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氷の乙女と焔の公爵閣下

溶けた氷は戻らない

作者: 美羽



――変な人。


それが、彼を視界に入れて最初に思ったことだった。






シェルフィーナ・エル・ファフノプスはファフノプス伯爵家に長女として生まれた。

家族構成は父、母、兄、そして自分。

父は宮廷で宰相補佐として働き、兄は騎士団の分隊長を任されている。

伯爵家としては珍しい高官だが、まあそれはほとんどの場合シェルフィーナには関与しないのであまり興味はなかった。

――そう、今日開かれているような婚約者あさりのための舞踏会で無い限り。



シェルフィーナはため息を押し殺した。

目の前には人、人、人。

人間が多すぎる。



「シェルフィーナ、いい加減誰かと踊ったらどうだ?」



兄であるグランドルトがやれやれ、と肩を竦めるが冗談ではない。



「グラン兄様、無茶を言わないで。

名前も知らない、顔も見たことがあるかどうか程度の男の方と踊る気にはなれないわ」


「それはお前が興味を持たないからだろう?

お前にダンスを申し込んでくるやつらは毎回声をかけてくれているよ」


「覚えていないわ」


「……全く、そんなんだから氷の乙女だとか社交界で噂されるんだ。

同僚や上司から色々言われる俺の身にもなってくれ」


「だって仕方ないのよ。

皆同じに見えるのだもの」



シェルフィーナはモテる。

家自体は伯爵家であるが父、兄共に将来を約束された地位。

そして彼女のその容姿ゆえに。


シェルフィーナの母は、昔傾国の美女と持て囃されるほどの容姿で社交界の花であった。

金の髪に青の瞳、白い肌にスラリと伸びた手足。

そんな彼女の心を誰が射止めるのか、水面下では激しい攻防が起こっていたのだとか。

結局シェルフィーナの父であるアルダンテ・エル・ファフノプスと結ばれ二人の子をもうけ、今は伯爵家をきりもりしているのだが、その美貌は衰えることを知らない。


そしてその美しさは困ったことにシェルフィーナに受け継がれてしまった。

本人は全く喜ばしくはないのだが、父譲りの銀髪に母譲りの青の瞳、白い肌と女性らしい丸みをおびた体つきは母に勝るとも劣らない、と社交界で噂の的だ。

それ故にこのような場ではダンスの誘いは止むことがなく、シェルフィーナは引っ張りだこのはず、なのだが彼女は兄と静かに料理に手をつけ続けている。


その原因は彼女の少し困った性質にあった。

シェルフィーナは他人に殆ど興味を示さない。

顔を見れば見たことがある、とは思うのだがそれだけで、名前を思い出すことは無いし知ろうとも思わない。

もちろん親しい友人はその限りではないが、それも片手で数えるほどだ。

そんな彼女が見知らぬ相手――兄が言うにはよく声をかけてきているらしいがシェルフィーナは覚えておらず興味も持っていないため“知らない”に分類される――にダンスを申し込まれても断るのみ。

その容姿と性格故、彼女は今や氷の乙女という呼称までつけられたのだった。



「同じに見えると言っても一曲ぐらい踊らなければいけないだろう?

