表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

幕開け

作者: 年越し蕎麦

 おびただしい量の血が滴っている。

 しけた畳は血を吸わない。古臭い家屋だ、梅雨時のこの重怠い空気では風が入り込んでも血臭ばかり混ぜ返していく。まるで沼地のようだった。ひどいにおいだ。

 弧を描いて広がる血溜りには、中心があった。中心には男が立っている。手からも髪からも血を滴らせ、膝から下は血でずぶ濡れだった。そして男の足下には人間が二人倒れている。

 あれは両親だ。

「どうして、」

 自分の喉が震えたのは分かるが、言葉を吐こうと思って吐いたわけではなかった。呟きは小さく、自分ですら理解していない言葉は口の中で消えた。

 けれども男は聞き逃さなかったらしい。

 こちらを振り返った姿はただの人間の男だった。服は軍服、顔は返り血で汚れ、軍帽のせいで造形は分からない。ただ明確に、悪鬼や妖怪ではなく、彼は人間の男だと思った。

「どうして?」

 そう男の喉から発されたそれが、先ほど自分の発したものと同じ音だと遅れて気がついた。男は言った。

「どうしてって、理由があれば悪いことをしてもいいのか?」──ハッ、鼻で笑う。続いた声は低く、少しの震えもない。「違うよな。たとえどんな理由があろうと、悪いことはしたら駄目だ。人殺しは罪だぜ」

 言われた音を言葉として飲み込むまでに間があった。瞬きが二回過ぎ、その間に倒れている両親はもう死んでしまっているのだと目の奥から唐突に理解が押し寄せてきた。喉が引くつく。鉄臭い鼻がツンと痛み、涙が溢れかえる。「どうして」今度は自分の意思で言った。「お前が殺したのに、」なぜそんなことが言えるのか。

 男はやはり口の中の動きが分かるのか、しっかりと頷いた。

「ああそうだ。俺が殺した」

 血塗れの手が軍帽を外す。こちらを真っ直ぐ見据え、それから言った。

「俺の名は東滝一。俺を忘れるな、お嬢ちゃん。お前の両親を殺した男だ。お前のこの先の人生数えたって、これ以上の理不尽はないぞ」







 明戻三年、水無月。二十七日の正午。

 帝都の中央にある断頭台で、七年に渡って十九人もの人間を殺害した東滝一の死刑が行われる。

 断頭台のある広場は軍によって封鎖され、民間人は立ち入り禁止、上空には陰陽師の張った結界まであり猫や鳥すら通さず、地下には隠密までも潜んでいる。蟻もこれより内側は歩けやしないだろう。

「御大層なことで」

 呪符で拘束され死刑台まで連れられてきた東は目隠しをされているにも関わらず明朗に言った。「たった一人の死刑囚にここまでするかね。刑務所の地下でこっそり殺しゃァ良かったのにさ」

 東を連れている役人は「そうもいくまい」と低く返した。「お前が一番よく分かっているだろう」

 そりゃあね、東は返事のつもりで鼻を鳴らす。過去、東滝一が殺した者は全て政府や軍属の者たちだ。

 彼を司法で裁けば角が立ち、暗殺しようものなら他からのやっかみを相手にしなければならない極めて面倒な殺人ばかり起こしてきた。クーデターや革命とも呼べないだろう、東は一人で十九人の要人を殺した。当然、他方からの莫大な恨みを一人で受けることになる。

「この広場の者全員、お前の命を狙っているぞ」

 軍も術師も暗殺部隊も。

 役人の言葉に東は鼻で笑った。「それで?」目隠しの下にある口から犬歯を覗かせて言う。「誰も彼もが狙う中、この俺の首を飛ばせる幸運なやつは、何てやつだ?」

 役人が立ち止まる。目の前の断頭台には刀を携えた若者が待っている。彼が司法の選んだ処刑人だ。生贄といっても過言ではない。

 罪人を裁くのは司法の役目だ、だが今回ばかりは法など役に立たない。彼を処刑する者もまた、命を狙われる可能性があるからだ。もしくは、元から東を狙うスパイの可能性も捨てきれなかった。だから経歴に一点の汚れもない者を用意した。──らしい。所詮罪人を引き連れるだけの下っ端には与り知らぬことだ。

