小さな波紋を広げた。


***


 ある日の午後、王都の市街地で事件が起きた。


 貴族たちの馬車が暴走し、通行人を巻き込む寸前だったのだ。


 たまたま通りかかったレオンは、迷うことなく飛び出した。


 子供を庇い、馬車の進路を変えるために、自ら身を投げ出す。


 轟音と悲鳴が響いた。


 駆けつけたカミラが目にしたのは、地面に倒れるレオンの姿だった。


「レオン……!」


 カミラは駆け寄り、血に染まった彼の手を取った。


 幸い命に別状はなかったが、腕を強く打ち、動かすことができない。


 周囲はどよめき、誰もがカミラを遠巻きに見ていた。


「魔女が何をするつもりだ」 「呪いか……!」


 そんな声が聞こえた。


 カミラは一瞬だけ、周囲を睨んだ。


 だが次の瞬間、彼女は静かにレオンを抱き起こした。


「……バカね。どうしてそんな無茶を」


 カミラの手から、温かな光が溢れた。


 癒しの魔法――

 この国では忌避される、魔女だけが使える奇跡の力。


 レオンの傷は、ゆっくりと癒えていった。


 レオンは、朦朧とする意識の中でカミラの顔を見た。


 そこにあったのは、あの冷たい仮面ではなかった。


 ただ、誰よりも必死に、自分を守ろうとする一人の女性の顔だった。


(カミラ……)


