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第36話 君のために

 街の宿屋は、限られたスペースの中でより多くの冒険者を泊めるために必要最低限の間取りを備えた造りをしている。

 それは、まさに寝るだけのために造られた部屋といった感じだ。

 室内にある家具は、大人一人が辛うじて横になれる程度の大きさを備えたベッドと、鎧を収納できるように多少は大きく作られたクローゼットのみ。

 窓は填め殺しになっているため開かず、カーテンもない。

 大人二人が入ると、そこは既に満杯の状態になった。

 ナターシャはベッドの端の方に腰を下ろすと、その隣をぽんぽんと叩いてレオンを呼んだ。

「座る場所が此処しかないけど、我慢しておくれ」

「街の宿は何度も利用したことがあるから分かってるよ。大丈夫」

 レオンはナターシャの隣にそっと腰掛けた。

 二人分の重さを受け止めたベッドがぎしりと軋む。

「話って、何?」

 レオンの問いに、ナターシャは真面目な面持ちになって、話を切り出した。

「……将来のこと」

「将来?」

 いまいちぴんと来ないようだ。小首を傾げるレオンに、ナターシャは言った。

「あんたは、自分の幸せのことを考えたことはないのかい?」

「……幸せ」

 レオンは前をじっと見つめて、考えた。

 自分にとっての幸せ。それって一体、何なのだろう?

 人並みに家庭を持って、家族を持って、子供を育てて……

 それは、今の自分には到底叶えることのできない夢だ。

 自分はそう遠くない未来、死んでしまう身だから……そういう形の幸福は夢見てはいけないものだとさえ、思っていた。

 だから、ナターシャの問いに、明確な答えを提示することができなかった。

「……僕は、いつ死ぬか分からない身だからね」

 答えになっているかどうかは分からない。しかしレオンは、真面目に彼女に対して答えを返した。

「誰かを娶ったり、子供を残したり、そんなことはしちゃいけない……そんなことをしたら、僕が死んだ後、残されたそれらはどうなる? 悲しみしか残らないんだよ。だから、最期の瞬間まで一人でいるべきなんだよ、僕は」

「あんたにだって人並みに幸せになる権利はあるんだよ。それを最初から捨てちまうなんて馬鹿かい」

 ナターシャは厳しい顔をして、レオンの言葉をばっさりと斬った。

「あたしは、あんたみたいな奴にこそ本当の幸せを掴んでほしいって思ってるんだよ」

 そっと、レオンの膝に右手を乗せる。

「あんたは多くの人のために頑張った。頑張って頑張って、戦い抜いて、それでも世界は平和にはならなかったけど、あんたは務めを立派に果たしたんだ」

 彼女はレオンの顔を覗き込んだ。

「もういいじゃないか。少しくらい人並みの幸せを夢見たって。……それとも、誰かを愛して、その人との子供を残したいと思うことすら、したことないってあんたは言うのかい」

「…………」

 レオンは答えられなかった。

 それを答えてしまったら──自分は、一線を引くことができなくなる。そう、思ったからだ。

 ナターシャはレオンの顔に自らの顔を近付けた。

 互いの吐息が掛かる、それくらいの距離まで互いの位置が縮まる。

 彼女は言った。

「……あたしじゃ頼りないかもしれないけど、精一杯、あんたのために生きるよ。絶望なんてしたりしない。それでも……駄目かい?」

「……ナターシャ」

 自分の膝の上に置かれた掌を、握るレオン。

 真っ向から視線を受け止めていたナターシャの双眸が、閉ざされる。

 ──僕は。

 静かに、彼女の顔に自らの顔を近付ける。

 唇に触れた、彼女の感触は。

 温かくて、愛おしくて、切なさを感じさせるものだった。

 それは、レオンの心の底にしまい込まれていた感情を表に引き摺り出すには十分すぎるものだった。

 レオンはナターシャの肩を抱いて、そのまま彼女をベッドの上に押し倒した。

 ナターシャは自分に覆い被さるレオンを、優しい眼差しで見つめていた。

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