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第二話目:不穏な夜



 上等そうであり実際に上等な革のトランクを片手に提げながら、俺は新しい住処へと向かっている。バッタを泥水で塗り固めたような恰好の虫が疎らな住宅街を区切る一本道に飛び跳ねている。街灯には幾匹もの蛾が見事にぶつかり合うことなく集っている。

 静かな土地だ。都会の喧騒から逃れてきたよそ者に静けさを貪られるせいで気が立っているのか、夏の避暑地として本州でも指折りの町にはどこか怨恨めいた空気が垂れ込めている。晩夏の生温い風が吹くと、山がざわざわとざわめき立ち、黒い林が一斉に蠢き……なんだか不気味な情景だった。まだ完全には陽が落ちきっていないとはいえ、山の麓に伸びる道はもう随分と赤黒く翳っている。

 目的地へと向かっている途中、幾人かの人間とすれ違った。どんな様相の人間だったかと描写するのも単なる労力の無駄になるような、道を歩いていたらすれ違った人で思い浮かぶ人であり、人であり、人であり……面識があるない、人間であるないの如何(いかん)に関わらず、明確な意思を持って俺のことを認識してくる何がしかと出会うことすらも億劫になっている。過敏とか、高慢とかではなくて、ただただ億劫だ。軽率にもう死にてえとか思ってしまえている。

 2012年、俺が確かまだ小学校低学年でそれなりに可愛げのある愛想笑いの使い手だった頃、マヤ文明の予言をほじくり返して太陽フレアだなんだ世界滅亡だなんだと世間の大人たちが騒ぎ立てていた。死についてまだ密接に関わったことのなかった同級生たちは人間がたくさん死ぬかもしれないという予言に何故だかやけに高揚し、やがてはそれが自分の身の上にも降り注ぐことであるらしいと察すると、どこか敬虔な面持ちで沈黙した。まるでそれについて口にすること自体が禁忌であるかのように、誰もが無視と、その上に成り立つ平和を習得した。

 これはさとり世代だと揶揄される度に、俺の中で呼び起こされる記憶だ。俺たちが人生に老人風情の諦観や悟りを抱いてしまいがちな要因がこの出来事なのだとしたら、一連の発端は話題性とそれについて回る数字欲しさにけったいな予言をほじくり返してきた現在の中高年だというのに、まったく、はた迷惑も甚だしい話だと思う。

 俺はそのようにして、あの時に一度、死んだのだと思っている。クリスマスイブかクリスマスか、マヤ文明に基づく世界滅亡の予言日に、俺は自分の死に場所として自宅の庭が一望できる縁側を選択した。その時も、確か一人きりだったと記憶している。そして、ついに予言の時がやって来た。

 ご存知の通り、結局、世界は終わらなかった。それでも俺には以来、世界を一度終わったものとして捉える癖がついてしまった。

 今、世界で増えたり減ったり動いたり止まったりしている人間は、2012年12月、太陽フレアの爆発で肉体が蒸発した人間たちの幽霊だ。そんな捉え方をすることで別に何かが劇的に変わるという訳でもないけれど、また一人の幽霊とすれ違いざまも考えているのは、世界との接続を億劫がる原因はこれなのかもしれないということ。

 父親の死をさほど悼めないのも、夕闇に赤黒く沈む田園風景から地獄を思い起こすのも、俺と生とのズレが原因となって生じていることなのかもしれない。〝冷たい〟ということは、所謂〝人間味が無い〟ということで、あの日の幽霊である俺にはやはりもう熱い血が通っていないということなのかもしれない。

 ふと、壊れているのについ腕時計を見やってしまう。そういえば今は逢魔が時、通説的には、現世と常世の交わる時間帯だ。人ならぬ者が人の世に跋扈(ばっこ)する……大体、今は6時を少し過ぎたくらいだろうか。夏は陽が長い。晩夏であっても7時くらいまでは陽が沈まないはずだ。