 心が、微かに震えた。


 仮面のように冷たかった関係の下で、確かに本物の何かが芽吹き始めている。


 レオンは、気づかぬふりをすることができなかった。


***


 数日が経ち、レオンは王宮内の私室で、怪我した腕を包帯で固定しながら書類に目を通していた。


 完全に癒えたわけではないが、カミラの癒しの魔法のおかげで、思ったより回復は早かった。


「まったく……庶民の前で、あんな騒動を起こすとは……」


 眉をひそめてため息をついたところで、扉がノックされた。


「どうぞ」


 静かに扉が開くと、そこには当然のようにカミラが立っていた。


 黒いドレスに身を包み、どこか曇った表情のまま、そっと室内に入ってくる。


「もう少し、安静にしておくべきじゃない?」


「君が癒してくれたおかげで、随分楽になったよ」


 レオンはそう言って微笑んだ。

 だがカミラは、その笑顔に素直に返せず、しばらく黙っていた。


 やがて、ぽつりとこぼれるように言葉が落ちた。


「どうして、あんなことしたの?」


「……あれか。庶民を庇ったこと?」


「そうよ。王子なのに、自分の立場を危うくするようなことをしてまで――どうして?」


 レオンは静かに椅子から立ち上がり、ゆっくりとカミラの方へ歩み寄った。


 カミラの瞳が、ほんの少し揺れる。


「俺は、王族である前に、人間だ」


 レオンはそう言って、カミラの顔を見つめた。


「この国の人々の命を、ただ“数”としてしか見られなくなったら……それはもう、騎士でも、王族でもないと思ってる」


 それは、彼の内にずっとある価値観だった。


 王家の中で“異端児”と呼ばれ、上からは疎まれ、下からは敬遠される生き方。

 だが、それでもレオンは信じていた。


「君は、俺のことを“普通の王子”だと思ってるのか?」


 不意に問われ、カミラは言葉を詰まらせた。


 そして、視線を逸らして答える。


「……思ってないわ」


「なら、わかってくれ。

俺はこの結婚を“契約”で済ませるつもりだったけど……最近は、そう思えなくなってきた」


 静かに、それでいて真っ直ぐに放たれた言葉。


 カミラは何かを振り払うように、レオンから距離を取った。


「やめて、レオン。……それは、ただの感情の揺らぎよ。私たちの関係は契約でしかない。お互いに自由でいるための、偽りの形でしかないのよ」


「でも、それでいいのか? 本当に、何も感じていないのか?」


 カミラは答えなかった。


 答えられなかった。


 彼女の胸にも、確かに何かが芽生えていた。

 だがそれを認めれば、過去も傷も、すべてが音を立てて崩れてしまう気がした。


「……私は、感情で生きるのが怖いのよ。レオン」


 その言葉に、レオンは目を細めた。


「それでも、感情を交わす価値があるなら、怖くても進むべきだと、俺は思う」


 静寂が降りた。


 やがて、カミラは力なく微笑んだ。


「……ずるいわね、あなたは」


 その笑顔は、今まで見せたどんな仮面よりも柔らかく、そして弱さに満ちていた。


 レオンはそっと彼女の手に触れた。

 カミラは、わずかに戸惑いながらも、その手を振り払わなかった。


***


 その夜。


 王宮の庭園で、カミラは一人、月を見上げていた。


 風が髪を揺らす。


 契約の結婚。それは本来、形だけのものだったはず。


 けれど、いつからか、レオンという存在が彼女の心に入り込んでいた。


 優しさ、強さ、そしてまっすぐな信念。


 カミラは、自分が長年遠ざけてきた“人を信じる”という行為に、もう一歩踏み出しそうになっていた。


 その時、レオンの声が背後から響いた。


「月が似合うな、カミラ」


 彼女は振り返り、ほんの少しだけ、頬を染めて言った。


「……また、軽口?」


「いや、本気さ」


 そのやり取りの中に、確かに“仮面”ではない温度があった。


 カミラはレオンと並んで月を見上げながら、ゆっくりと息を吐いた。


 心の奥に、さざ波のような感情が広がっていた。


 あれほど距離を取っていたはずなのに。

 どれだけ冷たく装っていたはずなのに。


 レオンの隣にいると、仮面は自然と剥がれていく。


「ねえ、レオン。あなたは……この契約が終わったら、どうするつもり?」


 何気ない問いのように聞こえたが、カミラの指先はわずかに震えていた。


 レオンはその揺れに気づきながらも、あえて視線を逸らさずに答える。


「たぶん……君がいないと、寂しくなる」


「……バカね、そういうの、冗談で言うと信用できなくなるわよ」


「冗談じゃない」


 きっぱりと言われて、カミラは一瞬、言葉を失った。


 それでも強がって笑おうとする彼女に、レオンは一歩、距離を詰める。


「俺は最初、政略結婚を避けるためだけに君を選んだ。

 でも、今は違う。君と過ごした日々の中で、気づいたんだ」


「何を?」


「“形だけの関係”って、案外壊れやすい。

 でも、本当の信頼があれば、それは思っているよりずっと強くて、心地いいものになる」


 カミラは何も言えなかった。

 ただ、胸の奥で何かが、熱を持って軋むような音を立てた。


「私は……」


 それでも、言葉を紡ごうとしたそのときだった。


 ふいに、レオンが手を伸ばし、彼女の髪に触れた。