一曲踊れば世間体も十分保てるだろうし、俺も静かに料理が楽しめる」


「それじゃあグラン兄様、私と踊って下さらない?」


「相手なんか周りに腐るほどいるじゃないか」


「いいじゃない、兄様もそろそろ鬱陶しいのでしょ?」


「我が妹君にはばれているか。わかったよ、俺でよければ喜んで」



手をとりあってホールに入る。

全く、とシェルフィーナは分からない様に顔をしかめた。

自分によって来る人間も、兄によって来る人間ももう少しどうにかならないものか。

殆どの人間は気づいていないようだが、シェルフィーナの兄であるグランドルトも彼女と同じくらい他人に興味がない。

彼の場合、それをうまく隠しているだけだ。

皆に冷たいシェルフィーナと皆に優しいグランドルト。

反対に見えて、その本質は全く同じである。


この状況を無くすために最も有効な手立てが一つだけあることを、シェルフィーナもグランドルトも知っていた。

婚約者をつくること。

けれどそれを実行に移す気はないし、他人に興味がない二人にはとても困難だ。

だからこそこういった社交の場では毎回兄妹で一曲だけ踊り、後は壁の花に徹する。

それが二人の日常だった。






ダンスで熱をもった体を冷まそうと、シェルフィーナはバルコニーに出ていた。

兄は騎士団の知り合いと話しておりいない。

ぼんやりと晴れ渡った星空を見上げた。

こうして自然を感じている時がシェルフィーナにとって最も心が安らぐ時間だ。

自然はこちらに干渉してこないし、こちらも自然に干渉することはない。

ただお互い存在するだけの関係が、シェルフィーナにとってとても好ましかった。



「人間同士もこんな風に、話すことなく存在しているだけなら楽なのだけど」


「それは不可能ですよ、氷の乙女殿」



シェルフィーナの独白は、突如として彼女の視界に乱入してきた男によって否定されることとなった。

驚きにシェルフィーナの瞳が見開かれ、反対に男は満足そうに目を細める。



「驚かせてしまいましたね、申し訳ありません」


「……いいえ、構いません」


「ならばよかった。貴女に嫌われてしまったらどうしようかと思いましたよ」


「……」



あまりにも胡散臭い口上にシェルフィーナはじろじろと男を眺めた。

炎を集めたような赤い髪に琥珀色の瞳。おそらく美男子の範囲に入るだろう。

シェルフィーナが氷ならば彼は炎と言ったところか。



「…それで、私に何か御用でも?」


「いえ、用という程のものではありませんが、少し話をしたくてね」


「申し訳ありませんが兄が中で待っておりますので」


「兄君は未だ他の分隊長につかまっていて、今貴女が戻れば巻き込まれますよ?」


「……」



それは嫌だ。

そう思ったシェルフィーナは動かしかけた足を止める。

その様をクスクスと笑いながら見守って、男は再び口を開いた。



「もう少し私と共に過ごしてくれれば嬉しいのですが」


「……はぁ」


「ところで貴女は星に興味が?」


「まあ、少しは」


「ならば星に関する話でもさせて下さい。

私も自然が好きなのですが、あまり友人にはこういった話に興味がある者がいなくて欲求不満なのですよ」


「……どうぞ、ご自由に」


「ではお言葉に甘えさせていただきましょう。

あちらに見える明るい星は分かりますか?あれは………」






男は博識だった。話の内容は星だけに留まらず多岐にわたり、しかも上辺だけの知識ではない。

最初は適当に聞き流していたシェルフィーナも段々と引き込まれ、最後には質問をぶつけたり議論を交わし合ったりまでしてしまった程だ。

元々シェルフィーナは周囲への興味が薄いかわりに、少しでも関心を持ったものにはどっぷりとハマってしまう。

その彼女が持ち得ない知識を持ち、また今までは興味のなかった分野にまで関心を持たせるほどの巧みな会話を操る相手に、シェルフィーナは段々と心を開き始めていった。



「……というわけなのですよ」


「……素晴らしいお話でした。

こんなに話していて楽しくなったのは何年振りかしら」


「そう言っていただければ幸いです。

私も久しぶりに存分に語ることが出来て満足ですよ」


「最初のうちは失礼な態度をとってしまってごめんなさい」


「構いませんよ。

貴女の求婚者たちが同じような手段で貴女に話しかけているのを知らないわけではありませんし」



その言葉にシェルフィーナは苦笑した。

そこまで知っているとは。