「今日が初仕事だとさ」

「は?」

 寸の間、口を呆けさせていた東だったがすぐに「なるほどね」と低く笑った。「可哀想だな。アンタ方も秤を均等に保つためには犠牲も厭わんと見える。さっきのは撤回しよう。誰かは知らんが、とんだ不運だよ」

 断頭台は簡素な櫓だった。

 数段の階段をおり、処刑人が目の前までやってくる。この時のために身なりを整えられたのか、刀を持つ青年は真新しい袴に襟付きのシャツを清廉に着こなしていた。髪を上げた額は幼くも見えるが、まさか未成年を採用したとは信じたくない。右目の下に泣き黒子があるのまで見てしまい、役人はすぐに顔を下に向けた。これから死ぬかもしれない若者の顔を、必要以上に覚えていたくはなかった。東を縛る鎖を若者に預ける。

「では、私はこれで」

「ご苦労様です」

 交わした言葉はそれだけだったが、それだけで若者のひとの好さが分かってしまった。頭を下げた彼は、鎖を受け取ると、「こっちだ」とすぐに背を向けた。地面の下では暗殺者が蠢き、地上では軍人が銃を構え、上空では術者が虎視眈々と好機を狙っている。光は屈折し、影すら震え、最早一般人にも殺気を隠そうとしない。ああ、とんだ不運だ。

 役人は走って退場を急いだ。こんなところ、とてもじゃないがいられない。




 段差を上らされ、跪いた東は雨のにおいを嗅ぎ取った。地面が大量の水で濡れ、砂埃が飛び散るにおいが大気を満たしている。だが雨粒の音はせず、濡れた感触もない。どうやら結界が張られているらしい。

 本当に大層なことだ、東は辟易し思った。くたびれた男一人殺すのに、これだけの舞台を用意するとは。

 さすがに民間人はいないだろうが、自分のそばに巻き添えを食った者がいるとなると、このまま黙って首を落とされるのは決まりが悪かった。「なア」東は背後に話しかける。「金を積まされたのか? 今更遅いが、割に合わねえだろ」

「何か言い残したことは?」

 声はすげなく、若い。聞いたことのない男の声だ。司法にとっては当たりを引いたのだろう、記憶に残る東を恨む者の声ではない。つまり正真正銘、ただの一般人だ。

 どういう契約でこの仕事を受けたのか知らないが、この国の要人を十九人も殺した男の首を、まさか処刑とは無縁の人間が上手くとれるとは思えない。しかし一般人だからこそ、周囲は東の首をとるまで無暗に手出ししないだろう。おそらく。たぶん。奴らにまだひとの倫理があればの話だが。

 こりゃ一刀両断とはいくまい、二度三度と鋸のように首を掻き切られる覚悟が必要だ。なるほどね、東はまた思った。せめて苦しんで処刑されろというわけだ。罪を犯した自分には相応しい処遇だ。さすが、公正を唄う裁判所は違う。

「アンタの顔が見たい」

 からかいのつもりで首をもたげて後ろに言うと、自分を縛る鎖に震えが伝わった。怖いのか、そうだろうな。背後の気配はまるで臆病、戦場を知らない者の空気をまとっている。冷静を装っているらしいが、震えは明解だった。

「分かった」

 だと言うのに、若い声は素直に了承した。おいおい。処刑人の一挙手一投足を見張っている何十人もの視線が研ぎ澄まされていくのを肌で感じる。このガキ(ガキと決まったわけではないが、声からして確実に年下だろう)はちゃんと仕事内容を分かっているのか? 刀を振り下ろす以外に、余計なことはするなと言われなかったのだろうか。だとすればやはり裁判所もクソだ。

「馬鹿ヤメロ、殺されてーのか」

 後頭部にある目隠しの結び目に手がかけられ、慌てて制止すると動きが止まった。処刑人はそのまま背後から呟くように言った。「どうして、そんなことが言えるんだ」

「何?」

 鎖を握る手が震えている。

 耳元に吹き込まれた声は、記憶にない。

「あずま たきいち。俺はアンタを忘れとらんぞ」

 結び目が解かれる。

 曇天の陽光は弱く網膜に焼きつき、視界を霞ませる。見上げた先では、若い男がこちらを見下ろしていた。男だと判断したのは詰襟から喉仏が覗いているからだ。次いで顔の全体像より先に、右目の下の泣き黒子に目がいく。鼻の奥で血の幻臭がする。瞬きを二回。一秒にも満たない時間を回顧に使った東は、脳の海馬が叩き出した答えに「お前男だったのか!」と思わず叫んだ。