 差し当たって、俺はカードキャプターさくらもびっくりの最新式ローラーシューズで移動する。見た目にごつい黒のシューズは八輪のローラーとコンパクトタイプのモーターを内蔵しており、ローラーの回転がそのまま推進力を増加させる電力に変換されている。これも、父親の忘れ形見と言えばそうなのかもしれない。投資に熱を注いでいた父親の許には株主優待制度に基づいた多種多様の商品が送られてきていた。家の物置に箱入りのまま仕舞われていたこれもその内の一つだ。転売すればいい値で売れるのかもしれないけれど、そんなさもしい真似は俺の根暗な自尊心が許してくれないのでなるたけ丁重に履きつぶしてやろうと画策している。

 自転車のペダルを休み休み踏んでいる時と同じくらいの速度で進んでいると、赤黒い夕闇をほの青い灯りで払う一本の電燈に行き当たった。右と左とに分かれるT字型の道の、横棒と縦棒の接触点にあたる位置にぽつねんと突っ立つ電燈は所々が錆びついていて、支柱に刻まれた番地の詳細は読み取りづらくなっている。背景には雄大な山の黒がなだらかな稜線を描いており、ほのかな灯りの頼りない青白さをより際立たせている。

 なんだかもの悲しい雰囲気の電燈だな。そう思いながら過ぎ行こうとすると、ふと、左に曲がりかかっていた半身を何者かの気配が撫ぜた。

 振り返らない方がよかったのかもしれない。しかし、あまりに唐突なことで、俺には躊躇う余地すらもなかった。

 つい先ほどまで誰も居なかったはずの場所に、少女が一人、立っていた。ほの青い灯りの下で、何か目的があってそこにいるというよりは、あてもなく立ち尽くしているというような感じで、たぶん、こっちを向いていた。

 左折途中、たった一瞬の振り向きだったので、感じ取った不気味さを払拭できずにそのまま持って行く羽目になった。人となりをちょっとでも窺えれば多少の違和感も解消されたはずだがしかし、不審者ムーブをかまして羞恥心を代わりに持ち帰ることになったとしてもそれはそれでご免だ。

 田んぼと畦道との間に走る用水路から響き渡っている水音を聞き流しながら、俺は叔父の管理している家へと向かっていく。背後にはぴったりと何かの気配が張りついている。俺は〝人間の恐怖の根源は未知〟と心の中で唱えながら、違和感を潰すためにローラーを格納する。

 結局、目的地に辿り着くまでに一度として振り返ることはできなかった。自転車のペダルを休み休み踏んでいる時と同じくらいの速度だった時点で背後にぴったりと張りつき続けていた気配の正体など、どうせロクなものじゃないに決まっている。


 ぼろいわけでもないけれど新しくもない、馴染みやすい木造の家屋を見上げる。風雨で煤けた風見鶏が屋根の先端でキュルキュルと回転している。若干の懐かしさと得も言われぬ寂寥感を胸に押し込めながらインターフォンの前で佇んでいると、つつじの生け垣にビニール紐で縛られた旗が横たえてあるのに気づいた。

 ややもあって、インターフォンの向こうから応答がする。

『はいー。(らく)くんか?』

「そうです」

『……うん、今行くからね』

 正面玄関の引き戸から明かりが漏れる。革トランクを両手で持って体の前へやり、恐縮そうに(こうべ)を垂れておく。カラ、カラ、というおっかなびっくりな音と共に内側からの明かりが黒い地面を流れていく。一匹の蟻が光の波に呑まれていくのが、目視で辛うじて確認できた。

「いやあ、長旅ご苦労様。連絡くれたら駅まで迎えいったのに。中、どうぞ」

「いえ。はい」

「手荷物少ないねえ。ミニマリストだ」

 靴のかかとを踏みながら外へ出てきた叔父に促されつつ、中へ入る。

 他所の家の匂いがした。見た目にごつい黒のローラーシューズを靴箱に入れて土間を上がると、記憶よりも些か窮屈になった旧・民宿が方々(ほうぼう)の部屋で明かりを灯していた。