彼の言うとおり、シェルフィーナと彼女が関心を持つ事柄について話がしたいと言ってくる男性は今までも掃いて捨てるほど存在した。

だがそんな彼等よりもシェルフィーナの持つ知識は多く、また相手も貴族の女の趣味程度にしか認識していなかったため満足に会話できることはなかった。



「よくご存じですのね。その通りです」


「私の話は貴女を満足させることが出来ましたか?」



男の問いにシェルフィーナは勢いよく首を縦にふった。

無意識に顔に笑みが浮かぶ。

男が息を呑む気配がしたが、シェルフィーナは幸か不幸か気づかなかった。



「とても。まだ何時間でもお話していたい程です」


「……よかった。しかしそろそろ貴女の兄君が探している頃でしょう。

長く話しすぎてしまいましたから」


「そうですね…」



残念だが仕方がない。

彼とはもっと話していたかったのだが。

失礼します、と別れを告げ、バルコニーを出ようとした刹那。



「話の代わりと言う訳ではありませんが、我慢できそうにありませんのでね」



グイ、と腕を掴まれ体が反転する。

視界に再び男が映り、それが目一杯に近づき―――


唇に、柔らかいものがあたった。


ちゅ、と軽く吸われ、すぐに離れるそれに呆然とする。

目の前の男はそれに小さく笑って耳元で囁いた。



「貴女が好きです」



その言葉の意味を漸く理解したのは、男が去って心配した兄がバルコニーまでやってきた時だった。



*****



静かなバルコニーから人々がざわめくホールに戻り、とうとう我慢できずに唇を手で覆った。

恐らく耳が赤くなっていることだろう。

身の内の熱が冷めるまで、知り合いには会いたくないものだが―――



「よう、どうしたんだジェラルド?」


「……別に、なんでもないさ」


よりにもよって、十年来の悪友に見つかってしまったジェラルド・ドライ・スフィアはため息をついた。



「そんな顔してなんでもないって?

嘘だって顔に書いてあるようなもんだろ。

……さては愛しのシェルフィーナ嬢とやっと話でもできたか?」


「なんで分かる」


「そりゃお前、なんでもソツなくこなす麗しの公爵閣下がこんな風になるのは、一年にも及ぶ片思いの相手のシェルフィーナ嬢関連のことしかないだろ」


「……」


「で、何したんだ?」



人の気も知らないでにやにやと質問してくる目の前の男にジェラルドは殺意を覚えた。



「……しばらく話をして、別れ際に思いを伝えた」


「そんだけか?」


「アッシュ、貴様俺をなんだと――」


「それだけでそんな分かりやすく顔赤くしないだろお前は」


「……口付けた」



アッシュ――アシュワルトが小さく口笛を吹く。

それをぎろりと睨んで、ジェラルドは先程別れたばかりの彼女――シェルフィーナに思いを馳せた。


最初のうちは自分に対して興味のかけらも抱いていなかった彼女が、話をしていくうちに心を開き、その青の瞳に自分を映してくれたことでどれだけの喜びが込み上げたか、自分以外の他の誰にもわかるまい。

最後に彼女が見せてくれた笑顔の美しさ、可愛らしさといったらない。

思わず暴走してしまった。

彼女に軽い男と思われていないか、嫌われていないかだけが心配だ。



「…い、おい、ジェラルド、聞いてるのか?」


「聞いてない」


「お前……相変わらずシェルフィーナ嬢以外に対しては冷たい奴だな」


「彼女は特別だ。俺が決めた、俺の唯一だからな」



これまでの一年間、自分は彼女と話さずにどうして満足できていたのだろう。

一度彼女と同じ時を過ごしてしまえば、もう以前のようにその姿を見つめているだけでは到底我慢などできない。


何者にも関心を抱くことのない氷の乙女。

賽は投げられた。



「必ず俺のものにする」



彼女の心を、溶かすのだ。



*****



前回に引き続き、間を開けずまたも参加することとなった舞踏会で、シェルフィーナはぼんやりと皿の料理を見つめた。

隣では兄が料理に舌鼓を打っている。

いつもならばシェルフィーナも同様に手を伸ばすのだが、前回の舞踏会以来食欲があまりない。


―――前回


また思い出して、シェルフィーナはうっすらと頬を染めた。

あれから一週間ほど経っているが、あの時の事は記憶に新しい。

と、言うか忘れたくても忘れられなかった。

そっと、唇に触れる。

何故、彼は自分にキスをしたのだろう。

それに、最後に囁かれたあの言葉。

――好き、というのは本当に?