 断頭台の異変に気付いた影が収縮し、大気はピリピリと電気を帯び始めている。男の袴が風でたなびき、東を縛る呪符は皮膚に食い込んだ。どんなに鈍感な人間であろうと、この周囲の異変を多少は感じられるはずだろうに、若い男は身じろぎもせず、東をしかと見下ろしたまま口を開いた。

「覚えとるか。三重と滋賀を跨ぐ鈴鹿山脈の麓にあった小さな村のことを。十二年前、そこで貴様が殺した粂野夫妻のことを。覚えとるか?」

 目が合う。この国のおよそ全ての人間に当てはまる何の変哲もない黒髪に黒目だったが、垂れた目尻からはあらゆる色を映す激情が滲み出ていた。東は自分の口角が上がるのを感じた。なんだ、結局。自分のしでかしたことは円環になっていて、ここでようやくその終着点に繋がるわけだ。まあ、良かったと思うべきだろう。この場には東を恨む者しかいない。つまり全員が死を覚悟している。

「覚えているさ、ああもちろん」鷹揚に頷く。「()()()()()、復讐に来ちまったのか」

「──ハッ」

 若い復讐者は鼻で笑った。慣れていないのが一目で分かるほど唇は震えていた。拍子に涙が飛び散ったが、反して刀を抜き振り上げた。

「俺の名は粂野紬(くめのつむぐ)。忘れるな、東滝一。お前の理不尽が今、ここに帰ってきたぞ!」

 切っ先が振り下ろされる。

 ほぼ同時に発砲音が轟いた。

 処刑が始まったのだ。

 刀も弾丸も影も光も全ては東を狙っていた。

 だけれどもその中でひとつだけ。まるで命を獲ろうとしない軌道があった。

 その軌道が逸早く東の首を掠める。

 呪符と拘束を叩き切ったそれは、処刑人の持つ刀だった。それを認めるまでもなく自由になった両腕は勝手に膨れ上がり人体組成を変え鉄の翼と形を模した。弾丸が届く。東は鉄の翼でそれを防ぎ、粂野と名乗った青年を蹴り倒した。馬乗りになり、鉄翼で周囲を囲う。そして噛みつく勢いで顔を近づけた。

「何のつもりだッ?」

 発砲は止まない。弾丸が翼にぶつかるけたたましい音が響き渡っている。

 一瞬の出来事に目を白黒させていた小僧は、それでも東の問いかけに「何のつもりもない」と口を開いた。「復讐に来た。それ以外ない。ここにいる全員、みんなそうやろ」

「ああそうだ」──雨のにおいが濃い。「軍も忍も術師も法も、俺を殺すためにここにいる。だがお前は何だ? 俺の拘束を解きやがった、自分が何したか分かってンのか?」吐く息が白い。水無月の重苦しい水分を含んだ大気が、みるみるうちに凍りついていく。ぎし、翼が軋んだ。弾丸の音が止みつつある。遥か上空では結界が解かれ、氷の礫が形成されていた。発砲が完全に止む。地を煙が這った。──このままではマズい。東ではなく、この青年がだ。

「アンタが言ったんやろ」

 滲んだ涙を凍らせ、赤い鼻を啜って尚、青年は東を真っ直ぐ見つめている。

「どんな理由があろうと、悪いことは悪い。人殺しは、罪やって。アンタがそう言ったんやぞ」

「だから?」

「俺の生涯をかけてでも、アンタを死なせやん」

「何故そうなる?」

「復讐を終えて自分だけ満足して地獄に堕ちるなんて、そんなことさせてたまるか」

 どこからどこまでを知っているのか気になったが、少なくとも、いま吐かれた言葉は真理を突いていた。東は七年かけて、己の復讐を遂げた。復讐は復讐を呼ぶ。東が殺した者たち、その近縁の者や仲間、あるいは敵は、必ず東を殺しに来る。この子どものように。

 今日という日はそのための日のはずだった。

 東に近しい者はいない。仲間も、友も、何もかも。この身ひとつだけで、長く続いた復讐の連鎖を終えるはずだったのだ。だがどうだ、かつて東が親を殺したこの子どもは、一体何を言っている?

