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第7話 少女の名は

 影が迫ってくる。

 無機質な壁が周囲をぐるりと取り囲んだ空間の中で、その影だけが、砂糖に群がる蟻のようにじりじりと近付いてくる。

 それが、彼女が見ている光景の全てであった。

 彼女は表情ひとつ変えずに、影に向かって掌を翳した。

 獣の咆哮のように放たれた目に見えない力の塊が、影たちを容赦なく吹き飛ばす。

 血煙が舞い、ちぎれた手足が、臓腑が雨のように降ってくる。

 鉄錆の臭いがする温もりを頭から被りながら、それでも彼女の表情は変わらない。

 怖い、とも楽しい、とも言わず。

 虚ろな瞳はひたすら前だけを見つめて。

 彼女は迫り来る百の影の群れを、ばらばらに引き裂いたのだった。


「…………」

 少女は静かに目を開けた。

 体を包んでいるのは、布団の柔らかな温もり。

 ぼやけた視界に映るのは、見覚えのない天井と、吊りランプ。必要最低限の家具しかない殺風景な部屋の風景。

 何処かの建物の中にいるらしい、ということだけは、何となく理解する。

 窓に目を向ける。

 窓の外には夜の帳が下りていた。どうやら今は夜のようだ。

 少女は起き上がって、ベッドから下りた。

 裸足のまま、ぺたぺたと歩いて部屋を出る。

 部屋を出ると、そこは一回り広い部屋になっていた。吊りランプが部屋を照らしており、殺風景な部屋である点は先にいた部屋と大差ないのだが、部屋の中央に人がいることが違う。

 その人物は少女の姿を見つけると、微笑みながら声を掛けてきた。

「やあ、起きたんだね。気分はどうかな」

 手にしたカップを置いて、部屋の主──レオンは静かに座っていた椅子から立ち上がった。

 隣の部屋に行き、空のカップを持って戻ってくると、テーブルの上に置かれていたティーポットを手に取る。

 こぽこぽ、と茶色のお茶をカップに注いで、空いている席の前に置いた。

「此処にお座り。お茶は紅茶しかないけど、ミルクの方がいいなら温めてくるよ」

「…………」

 ふるふると首を振って、少女は勧められた席に腰を下ろした。

 カップを両手で持って、中の紅茶を一口含む。

 こくん、と飲み込んで、ほうっと息を吐いて彼女は言った。

「……美味しい」

「そうかい? それは何よりだ」

 レオンは自分の席に座った。

 少女の目をじっと見つめて、問いかける。

「君は森で倒れていたんだよ。見た感じ君は冒険者じゃなさそうだけど、どうしてあんな場所にいたのかな」

「…………」

 少女は僅かに俯いて、小さな声で答えた。

「……覚えてない」

「覚えてない?」

 レオンは小首を傾げた。

「君は、何処から来たの?」

「……分からない」

 少女の返答に、ううんと唸る。

「なら、君のことを教えて。君の名前は?」

「…………」

 少女は沈黙した。記憶を懸命に探しているようだ。

 ややあって、首を左右に振る。

「……覚えて、ない。どうして覚えてないのかも、分からないの」

「……それは、参ったな」

 レオンは頭を掻いた。

 やっと話ができると思った相手は、記憶喪失だった。

 それでは何故この少女が森にいたのか、何処から来たのか、肝心なことが何ひとつ分からないではないか。

 レオンはこの少女を街に連れ帰った時に、ラガンから少女を預かって詳しい話を聞くようにと言われていたのだ。これでは彼との約束を果たせそうにない。

 レオンは考え抜いた末に、ひとつの結論を出した。

 分からないものは仕方がない。今はとにかくこの子の不安を取り除いてあげることを考えよう、と。

「それじゃあ……名前を思い出すまで、君のことは『アメル』と呼ぶよ。それでいいかな?」

「アメル?」

「君の髪の色が、アメルの花の色に似てるから。変かな」

 アメルとは香草ハーブの一種で、小さな銀色の花を咲かせる。巷では傷薬ポーションの材料として頻繁に取引されている馴染みの植物なのだ。

 少女は嬉しそうに微笑んだ。

「ううん、気に入った」

「良かった」

 ほっと胸を撫で下ろすレオン。

 彼は笑って、右手を差し出した。

「それじゃあアメル、宜しくね」

「……うん」

 少女──アメルは、その手をそっと握り返した。

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