それともこういった色恋沙汰に不慣れな自分をからかったのだろうか。


けれど一番戸惑っているのは自分の心。

何故自分は彼に口づけられた時、嫌だと感じなかったのか。

求婚者の中にいた馴れ馴れしい男が、手袋をしていない自分の手に口づけるのでさえ嫌悪感を抱いたはずなのに。

脳裏に優しく輝く琥珀の瞳が浮かんで、シェルフィーナは慌てて頭を振った。

違うのだ。そう、きっとこれは初めてのことで動揺しているからで、決して彼が――



「シェルフィーナ?さっきからどうしたんだ?」


「…ぁ、いいえ、なんでもないの」


「そうか?最近様子がおかしいし、具合でも悪いんじゃ…」


「そんなことないわ!

すこし、考え事をしていて」


「ならいいが……」


「本当に何でもないの。

さ、グラン兄様、そろそろ踊りましょう?また人が集まって――?」



まだ訝しげにこちらを見る兄をホールの中心へと引っ張っていこうとして、突然ざわつきだした周囲にシェルフィーナは首を傾げた。

グランドルトも何事かと辺りを見回して、ある一点で視線を止めると納得したように呟いた。



「焔の公爵か」


「焔の公爵?」



更に首を傾げるシェルフィーナに、グランドルトは呆れたようにため息をついた。



「シェルフィーナ、興味がないと言っても名前くらいは覚えろ」


「仕方ないじゃない」


「もう少し周囲を誤魔化してくれ。

――焔の公爵はまあ、名前の通り公爵閣下だ。

確か本名はジェラルド・ドライ・スフィア殿。

騎士団の団長でな。俺は二、三回程度しか話したことは無いが、なかなか油断ならない性格だったな。

焔の、は外見とその戦いの勇猛果敢ぶり、激しい気性からつけられたとか」


「へえ」


「……もう少し興味を持ってくれ。

一応俺の上司なんだから」


「そんなことを言われても、私は会ったことも――――!!」



チラリとその姿を視界に入れて、シェルフィーナは自分の目を疑った。

少しここからは距離があるが、一週間頭から離れなかった相手を見違える訳がない。



「……あの人が、公爵閣下…?」


「?シェルフィーナ、知ってるのか?」


「……その、以前舞踏会で」



兄に説明しようとした言葉は、しかし続かなかった。

目の前の光景ゆえに。


彼の腕に自らの胸を押し付ける女、彼の胸にしなだれかかる女。

彼の周囲は未婚の貴族女性で溢れかえっている。

もしかすると、既婚者さえもいるかもしれない。

しかし彼はそれをどうするでもなく放置して、彼女たちのしたいようにさせていた。

その様子で、確信する。


――嗚呼、きっとからかっていたのだ。

恋も知らぬ、こんな小娘を。


もう見ていられなくて、シェルフィーナは一度ギュッと目を瞑り、そして身を翻して逃げ出した。



「おい、シェルフィーナ!?」



兄の声が聞こえるが、あの場にこれ以上いるなんて不可能だ。

早く早く、人のいないところへいかなければ。

氷と呼ばれたこの心が、無残に砕け散ってしまう前に。






いつかのようにバルコニーへ出て、シェルフィーナは弾む息をおさえた。

堪えきれずに顔が歪む。

もう誤魔化すことは出来なかった。

あんなにも忘れられないのは。紅の髪が琥珀の瞳が、優しい声が浮かぶのは。


なんて愚かなのだろう。

少し話をしたぐらいで。少し笑いかけられたぐらいで。甘い言葉を投げかけられたぐらいで。

こんなにも簡単に、キスで墜ちてしまったのだ。


氷の乙女が、聞いて呆れる。

はらはらと零れ落ちる涙とともに、シェルフィーナは苦く笑った。



*****



「おい、シェルフィーナ!?」



その言葉が聞こえた瞬間、ジェラルドは勢いよく顔を上げた。

彼女のことになると途端に反応する自身に内心苦笑しながら、声のした方向を見る。

そこには彼女の兄であるグランドルトが立っており、そこから少し離れた反対方向には走り去るシェルフィーナの姿があった。

