「デスゲームにおける死」は「ゲームオーバー」か? ~「ゲームオーバー」の定義とプレイヤーの死~
スマートフォン向けのオンラインRPG、「ソードアート・オンライン インテグラルファクター」(SAOIF)の公式サイト(https://sao-if.bn-ent.net/)の「ストーリー」という項目には、以下のような文言が記載されています。
"ゲームオーバー=現実世界での"死"を意味する"
と。
これを読んだとき、「ん?」という違和感を抱いたのは自分だけではないでしょう。(多分)
なぜなら、「普通のMMORPGには"ゲームオーバー"は無い」からです!
……とか言われても、ゲームに詳しくない人はなんのことやらさっぱりだと思います。
ということで、このエッセイ(?)では、(自分が個人的に考えている)「ゲームオーバー」の定義と、先述したような、「ゲームオーバー=現実世界での"死"を意味する」という表現は正しいのか、ということについて書いていきたいと思います。
「ゲームオーバー」とは、もとの英語に直すと"Game Over"(= Game is Over)であるように、本来は「ゲームはもう終わりです」という意味でした。
ものすごく古いゲーム――例えば「スペースインベーダー」のような――を想像してみてください。
当時のゲームはとても大きくて高価だったので、ほとんどのゲームは今で言う「アーケードゲーム」でした。
つまり、ゲームセンターのような施設に置いてあって、一つのゲームを複数人で共有する、というような遊び方をしていたわけです。
そのようなゲームでは、一人が同じゲームでいつまでも遊んでいては他の人がそのゲームで遊べませんし、ゲームの遊び方も、他の人とゲーム内のスコア――得点を競うような遊び方が主流でした。
更に言うと、ゲームの料金は「一回遊ぶごとに」などで決められているので、ゲームを置いているお店側としては一回あたりのゲームのプレイ時間は短いほうがいいわけです。
ということで、こういったゲームには、プレイの区切りとなる明確な「終わり」が必要になりました。
一定の時間が過ぎたら終わり、ある場所に到着したら終わり……そして、主人公、つまりプレイヤーキャラクターがやられてしまったら「終わり」――「ゲームオーバー」です!
これが「ゲームオーバー」の起源……かどうかはわかりませんが、少なくともこれが「ゲームオーバー」の本来の意味である、と自分は考えます。
アーケードゲームだけだった時代が終わり、家庭用ゲーム機が登場した最初の頃――つまり、「ファミコン」が発売された頃ですね――も、それはあまり変わりませんでした。
当時の家庭用ゲーム機のゲームソフトには、アーケードゲームからの"移植"――要するにアーケードゲームをファミコンで遊べるようにしたものです――が多くありましたし、そうでないゲームも、大抵はアーケードゲームの"文脈"に沿って作られていました。「スーパーマリオブラザーズ」(初代マリオ)などがいい例でしょう。このゲームは最初からファミコン向けのゲームとして作られていたにもかかわらず、スコアもあれば"残機"もあり、主人公たるマリオが何回かやられてしまうと「ゲームオーバー」となり、ゲームは最初からやり直しになってしまいます。
ところが、ゲームがだんだん複雑に、そして長くなってくると、話は少しややこしくなってきます。「セーブ&ロード」の概念が出てくるからですね。
ゲーム業界が盛り上がり、世に出るゲームの数が増えていくと、単に最高得点を狙う、というだけでなく、その他の目的を持たせたゲームも登場してきます。
その最もわかりやすい例が、"ストーリー"でしょう。
ゲームを遊ぶ理由に「最高得点を目指す」だけでなく、「物語の続きを読む」というものが加わったことで、ゲームを遊ぶ人――プレイヤーの層が厚くなり、ゲーム業界はますます発展していくわけです。
(厳密に言えば、ゲームに対するストーリー性の付与にはアーケードゲームとは別の流れで発展した「Zork」や「Rogue」といったゲームや、それらの源流たるD&Dなど――つまりはTRPGやボードゲーム、そしてその流れの影響を受けた「Wizardry」や「Ultima」といったゲームが非常に大きな役割を果たしているのですが、ややこしい話になってしまうので割愛しています)
