本当にあったかもしれない怖い話
今回に限っては中盤まで〝本当にあったなんちゃら〟調でお読みいただければ幸いです。
その朝は、早い冬の訪れを感じさせる寒さでした。
トイレに行きたくなった僕は暖かいベッドから出る思い切りが付かず、昨夜飲み過ぎたジュースの事を恨めしく思いつつ悶々としていたのです。
十一月ともなると午前五時はまだ真っ暗で、寮の中は静まり返っていました。
実家は地方で開業医をやっており、僕は医大に入るため、首都圏にある某有名進学校の寮で生活を送っていました。
寮内では厳格な節約が義務付けられ、夜十二時から朝六時までは全館消灯がルールでしたし、トイレに行くには冷えた廊下に出る必要もある。僕の躊躇いは当然の事でした。
そうは言ってもやがて限界は訪れ、パジャマに上着を羽織った僕はすごすごと廊下に出たのです。
真っ暗な廊下に自分の足音だけがパタパタと反響し、その音に急かされるように僕はトイレへと向かいました。
当然そこも電気は点かず、広々とした場所で無防備な姿になる気にもなれず、足は個室へと向かったのです。
用を済ましてホッとすれば後はまた暖かいベッドに戻るだけ……そう思うと先程までグズグズしていた自分自身が急に馬鹿らしくなり、手を洗い始めた時でした。
ふと顔を上げると真っ暗なトイレの鏡の中に、肩まで髪を伸ばした女の顔が写っていたのです。
僕は慌てて振り返りましたが後ろには誰もいません。恐る恐るもう一度鏡を見ると、そこには恐怖にゆがんだ女の顔が写っていました。
そこからは、どうやって逃げたのか、パニックになった僕は気が付くと自室のベッドの中で震えていました。
寮では地震や火災などに備えて在室時の施錠を禁止しているのですが、僕は迷わず鍵をかけ、金属製の定規を抱きしめて布団をかぶりました。
こんな時は経文を唱えるのがいいのか、十字架が効果的か、信仰心の無い僕は途方に暮れました。
今までこれと言って悪事を働いた事もない自分に、なぜこんな災難が降りかかるのか。
『あっ! 水、止めてないかも……でもそれは〝あれ〟を見た後だから……』
などと思いを巡らせていた矢先でした。
首筋にパサリと何かが落ちたのです!
それは髪の毛でした。
『当たり前だ! 鍵を閉めたってなんの役にも立たない! ドアだって、壁だって意味なんてない!』
僕は心底恐怖しました。なぜならそれは、このベッドの中に〝あれ〟がいると言う事を意味しているからです。
しかし、恐る恐る周りを探ってみても何かに触れる事はありませんでした。
思い切って目を開けると辺りは白々と夜明けを予感させる気配。〝あれ〟の行動時間外になったのかもしれません。
すっかり眠気が醒めてしまった僕はベッドから抜け出しました。
案の定、部屋には誰もいません。あれはきっと悪い夢か錯覚だったのでしょう、もしくは寝ぼけていたのかもしれません。
安心した僕が鏡の中に見たモノは、あの女でした……
冷静に考えると鏡の中に僕がいません。鏡の中から呆然とこちらを見ている女の子。
これは一体誰ですか⁉
『ギャーッ!』
午前七時。目覚まし時計の音がけたたましく鳴っていた。
今朝方ひどい悪夢を見た気がする。そう、この世のモノでは無いモノを見た夢……
今日から始まる期末試験のため充電式スタンドの明かりを頼りに遅くまで勉強していた僕は、空腹を紛らわそうとジュースを二リットルも飲んでしまった。
早朝のトイレに行く羽目になったのも、その後眠すぎてモウロウとし、おかしな夢を見たのも、多分……いや、きっとそのせいに違いない。
夢にしても、あまりにも馬鹿げている。
何をどうすればそんな事になると言うのだ。
でも、僕はどうしてこんな所で寝ていたんだ? ベッドではなく、鏡の前で……
「あああああああああああ‼」
うそ! ウソ! 嘘‼ うそだッ‼ 僕はまだ夢を見ている! そうだ! きっとそうだ! もう一度寝よう!
そう思った次の瞬間、扉を激しくノックする音がした。
「おーい! 一ノ瀬! 凄い叫び声がしたけど、どうしたんだ?」
まずいっ! 隣の部屋の高橋だ! あいつにこんな事が知れてみろ! 本日中に全校生徒の知る所となる事は勿論の事、何らかの研究機関が僕を迎えに来て人体実験されるかもしれないっ!
いやいや、待て待て。一旦落ち着こう。
そもそも、この女子が僕だと信じる方がおかしいだろう? 当の本人さえ全否定しているのだ!
そう! 全力で!
「おーいっ! 一ノ瀬ぇ! 一ノ瀬望ぅ! どうしたんだよぉ!」
馬鹿っ! そんなに激しくドアノブをまわすな! 壊れたらどうする!
大声を出すな! 出馬もしていないのにフルネームを連呼しないでくれ!
頼む、高橋。これ以上事を荒立てないでくれっ!
しかし、ここで新たに一点、僕にとって気が付きたくもない不利な証拠を発見してしまった……
〝施錠している〟
それは、本日早朝から現在に至る一連の事象が夢ではなかったという事の証。
いや待て! この状況において施錠は正解だ。いわゆる不幸中の幸い。ナイス! 僕……などとつまらない慰めに逃避するのはもう止めよう。高橋のノックの勢いはシャレにならない程激しさを増している、これ以上騒がれたら大変なことになる!
「おーい! どうしたんだよぉ! 何で鍵かけてるんだよ! 一ノ瀬っ!」
「大丈夫。何でもないから」
「お前、声おかしいぞ」
「風邪かな、ゴホッゴホッ」
どうしよう! 声も女の子だ!
「普通、風邪ひいて声高くなるかよ! ここ開けろよ!」
声を出さずに、こいつを黙らせる方法……
駄目だ。絶対絶命だ。
そもそも、何で高橋はこれ程僕に固執するんだ? 隣の部屋の住人と言うだけで普段はそれほど付き合いも無い。僕は特進クラスで高橋は教養コースの体育会系。接点もなければ共通の話題も無い。何故今日に限ってこんなにもしつこく関わって来るんだ。ほっといてくれ! お前に構ってる場合じゃないんだ!
僕は仕方なしに扉の隙間から高橋にメモを渡す事にした。
〝今日は体調が悪い。学校は休む〟
しかし、今日の奴は普段にも増してしつこかった。
「どんな風に悪いんだよー。今日は期末試験だぞー。今回こそ柳沢の奴を抑えてトップにならなくていいのかよー。俺はお前が今度こそ首位に返り咲いてくれるって信じてるぞ! 一年の時は一ノ瀬がずっと一番だったじゃないか。二年になってからは柳沢に負けっぱなしで二位止まり。俺は隣人として悔しいよ! お前はこのままで終わる男じゃないって、俺は信じてる!」
いったい何を言い出すかと思えば、僕のテスト順位の心配? 気持ち悪い。って言うか怪しい。
「どうしてもここを開けないつもりだな? ならば、俺にも考えがある」
高橋はそう言うと、僕が渡したメモの裏にメッセージを書いて送り返してきた。
〝俺はお前の秘密を知っている。どうしてもここを開けないなら、それを拡散する〟
僕の秘密? 何で知っているんだ⁉ 高橋! お前は僕をどうするつもりなんだっ!