第一話目:夜行列車
花に嵐の例えもあるさ さよならだけが人生だ。
俺は電車の窓に頭をもたせかけながら、虚ろな目で虚ろな目をした俺を眺めている。車窓の外に広がる田園風景は夕闇に沈み、さながら赤と黒とを基調にした油彩画のようだ。
不意に思い出したくもない記憶を思い出しそうになって、自分で自分を叱責するように頭を窓ガラスに叩きつけると、ゴン、と思いのほか大きな音がした。窓ガラスに映っている車内販売のお姉さんが怪訝そうな視線を送ってきたので、つい、うざいなあ、死ね、と思う。思うだけで留飲を下げる。
人間、頭の中では何を考えようとも自由だ。たくさんの人を殺したいと思うだけの俺と、実際にたくさんの人を殺した人間とでは悪の比重が違う。しかし、それにしたってどうやら俺の頭の中は随分と悪に汚れているらしい。そんなこと、人の頭の中をすっかり暴いてやれない限りは誰にも断言しようがないはずなのだけれど、この世に俺を産み落として以来一挙手一投足を目の当たりにしてきた母が言うのだから、まあ俺はそれなりに確かな悪人と言えてしまうかもしれない。刻一刻と赤黒い夕闇に沈んでいく田園風景から、昔、絵本で見た地獄の業火を連想する。
──あの人によく似て、冷たいのね。
〝もしも父親が死んだなら、たぶん地獄行きだろう〟本当にこんな事件が起こってしまう前からそう平然と考えられることが〝冷たい〟人間の条件であるならば、たぶん俺はきちんと冷たい人間だ。「そういう人は孤独でいても平気なのよ」まるで幼子に言い聞かせるような口調で平然と言い放ってきた母親は、だからこそ俺を見限ったのだろう。
だけど、納得いかないところも勿論ある。人間、頭の中では何を考えているのか分からないのだ。外面がどうであろうとも、それは母さんだって例外じゃない。思い返してみれば「あの人に似て冷たい」ということは母さんも父さんのことを冷たい人間だと感じていたということで、死んでしまえばどんな禍根もチャラという訳でもないけれどあの人が死んだ後でもなお〝あの人は冷たい〟という印象を拭えずにいるという点では俺も母さんも同等に冷たい人間だ。
……どうして実の息子に面と向かって「冷たい」と言い放ってしまえる自分を棚に上げて、じっと口を噤んでいるだけの俺を呪うのだろう。
あの人は数少ない身内と閻魔様の尺度に限れば、ただの狡猾で卑劣な男だった。五十幾年余りの人生で改善できればまだ救われようがあったのに、あの人は生来の狡賢さと冷酷さを周囲の人間にスマートだなんだクレバーだなんだと囃し立てられ続けて、とうとう調子づいたまま死んでしまった。
そう。死んでしまった。
花に嵐の例えもあるさ……俺は脳内で再生される父親の声に合わせて、口内でそっと暗唱する。急に悪寒がして、おもむろに腕を擦ってみる。さらに悪寒がするような話だけれど、この生理現象は車両内の冷房が効きすぎていることだけが原因ではないのだろう。
血の気の引いた手のひらで腕を擦る度に、ナイロン製のジャンパーからシャリ、シャリ、と硬い物の擦れる音がする。思い出の腕時計は家を出ていく直前に時間の刻み方を忘れてしまった。まず、着くべき場所に着いたらこれを直そう。まずは、これを直そう。だからそれまではちゃんと時計を修理できる状態でいなければならない。そう設定しておけば、まるで目覚ましをセットしておいた晩のように、ちゃんと物事を進められるような気でいられる。
俺はこれからどうなるのだろう。周囲の人間からどれだけ惨めに思われているのだろう。不意に、ナイーブな俺の根暗真骨頂が発動すると車窓に映っている乗客がみな隅に置けないもののように思えてきて、焦点の限られた視界が暴発してしまう前にと目を瞑る。それにしたって暗闇も億劫なのだ。瞼を上げて、逢魔が時に呑み込まれていく新地獄然とした田園風景を一瞥する。
居住まいを正すがてら、黒のサコッシュから読みかけの『雨月物語』を取り出して、ぱらぱらと頁をめくる。『我今仮に化をあらはして語るといへども、神にあらず仏にあらず、もと非情の物なれば人と異なる慮あり』
あの男は周囲の人間を都合の良い手駒のようにしか捉えていなかったように思う。16年の間で息子である俺と交わした言葉は凝縮すれば一頁分の文章にも満たないだろう。ぱらぱらと『雨月物語』を流し読みしていながらそんなことを考えている途中で、やはり、あの言葉……花に嵐の例えもあるさ、さよならだけが人生だ……数少なく交わした言葉の一つが他者からの引用であることに気づき、刹那、訳の分からない感情に引き摺り込まれる。心許なく手首を掴むと、さも弱弱しい脈動がした。
俺の名前は長澤楽という。あだ名はメイジだ。16歳、高校一年生。先行き不透明、ではあるけれどもしかし、今はとりあえず新たな住処に向かっている。父親を亡くし、母に見限られ、一人きりで誰もいないのとそう大差ない新天地へと向かっている。世知辛いような、有難いような状況、なにせ、あても身分証明書も銀行口座も死亡保険金もある。それだけあれば、誰にも文句のつけられようがない、れっきとした社会的な人間だ。大丈夫。大丈夫。じんわりと麻痺していく手のひらを揉み合わせながら言い聞かせる。今はまだ、大丈夫。
限りある〝今〟の連続が人生というものだ。そんな風にどこかで誰かが言ったとして「今さえよければそれでいい」という自棄的な思想を論破できる人間はどこにいるだろう。「刹那的に生きたい」それが今の俺の漠然としたモットーだとして、それは後先を考えるのが嫌なだけだと叱ってくれる人間はどこにいるだろう。
車窓の外にはだだっ広い田園風景が続いている。たまに過ぎ行く電信柱はみんな灰色だ。また、ある一種の啓示的にソドムとゴモラの神話を思い起こす。決して振り返ってはいけないと聞かされていながら、不意の好奇心か不注意かで振り返ってしまい塩の柱にされたロトの妻。〝今〟は選択の連続であり、その正誤によって結末の良し悪しが決まるという人生の仕組みは、あまりに酷なものに思えてならない。
人間はいつか死ぬ。どんなに花を咲かせても、不意の嵐で見るに堪えない枯れ枝になるのと同じように。花に嵐の例えもあるさ、さよならだけが人生だ……確か、この詩には続きがあるのだ。
さよならだけが人生ならば
さみしいさみしい野の原に 灯す明かりはなんだろう
さよならだけが人生ならば 人生なんていりません
少なくとも、そんな消極的な至言に頷くような人間になってしまってはいけないのだろう。俺は背もたれに後頭部を押しつけながら、不承不承、読みかけの文章に目を滑らせている。あの人がくれた、思い出の腕時計……今の俺にとってはこれを直すことだけが、赤黒い結末を先延ばしにするために残された唯一の選択肢であるような気がした。