「この髪も、この瞳も、すべてが“魔女”の象徴だと人は言う。でも俺は違うと思う」


「……何を言ってるの?」


「君は誰よりも、人間らしいよ。寂しさを知っていて、傷つくことを恐れていて、それでも他人に手を差し伸べられる」


 レオンの言葉は、刃のように鋭くもあたたかく、カミラの心の奥に突き刺さった。


 その刹那。


 カミラはレオンの胸にすがるように身を預けていた。


 自分でも気づかぬうちに、両手が彼の背を抱きしめていた。


「……私は、本当にずっと、誰にも必要とされていないと思っていたの」


「今は違う」


 レオンは、カミラの背中にそっと手を回した。


「俺には、君が必要だ」


 その言葉に、カミラの目から静かに涙が溢れた。


 契約なんて、どうでもよかった。


 偽りの関係に隠れていたものが、今ようやく形を得た。


***


 翌朝。王宮では、二人が手をつないで歩く姿が目撃された。


 宮廷の者たちはざわめいたが、レオンは堂々と彼女を連れて歩いた。


 カミラは、少し照れながらも、初めて王宮の中で微笑んでいた。


「……これで、私も“嘘の妻”じゃなくなるのかしら」


「そう思うなら、もう一度キスしてもいい?」


「バカ」


 そう言って笑うカミラの横顔に、レオンもまた微笑を返した。


 “契約のキス”は、もはや嘘ではなかった。


 本物の想いが、そこにあった。


***


 春の気配が王都に漂い始めた頃、王宮に激震が走った。


 老王、オルヴァイン三世の容態が急変したのだ。


 第一王子であり皇太子のユリウスは、幼い頃から病弱でありながら、常に国の未来を託されてきた。

 だが今、そのユリウスも床に臥し、政務の場から離れて久しい。


 その結果、第二王子であるレオンに、王位継承の現実味が帯びてきたのだった。


「俺が……この国を継ぐかもしれない、か」


 王宮の執務室で、報告書の束を見つめながら、レオンは重い溜息を吐いた。


 かつては自由を求め、政略結婚を回避するために、無茶な手段をとった男。


 だが、今は違う。


 カミラと過ごした日々の中で、レオンは“誰かと共に国を背負う”という覚悟を、少しずつ胸に刻み始めていた。


 そんな彼の元に、ひとつの報告が届けられる。


「王宮評議会の中で、“魔女を王妃にしてはならない”という意見が多数派になりつつある」


 文面に目を通したレオンの眉が、ぴくりと動く。


「……案の定、か」


 評議会の保守派貴族たちは、カミラの存在を快く思っていない。

 彼女の魔女としての力と出自を、王家にふさわしくないとして断じようとしているのだ。


 レオンは拳を握りしめた。


 王妃の座など、形式にすぎないと思っていた。


 だが今や、それが“彼女を守れるかどうか”の試金石になりつつある。


***


 その夜、レオンはカミラの部屋を訪れた。


 彼女は香炉の香りに包まれながら、本を読んでいた。


「また政務? それとも、ただの夫婦の会話?」


「そのどちらでもある」


 レオンは静かに扉を閉め、彼女の隣に腰を下ろした。


「王の容態が悪化している。兄上の体調も芳しくない。……評議会では、俺に王位を継がせる流れが加速してる」


「そう……そうなると思ってた」


 カミラは微笑んだが、その微笑みはどこか寂しげだった。


「カミラ。もし、俺がこのまま王位に就くことになったら……君には、王妃になってもらう」


 レオンの言葉に、カミラは小さく息を呑んだ。


「それは、契約の延長として?」


「……いいや、そうじゃない」


 レオンは彼女の瞳をしっかりと見つめた。


「これは俺の、意志だ。君に“契約”ではなく、“生涯の伴侶”として傍にいてほしい」


 カミラの瞳が大きく見開かれた。


 その表情には驚き、戸惑い、そして――ほんの僅かな喜びが混じっていた。


 だが。


「……ありがとう。でも、それは無理よ」


 カミラはゆっくりと立ち上がり、窓辺へと歩いた。


「私は、魔女よ。王妃になどなれるわけがない。私はこの国で、何もかもを“恐れられる存在”でしかないの」


「そんなことは――」


「あなたが、どれだけ力を尽くしても。私が王妃になれば、必ず不穏の火種になる。あなたを傷つけることになる」


 カミラの声音は、どこまでも冷静だった。


 だがその冷静さの裏にあるものを、レオンは感じ取っていた。


 それは、恐れだった。


 自分が誰かを、レオンを傷つける存在になってしまうかもしれないという恐れ。


 レオンはそっと、カミラの背に近づき、言葉を探した。


 けれど、その背は彼の言葉よりも早く、遠ざかった。


「……だから、契約を解きましょう」


 カミラは静かに、はっきりとそう言った。


「この関係は、ここまで。ありがとう、レオン。あなたに出会えて、私は救われた。でも、それだけで十分なの」


 レオンはその場に立ち尽くした。


 何も答えることができなかった。


 契約ではなく、本当の想いを伝えた矢先。


 その想いは、彼女の手のひらから、こぼれ落ちようとしていた。


 ***


 カミラの言葉を受けてから、レオンはしばらく彼女に会わなかった。


 政務の合間に、剣の稽古に没頭し、無理やり思考を埋める。

 だが、どれだけ体を動かしても、胸の奥に広がった空洞は埋まらなかった。


(本当に、これでいいのか?)