しかし、そうなってくると、プレイヤーは物語の続きが読みたいのに、ゲームオーバーになってしまうと最初からやり直し、では面倒ですね。続きを読むのにいちいち同じ場面を読み直したくなどありません。
それに、プレイヤーに小説のような物語を読ませたいのであれば、当然一回のゲームのプレイ時間として、小説を読むのと同じくらいの時間が必要になります。短編ならともかく、長編小説を一回で読み切ろうというのは大変ですね。
というわけで、ゲームも小説を読むのと同じように、一旦やめて、その後また時間ができたときに「つづきから」始められると都合が良くなったわけです。これは「スペースインベーダー」の頃とは全く違う価値観です。
そこで誕生したのが「セーブ&ロード」です。ゲームをある場面で「セーブ」――保存し、何らかの理由でゲームが一度「終わった」あと、ゲームを再開したいときにその場面を「ロード」して、そこから再開できるようにする機能ですね。小説でいうと、読むのを中断するときにしおりを挟んでおいて、次のときにはそこから読み始めるようなものです。
この機能によって、ゲームが非常に長く複雑になっても、時間もゲームの腕前もある限られたプレイヤーだけでなく、多くの人がゲームを最後まで遊ぶことができるようになりました。
しかし、「ゲームオーバー」になっても、前に「セーブ」した地点から再開すればいい、ということになったため、「"ゲームオーバー"=ゲーム終了」という本来の意味はだいぶ薄れてしまいました。
更に、ゲームを最後まで遊んだ、などの特別なゲームの終わり――「ゲームオーバー」を「ゲームクリア」という名前で区別する習慣が生まれたことで、「ゲームオーバー」の意味はさらにややこしくなってしまいます。
最近のゲームでは、「ゲームオーバー」はゲームの途中で主人公がやられてしまう、などの理由で発生します。そして「ゲームオーバー」になったプレイヤーは大抵の場合、すぐに直前のセーブデータをロードして、そこからゲームを再開するでしょう。
つまり、最近のゲームのプレイヤーにとって、ほとんどの「ゲームオーバー」はゲームをプレイしている途中に発生します。……「ゲーム終了」でもなんでもないですね。
そして、本当にゲームが終了するとき――ゲームを終えて、エンディングが流れているような場面――は、最近のプレイヤーにとっては「ゲームクリア」であって、「ゲームオーバー」ではありません。
つまり、「ゲームオーバー」は、時代の変化によって、完全に意味合いが転倒してしまったのです。
だからといって、今の「ゲームオーバー」が無意味な言葉になってしまったわけではありません。
非常にややこしく、その上区別する人も少なくなってしまいましたが、それでもなお「ゲームオーバー」には明確な定義が存在します!(というのが自分の主張です)
例えば、一般的に「ドラゴンクエスト」シリーズには「ゲームオーバー」はなく、「ファイナルファンタジー」シリーズには「ゲームオーバー」があるとされます。
「ドラゴンクエスト」では、主人公――プレイヤーキャラクターやその仲間たちが全滅し、死んでしまったとしても、王様や教会の神父などが蘇生させてくれます。「おおゆうしゃよ、しんでしまうとはなさけない」などの台詞をどこかで聞いたことのある人も多いでしょう。これは、当然ながら一度「しんで」しまった「ゆうしゃ」が、何らかの理由によって蘇生させられない限り出てこない発言です。
一方で、「ファイナルファンタジー」ではそのようなことはなく、主人公たちが死んでしまえば、物語はそこで「終わり」、「ゲームオーバー」となって、ゲームを再開するためにはセーブデータからロードする必要があります。
「マインクラフト」では、通常はプレイヤーキャラクターが死んでしまっても、事前に設定しておいた復活地点から復活することができます。このとき、画面には「死んでしまった!(You died!)」と表示されます。
しかし、同じゲームの特殊な「ハードコア」というモードでは、プレイヤーキャラクターが死んでしまうとセーブデータが削除され、また最初からやり直しになってしまいます。このとき、画面には「ゲームオーバー!(Game over!)」と表示されます。
つまり、「マインクラフト」において、前者は「ゲームオーバー」ではありませんが、後者は「ゲームオーバー」です。