「結構、部屋数あるし、広いからね。不自由な思いはしないと思うよ」

「いえ。寝る場所以外、そんなには行き来しないと思います」

「気にしないでいいよ。もうここは民宿として機能してないんだから。一人だと却って居心地悪いかなあ。でも狭いよりかは幾分いいよね」

 精いっぱい気を遣われていることがいっそ疎ましいくらいに感じられるので、こちらも精いっぱいの愛想で返そうとするものの、昨日今日の話で一家離散したばかりの少年がにこやかにするのも変だよなと思い直す。

「……楽くん、大丈夫かい。あんなことが急に起こって、今夜にはもう一人でこっちに来たんだもんな」

「いえ。アツシ叔父さんには感謝してます」

「……うん」

 微妙な間に、他意はありませんと付け加えようとして、本当にないのだろうかと自問する。答えが出る前に少なくとも愚鈍のフリをしておいたほうが口数を少ないままにしておけることに気づき、その通りに口を噤んでおく。

 廊下の敷板が時折り甲高い音を立てて軋む。歩を進める足が心なしか沈んでいるようだ。二階へと上がる階段は照明が付いていないために薄暗い。子どもの頃はあまりの不気味さに極力この階段を避けていた。どうしても上がる必要がある時だけ、決死の覚悟で駆け上がっていたのだ。

「一応、二階が客室だから。と言っても今はどこも空き部屋だけどね。楽くん、角部屋にする?」

「はい」

「風通しがいいからね。陽もよく入ってくるし、元・一番人気の部屋だよ」

「はい」

 質素なデザインのドアを開ける。部屋の内装も質素で、どことなく刑務所を思わせるなと心の中だけで呟く。これで壁紙が無地だったらもっと殺風景で、正にも正にだっただろう。

「このご時世だからね。どこも民宿を経営していくのは難しいよ」

「はい」

 返事をしつつ、ここが民宿として機能しなくなったのは世の中にこんなムードが蔓延するよりも前じゃなかったろうかと記憶を探ってみる。トランクには着替えと洗面用具等々、小旅行といった程度の荷物だけが入っていて、我ながら、ここに生活の軸を据える覚悟に欠けているなと思う。自分で思うのだから、他の人からしたら尚更だろう。

 案の定、叔父は俺の腑抜け具合に懸念を覚えているらしい。口には出さないまでも態度で分かる。なにせ、今の俺は特に他人の頭の中に敏感になっているのだ。しかしどうにも、異父弟の遺した甥に対して叔父がどんなことを思っているのかは依然計れないままだ。

「そんな風には納得してくれないかもしれないけど、楽くんが来てくれて、僕としては安心してるんだよ。人がいないと家は廃れていく一方だからね」

「はい……」

「ここだけの話さ、民宿やらないんなら売っ払っちゃえって、身内から言われてたところだったんだ。だけど、どんなに寂れてたって、ここは僕の大事な思い出の場所なんだ。そう簡単には割り切れないよ」

「はい」

「楽くんがいてくれたら、この家もひとまずは在る理由があるってもんだよ」

「はい」

「うん……じゃあ、今後のことについても話し合わなくちゃいけないし、そうそう、お腹減ってるでしょ? 荷物を置いたら下へおいで」

「はい」

 人当たりのいい笑みを浮かべた後で、叔父が一足先に部屋を出ていく。廊下を歩きだした時に覗いた、やや下がり気味の口角が、脳裏に焼きついて消えなくなる。

 俺は座ったままの姿勢でしばし停止して、ため息で浮きあがるように立ち上がった。家のぐるりに群生する竹林に面する窓を開けると、サアサア、という音が空っぽの部屋に積もっていった。葉っぱが風になびいて互いの輪郭を擦り合わせているのだ。人の心の琴線を緩ませるような音に鼓膜を預けながら、俺は柄にもなくただ黄昏ていた。



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