 何度も自問した。


 自分の願いは、カミラにそばにいてほしいというものだった。

 彼女に負担をかけたくなかったわけではない。

 だが、彼女自身が望まないのなら、無理に引き止めることもできない。


 そう、理解していた。

 理解しているはずなのに、心は納得しなかった。


 夜。

 誰もいない王宮の庭園で、レオンは一人、剣を振っていた。


 無心で振り続ける剣。


 そんな彼の前に、影が落ちた。


「こんな夜更けに剣を振るって……王子様も案外、無茶をするのね」


 その声に、レオンは振り返った。


 カミラだった。


 黒いマントに身を包み、月明かりの下、静かに立っていた。


「……どうした、カミラ。君はもう俺たちの契約を終わらせたはずだ」


「終わらせたわ。でも、最後に伝えなきゃいけないことがあると思った」


 カミラはゆっくりと近づき、レオンの前に立った。


「私は、あなたを裏切るのが怖かった。

 あなたが王になる時、私の存在があなたを苦しめるんじゃないかって。……それが怖かったの」


 レオンは黙って彼女を見つめた。


「でも……」


 カミラは拳をぎゅっと握り締めた。


「一番怖かったのは、自分があなたを――好きになってしまったことだった」


 その言葉に、レオンの胸が熱くなる。


「だから、逃げたの」


 カミラは震える声で続けた。


「あなたを傷つけるのが怖くて、失うのが怖くて……逃げたのよ、私」


 レオンは剣を地に突き立て、ゆっくりとカミラに歩み寄った。


「それなら、同じだ」


「え……?」


「俺も、君を失うのが怖かった。君を王妃にすれば、周囲は君を攻撃するだろう。それでも――」


 レオンはカミラの手を取った。


「それでも、一緒に生きたいんだ。どんな運命でも、君となら乗り越えられると信じてる」


 カミラの目から、大粒の涙がこぼれた。


「……レオン」


 震える声で呼ばれるその名に、レオンはそっと微笑んだ。


「一緒に戦おう、カミラ。契約じゃない、本当の誓いを、君に捧げたい」


 カミラは声を詰まらせたまま、力いっぱいレオンの手を握り返した。


 あたたかかった。


 怖いものなど、何もなかった。


 この手を、離さなければいい。


***


 その夜。


 王宮では、大きな変化が静かに始まっていた。


 魔女との結婚を認めない保守派たちは、裏で密かにレオンを排除しようと動き始めていたのだ。


 彼らにとって、レオンもカミラも「不都合な存在」だった。


 そして、悲劇の予兆は、静かに近づいていた。


 翌日、レオンは王宮の評議室へ呼び出された。


 表向きの理由は、「王位継承に向けた最終調整」だった。

 だが、王宮内に漂う空気は、どこか不穏だった。


(……妙だな)


 違和感を覚えながらも、レオンは評議室へ足を踏み入れる。


 そこには重鎮たちがずらりと並び、冷たい視線を一斉に向けてきた。


 その中心に立つのは、王国宰相・グランディール公爵。

 保守派の中心人物であり、カミラを「王妃にふさわしくない」と公言してはばからない男だった。


「レオン殿下。本日は重要なお話がございます」


 グランディールは、猫なで声で切り出した。


「貴殿の結婚相手――魔女カミラ嬢について、重大な問題が発覚しました」


 そう言って、分厚い資料を机に叩きつけた。


 そこには、ありもしない罪状――

 カミラが王宮の魔法障壁に干渉しただの、王都の疫病を操っただのといった、捏造された嫌疑が並んでいた。


「……馬鹿な」


 レオンは憤った。


「そんなもの、捏造だ!」


「しかし、証拠は揃っております」


 グランディールは涼しい顔で言う。


「このままでは、王家の威信に関わります。よって、殿下には直ちにカミラ嬢との関係を解消していただきたい」


 レオンは拳を握りしめた。


 これは明確な追放工作だ。

 カミラを排除し、レオンの影響力を削ぐための――。


「拒否したら?」


「……その場合、殿下にも“事故”が起こるかもしれませんな」


 脅迫だった。


 剣の柄に手をかけたレオンを、周囲の兵士たちが取り囲む。


 数では不利だった。

 そして、相手はレオンが迂闊に剣を抜けば「謀反の罪」で葬り去るつもりなのだ。


(どうする……?)


