昼を賭ける少年
午前七時を少し過ぎた頃、何とも形容しがたい叫び声が一ノ瀬の部屋から聞こえた。
恐怖と言うか、絶望と言うか、何とも甲高い、女の様な声。
今日から期末試験だ。
もしかしてそのプレッシャーに耐えきれず気が触れたか⁉
一ノ瀬の所属する特進クラスと言えば、某国立大学の現役合格者を何十人も輩出する本校の広告塔。そこで一位・二位を争う奴は紛れもなく勉強オタクのイカレタ人種だ。
だが、その物好きのお陰でこの学校のネームバリューはかなりなもので、それにあやかりたい下々偏差値の俺らは、せっせと特待生の分も授業料を収めるのだ。
正確に言うと、収めているのは親だけど。
しかーしっ!
今回のテストの結果には、俺の一ヶ月強の運命が握られていると言っても過言ではないっ!
文字通り他人事ではないのだ!
去年は向かう所敵なしの絶対王者だった一ノ瀬が、二年になって此の方、常に二位。
Bクラスの柳沢に勝を譲る体たらく! 一部では〝もう、一ノ瀬の時代は終わった〟なんて言う奴もいるが、俺は知っている。毎晩消灯後も一人黙々と勉学にいそしむ姿を。
そして柳沢は隠しているが、つい最近他校の彼女が出来た事もつかんでいる。
この情報はまだ俺だけしか入手していないはずだ。その証拠に今回の定期テスト単勝で、一ノ瀬望に賭けているのは三十三人中俺様ただ一人!
三十二倍のオッズという事は、早い話三十二日分の昼飯代が浮く。しかし、説明するまでも無い事だが、負ければその逆。三十二人分の昼飯代は俺のこのいたいけな肩にのしかかって来るのだ!
寮は学校の隣に位置し、寮生は朝夕の食事に困る事は無い。普段はさして金を遣う事もないとは言えアルバイトも禁じられている状況では、この勝負の意味は大きい!
つまり、一ノ瀬の本日の体調及び現状は今日の俺にとって最大の関心事! あんな叫び声を聞いておいて捨て置くわけには行かないのだ!
隣室は至って静かなものだった。
「おーい! 一ノ瀬! 凄い叫び声がしたけど、どうしたんだ?」
返事がない。ただの屍のよう……いや! それはまずいっ! 死ぬな! 一ノ瀬! 何が何でも今日からの期末試験中は生き延びてくれ! 死ぬのはそれからでも遅くはない!
「おーいっ! 一ノ瀬ぇ! 一ノ瀬望ぅ! どうしたんだよぉ!」
マジかよ! 死んでんじゃないだろな! それは困るっ! 俺はどうしたらいいんだ!
ドアノブが回らない、鍵掛けてやがる! これは覚悟の上の行為なのか⁉ そんなに思い詰めるほど勉強したのか⁉ それならば尚更テストを受けずしてなんとするっ!
俺はとにかくドアを叩き、ノブをまわし続けた。ドアなんて壊れたっていい! 一ノ瀬の命の方が大事だ! あいつには俺の昼飯が懸かっているのだから……
「おーい! どうしたんだよぉ! 何で鍵かけてるんだよ! 一ノ瀬っ!」
「大丈夫。何でもないから」
俺の胸が張り裂けそうな位の心配をよそに、間の抜けたって言うか、チョット可愛い? 声がした。
なんだ、生きてんじゃん。
「お前、声おかしいぞ」
「風邪かな、ゴホッゴホッ」
風邪だって⁉ マジか⁉ マジなのか⁉ 大変じゃないかっ! 一大事だ! 一ノ瀬! もうお前一人の体じゃないんだ! 万全の態勢でなければ柳沢は討てんぞ! それにあの声。妙だ。もっと深刻な状態なんじゃないのか⁉
「普通、風邪ひいて声高くなるかよ! ここ開けろよ!」
すると、今度は扉の隙間から一枚のメモが顔を出した。
〝今日は体調が悪い。学校は休む〟
なんだってぇ⁉ 馬鹿を言うな。お前のこれまでの努力はどうなる。俺の血の滲むような応援はどうしてくれるんだ!
「どんな風に悪いんだよー。今日は期末試験だぞー。今回こそ柳沢の奴を抑えてトップにならなくていいのかよー。俺はお前が今度こそ首位に返り咲いてくれるって信じてるぞ! 一年の時は一ノ瀬がずっと一番だったじゃないか。二年になってからは柳沢に負けっぱなしで二位止まり。俺は隣人として悔しいよ! お前はこのままで終わる男じゃないって、俺は信じてる!」
またもや応答がない。もう、最後の手段だ。
「どうしてもここを開けないつもりだな? ならば、俺にも考えがある」
俺は一ノ瀬にそう言うと、大急ぎで部屋からペンをとって来た。
そして、さっき受け取った紙の裏に、はったりをかました。
〝俺はお前の秘密を知っている。どうしてもここを開けないなら、それを拡散する〟
勿論、一ノ瀬の秘密なんて俺が知る訳もない。だが、そう言われて何一つ思い当たる節の無い奴はいるまい。
案の定、少しの間を置いて鍵を開ける音がした。
扉を開くと誰もいない。
「早く閉めろ!」
その声は、部屋に入ってすぐには目に入らない死角から聞こえた。
何やら緊迫した様子に、急いで扉を閉めると俺は声のした方向に目をやった。
「! ! ! ! !」
絶句。男子寮に女子を連れ込むなんて! 一ノ瀬がそんなに大胆な事をするなんて!