「最初は()()()()、アンタを殺そうって思っとった。でもそれじゃ、アンタとやっとることは変わらん」げほ、青年は咳き込んだ。煙を吸っている。これは忍の一派が使う毒煙だ。「どうにかして、アンタに往生こかせたい。意味、分かるか?」ごぽ、続いた咳が粘着質になる。瞳は痙攣し、口の端からは血の涎も流しているくせに、東を睨み上げたまま言い切った。「死ぬ気で生きて、俺に償え。東、滝一」

 氷の刃が降ってくる。

 この会話が聞こえていようが聞こえていまいが、拘束が解かれた今となってはお構いなしなのだろう、青年もろとも被弾させんとする氷は愚の塊だった。

 復讐の連鎖を、この身ひとつで終えられるはずだった。なのに、この青年が死んだら。こいつの死を悼む者が誕生する。そうなればまた怨嗟の始まりだ。俺が一体何のために──ああ、ふざけんな。最悪だ──最悪だ!

 鉄の翼が煮立つ。背中の筋繊維が膨張し、内側の骨が蠢く。

 大気を雷が切り裂いていった。雹より先に東を黒焦げにしようと奔る雷を、首に届く寸前、翼で打ち払って上空に投げた。数多の雹が砕け散り、帯電した氷の礫が曇天を舞う。それは地上で影を生み出し、今度は影が東に襲いかかった。次から次へと。「ご苦労なこった」礫の影が伸び上がり、建物の暗闇と同化し、地平線を飲み込んで東の足元に迫ってくる。「おい、」東は青年の上から退き、放たれた砲弾を打ち返しながら声を荒げた。

「ご大層なこと言ってくれるがね、このままじゃお前がおっ死ぬぞ!」

「勝機は、ある」

「どこにッ?」

 二発目の砲弾を打ち返す。市街地に被害を撒き散らさない能はあるらしい、打ち返した弾は軍の部隊に到達する前に機能を停止し最小限に弾けた。それでも爆発音は鼓膜を揺らし、熱風は氷結を滞らせた。お互いがお互いの邪魔をしている。影だけが何の干渉も受けずに東の足下に食らいついた。がくりと重心が下がる。下がった先、同じく影に飲まれようとしている青年が刀を振りかぶるのが見えた。そうだった──こいつはまじないで雁字搦めにされていた腕の封を切ったんだった──鈍色に光る刀身が、影を貫き、足首に彫られていた封印すらも斬った。


「アンタにだよ。俺を連れて、とっとと逃げ延びろ。さもなきゃ死ぬ」


 そしてそれきり動かなくなった。

 地面に倒れた男が影の波間に揉まれていく。斬られた足首から血を流し、流した血が闇に消え、膝まで浸食しだしてから、ようやく東は動いた。

 呵々大笑。

 喉仏が取れそうなほど笑いながら、翼の腕を広げる。もっと大きく、もっと硬く、それから強く。暴風が吹き荒れ、氷と雷、砲弾が横殴りに轟いてきたが、既に脅威ではない。色は、黒だ、それがいい。青年の髪と目の色が一番いい。東の全身の皮膚が黒く硬質になっていく。顔すら同化し、膨張し、あらゆる骨組みを作り替え、血管を繋ぎとめる。最早人間の形ではない。

 巨大な鳥。

 もしくは、先の大戦で滅びた戦闘機。

 

 随分久しぶりなせいで少しばかり関節が錆びついている。だが東はゆっくりと飛翔した。身の内側には、気を失った青年を乗せている。まだ命の音があるが、早くしないと本当に死んでしまうだろう。唸る起動音に自分の思念を乗せ、聞こえていないと分かっていても言わずにはいられなかった。

『お前のせいで罪が増えた。どうしてくれる?』


 理不尽だ。

 もちろん返事はない。しかしこの子どもの声で、確かにそう聞こえた気がし、東はまた笑うしかないのだった。

ラブコメのな。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