 己の無力を噛みしめながら、レオンは冷静に打開策を探ろうとした。


 その時だった。


 評議室の扉が、爆風と共に吹き飛んだ。


「何事だ――!?」


 騒然とする中、黒衣を纏った一人の女性が現れた。


 カミラだった。


 風をまとい、琥珀色の瞳を鋭く光らせながら、堂々と室内に歩み込む。


「……カミラ!」


 レオンが驚愕する間に、カミラは杖を高く掲げた。


「これ以上、レオンを傷つけさせない」


 その宣言と共に、魔力が爆ぜた。


 空間が震え、評議室全体を覆うように、透明な結界が張られる。


 兵士たちが動こうとするが、カミラの結界に阻まれ、一歩も動けない。


「これが、魔女の力だ」


 グランディールが青ざめる。


 だがカミラは、彼らを傷つけるつもりはなかった。


「この場で、あなたたちの陰謀を白日の下に晒す」


 カミラの魔法は、嘘を暴く結界――

 この結界の中では、隠し事も虚偽もすべて露わになる。


「レオンを陥れようとした者たちの名を、どうぞ自らの口で語りなさい」


 そう告げた瞬間、数人の貴族たちが怯え、互いに責任を押し付け合い始めた。


「私は知らない!」 「そ、その計画を立てたのはあいつだ!」


 次々と暴かれる陰謀。


 グランディールは顔色を失い、がたがたと震え出した。


 レオンは、剣を抜くことなく、静かに立ち上がった。


「……これが、魔女カミラだ」


 誰よりも強く、誰よりも誇り高い――

 そして、誰よりも優しい。


 レオンは、カミラに向かって歩み寄った。


「君は、俺の誇りだ」


 その言葉に、カミラの瞳が震えた。


 王宮の空気が変わっていくのを、レオンは感じていた。


***


 数日後。


 王宮では、正式に発表が行われた。


「第二王子レオン・アズレウス殿下は、正式に王位を継承し、同時にカミラ・アルディス嬢を王妃と定める」


 その知らせは瞬く間に国中に広がった。


 かつて魔女と恐れられ、忌み嫌われた存在が――

 今や、王の隣に立つ正しき王妃として認められたのだった。


 もちろん、すべてが一夜にして変わったわけではない。


 未だに反発する者もいたし、民衆の中にも疑念を抱く声はあった。

 けれど、あの日、カミラが命を賭してレオンを守った姿を、見ていた者たちもまた確かに存在した。


 その勇気と覚悟は、少しずつ人々の心を溶かしていった。


***


 戴冠式の日。


 レオンは、真新しい王衣を身にまとい、玉座の前に立っていた。


 その隣には、緋色のドレスを纏ったカミラがいる。


 琥珀の瞳は、少しだけ緊張しながらも、誇り高く前を見据えていた。


「……似合ってるよ、カミラ」


「ふふ、王妃にしては少し怖そうな顔かしら?」


「いや、堂々としてて素晴らしい。誰よりも美しいよ」


 からかうでもなく、心からの言葉で。


 カミラは恥ずかしそうに視線を逸らしながら、そっとレオンに手を重ねた。


 それだけで、十分だった。


 二人は並び立ち、民の祝福を受けた。


***


 夜、式がすべて終わり、王宮のバルコニーに出た二人は、静かに夜風に吹かれていた。


 星々が降るように瞬いている。


「レオン」


 カミラが、ぽつりと呟く。


「私、本当はずっと怖かったの。自分が、誰かに愛されるなんて思ってなかった」


 レオンはそっと彼女の手を取った。


「もう怖がらなくていい」


 優しく、そして力強く、レオンは言った。


「俺は、君と生きる未来を選んだ。君がどんな過去を持っていても、どんな呼び名で呼ばれてきたとしても」


 カミラは、涙ぐみながら微笑んだ。


「ありがとう……レオン」


 その瞬間、ふたりの間にあった最後の壁が、完全に崩れた。


 レオンはカミラをそっと抱き寄せ、深く、確かなキスを落とした。


 契約ではない、本物の誓い。


 仮面でも、嘘でもない。

 ただ、ふたりだけの、真実の約束。


 星々が夜空に祝福の輝きを放つ中、二人の影はひとつに重なっていった。


***


 後に語り継がれることになる。


 “魔女と呼ばれた王妃と、異端の王が築いた、最も美しい時代の物語”を。


 そして人々は信じるようになった。


 ――愛は、運命すら変える力を持つのだと。

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