誤算だった。こんな美少女に毎夜うつつを抜かしていたのなら、柳沢を討つなど叶わぬ事。
不覚! うかつ!
だが、一ノ瀬はどこだ?
「高橋。どうして僕が女の子になったって知ってるんだ」
何、言ってんの?
この女子が一ノ瀬だって言うのか? 言い逃れにもなってないぞ。
しかし、彼女は真顔で言った。
「黙っていてくれ。こんな事が世間に知れたら僕は終わりだ」
しばし、休憩。
そう言われてみるとこいつ、どことなく一ノ瀬だ。顔だちも口調も仕草も。
そもそも、この部屋にはこの娘しかいない。ならばきっと一ノ瀬だ! もう時間が無いから一ノ瀬に違いない。
「一ノ瀬。学校を休むなんてとんでもない! テストを受けろ。なんでもいいから。この事を世間に知られたくなかったら期末試験を受けるんだ!」
「何、言ってるんだ? 無茶苦茶言うなよ。しかも何で脅してるの? なんか、凄い怪しい。だいたい、この姿の僕が登校してみんなが普通に受け入れると思ってるのか? そもそも高橋は何で僕が僕だって解ったんだ? 普通、信じないよね」
そんな事は、どうでもいいから。とはさすがに言えないよな。
俺だって切羽詰ってるから。も適切ではない。
どうする、どうしたらこいつを試験会場に送り込めるんだ。
そうだ! この勉強オタク、文字通り勉強にしか興味がない。いまどきスマホも持たず携帯もメールは時間がかかるからって通話機能のみ。ネット検索だって勉強に関係ない事を調べてるはずもない。教科書や参考書の類に書いて無い事には関心も薄いはずだ。
「一ノ瀬。これは、結構よくある事なんだぜ。お前は聞いた事無いかもしれないけど、いま世間では中二病って言う病が流行ってるんだ」
「ある日突然、男が女になる事がよくある事だって言うの? それはアニメとかそう言うサブカルチャーな感じの中での話だよね。
中二病って言うのも、いわゆる思春期に、幼さ故の全能感が捨てきれないまま垣間見てしまった現実の自分とのギャップからの逃避が生んだ空想、妄想、重症な場合は暴走であって、決して現実に性別が変わったりしない。
それに、僕は子供のころから医者になるって言う現実の目標に向かって常に努力して来たから、自分の器のサイズは解ってるし、自分以外のモノになりたいとも思わない。
両親は僕に医者になれとは一度も言ったこともないし、僕の意思を尊重してくれる。そう言う意味でも不満も無い。
つまり、僕は僕である事に満足してるんだ」
そうですか。ご立派です。ご両親もお前自身も理想的です。
中二病がどういうもんなのかは俺もはっきりとは解らんが、少なくともこの路線は無しだな。一ノ瀬がこんなに力説するの、初めて見た。
以前〝痛車〟の事を、イタリア製の車だと思っていた事があったから、絶対いけると思ったが……甘かった。
「いやいや、先走るなよ。
俺は中二病って言う病があるとは言ったが、お前のそれがそうだなんて言ってないだろ? 話は最後まで聞けよ。
一見、中二病とよく似ているために間違われる新種の病の話をするつもりだったんだよ」
「新種?」
「そうだ。まだ社会的な認知度は低いが、じわじわと広まりつつあるらしい。
一ノ瀬はいつも勉強が忙しいから、ニュースや新聞で取り上げられたりするような大きな出来事しか知らないのも無理はない。そもそも、この病に関しては政府もパニックを恐れてかん口令を敷いているらしいからな。ネットなんかで検索してもダミーの情報がヒットするだけだから検索は無意味だ。
だってそうだろう? ある日突然性別が変わるなんて、普通信じないよ。でも、俺は信じる。その根拠を知っているからな」
「その病気の名前は?」
―――かかった!
「高二病だ!」
「何か、中二病のにおいがするけど」
「だろ? だからこそ最初に中二病の話をしたんだよ。納得したか?」
「うーん」
どうした一ノ瀬。納得したのか? 何故迷う!
「解ったよ」
イェス! いいぞ! 勉強は出来ても一ノ瀬はある種のバカだ。後は試験を受けさせるのみ!
「名前なんて何でもいい。高二病だろが無かろうが、特効薬がある訳じゃないんだから。名前なんてどうでもいいよ」
えっ⁉
何それ。やっぱりこいつは馬鹿じゃないって事だよな。
「君が来る前、僕はホントにテンパってて。自分でもまともな判断が出来なかったのは解る。
まぁ、この場合のまともな判断が何なのかは解らないけど。
でも、あまりにも常軌を逸した君の発言のお陰で僕はいつの間にか正気を取り戻しつつある。何が言いたいかっていうと、冷静になってほしいって事なんだ。
高橋。君は何らかのもくろみがあって僕の期末試験にこだわっているんだろう? 君はその欲望の眼鏡を通して見るからこの僕が一ノ瀬望に見えるかもしれないけれど、君以外の人にとっては、僕は知らない女の子だ。期末試験はおろか、校内に入るのも難しいかもしれない。解るよね?」
なんだよ! 何だか立場が逆転して来たぞ?
しかし、一ノ瀬が言う事は全くもって尤もだ。この女の子を引きずって行った所で、俺の敗北は変わらない。
だったら、どうしたらいいんだ?
そうか!
「おい! 一ノ瀬。あと二時間でお前を男に戻すぞ!」
「はぁ⁉」
燃えてきた! 何だか知らんが、俺は今猛烈に燃えてきたぞ!