これらのことから何がわかるかというと、今の時代における「ゲームオーバー」とは、すなわち「同じ世界で遊ぶことができなくなった」という意味だということです。
「ドラゴンクエスト」では、例え主人公が死んでしまったとしても、「主人公が死んでしまったあとの世界」で遊ぶことができます。「主人公が一度死んだ」ことは世界に事実として残ります。
しかし、「ファイナルファンタジー」ではそうではありません。「ゲームオーバー」になったあとにセーブデータをロードしたところで、その世界は「主人公が死んでしまったあとの世界」ではありません。別の世界なのです。「主人公が死んだ」という事実はなかったことにされています。
「マインクラフト」も同様ですね。通常のモードではプレイヤーキャラクターは死んでしまったあとも復活して、また同じ世界で遊ぶことができます。ところが、ハードコアモードで「ゲームオーバー」になってしまった世界では、もう遊ぶことはできません。
ここで話を最初に戻しましょう。「ソードアート・オンライン」はMMORPGを題材にした小説で、「ソードアート・オンライン インテグラルファクター」はその小説をゲーム化したものです。
MMORPGとは、複数のプレイヤーが同時に同じ世界で遊ぶRPG(ロールプレイング・ゲーム)のことです。
ここで大事なのは、MMORPGでは複数のプレイヤーが同じ世界で遊んでいる、ということです。プレイヤーキャラクターは(何人もいるので)もはや特別な存在ではなく、あるプレイヤーの操作するキャラクターが死んでしまっても、その世界には基本的になんの影響もないのです。
そのため、基本的にMMORPGに「ゲームオーバー」はありません。「死んだら(ほぼ)やり直し」な「DayZ」のような厳しいゲームでも、死亡時には「YOU ARE DEAD」とだけ表示されて、「ゲームオーバー」とは表示されません。プレイヤーは再び同じ世界で遊ぶことができるからです。
ということで、冒頭の「ゲームオーバー=現実世界での"死"を意味する」という表現は、MMORPGを舞台にしている以上、「ゲームオーバー」はありえないので間違いです!
あるプレイヤーが死んでしまっても、そのゲームは問題なく続行されるわけですから!
……と書いてこのエッセイを終わりにしようと思ったのですが、書いていてどうもまだ違和感が残っていました。
「仮面ライダーエグゼイド」や「Fallout 3」のスーパーミュータントの台詞などを例に挙げるまでもなく、現実の世界をゲームに、自分をプレイヤーキャラクターに例えた場合、「ゲームオーバー」はほぼ間違いなく「自分の死」の例えとして現れます。
これは一見して、先程の定義に反するように思われます。仮に自分が死んだとしても、現実世界は何の問題もなく回っていくからです。
ならば、この例えが、あるいは「ゲームオーバー」の定義自体が間違っているのでしょうか。
そうではないのです。
先程の「ゲームオーバー」の定義は、「同じ世界で遊ぶことができなくなった」でした。
では、「ゲームオーバー」になった世界で「遊ぶことができなくなった」のは誰でしょうか?
そう、プレイヤーです!
現実世界をゲームに、自分をプレイヤーキャラクターに例えたとき、自分が死んでしまうと、プレイヤーはもうそのゲーム(=現実世界)をプレイすることはできません。プレイヤー=プレイヤーキャラクター(=自分)であるからです。
つまり、ゲーム(=現実世界)はそのまま残るにもかかわらず、プレイヤーがそのゲームで遊ぶことができなくなるために、「自分(=プレイヤーキャラクター)の死」は「ゲームオーバー」なのです。
そう考えると、プレイヤーキャラクターの命=プレイヤーの命であるデスゲームには、MMORPGであるにもかかわらず「ゲームオーバー」が存在するということになります。プレイヤーキャラクターが死んでしまうと一緒にプレイヤーも死んでしまうので、再び同じゲームを遊ぶことができなくなるからですね。
よって、最終的な結論としてはこうなります。
デスゲームのMMORPGにおいて、「ゲームオーバー=現実世界での"死"を意味する」という表現は、現実世界でプレイヤーが死ぬがゆえに、逆説的に正しい。
……たぶん、この表現を書いた人の意図とは違う形なのでしょうけどね。
(このエッセイはうろ覚えとノリで書かれています。間違いや理論の飛躍が含まれている可能性が存在します)