まるで、なにかから逃げるようなその後ろ姿。

今にも捕食者に捉えられてしまうウサギのような。

けれどそれにジェラルドが抱いたのは、純然たる歓喜だった。

自身の体に纏わりつく女達を振り払い、突然のことにおびえるそれらに短く「もう近づくな」と吐き捨てる。

どうでもいい女達だ。公爵という地位によってきた有象無象。

害がないため放置していたが、これからは違う。

そして近くにいたアシュワルトに彼女の兄の足止めを指示した。

アシュワルトは騎士団の副団長だ。上司の誘いをグランドルトは無下にはできまい。

そして自分は逸る心を必死に抑えて彼女を追う。



「どこだ、シェルフィーナ」



あの氷の乙女が、何者にも心動かされることのなかった彼女が。

動揺して、恐れて、逃げ出した。

あの時周囲には彼女がそうなってしまうような要因は見当たらなかった。

彼女の親しい友がいたわけでも、なにか大事件があったわけでもない。

ならばそう、彼女は何にあんなにも揺さぶられたのか。

それがもしも自分ならば。

自分が女に囲まれていたことにあんなにも動揺したのだとすれば。


――嗚呼、それはなんて。


口元に浮かぶ笑みをおさえることが出来ない。

いつかのようにバルコニーに立つ後ろ姿が視界に入って、ああ、肩が震えている。

彼女は泣いているのだろうか。

だとしたら、それは何に対する悲しみだ?


ゆっくりと、彼女に近づく。

早く気がついて、振り向いて、その瞳に自分を映して欲しい。

そして貴女の、その揺れる心の内を、その口で教えて欲しい。


それが本当に自分が原因ならば。

それはなんて、幸福なことなのだろう。



*****



「氷の乙女殿」



聞きなれた――聞きなれたと思う程に頭から離れなかった声に、シェルフィーナはびくりと肩を揺らした。

響く足音に慌てて涙を拭い振り返る。

――やはり、彼だ。

その姿をとらえて、そして自覚してしまった思いが溢れそうになって、唇を噛む。



「ああ、いけませんね。血が出てしまう」


「……っや」



唇に伸ばされた手に、思わず小さく悲鳴が漏れた。手を振り払う。

ああ、いけない。これでは彼の思うつぼだ。

彼は自分をからかっているのだ。

したいようにさせておけば、きっと飽きてここからいなくなってくれる。

反射的に行ってしまったことに、シェルフィーナは情けなくて下を向いた。



「……やはり、俺の思ったとおりだな」



思っていたよりずっと近くで吐き出された言葉に、シェルフィーナは驚いて顔を上げた。彼がクツリと笑う。

もはや取り繕うことをやめた彼の言葉遣いは、自分を完全にはめることができたと確信したから?


――やっぱりそうだ。これは遊び。

自分はそれに本気になってしまった馬鹿な女。


惨めさにまた涙が溢れそうになる。

けれどそれは、突然目の前の彼に抱きしめられたことでぴたりと止まった。



「な、なにを……!!」



やめて。離して。これ以上踏み込まないで。

離さないで。もっと触れて、近くに。


相反する感情がシェルフィーナの中でせめぎ合い、それは行動となって表れる。

腕の中で必死にもがくが、抱きしめる彼の力は強くなるばかりで、それも次第になくなった。

ただ静かに抱きしめられながら、ポツリと呟く。



「何故ここに来たのですか」


「貴女がいたからだ」


「――っ、私を、嗤いに来たのですか。

貴方の策略に、呆気ないくらいに嵌った愚かな私を」


「そうだな、貴女は俺のかけた罠にかかった。

シェルフィーナ、何故先程は逃げた?

氷と呼ばれた貴女を揺らがせたのは、一体何だ?」



もう我慢できなかった。

ボロリと、涙が溢れる。



「分かっているくせに、私に問うのですね。

貴方が私の心を崩したと、知っているくせに。

私は貴方に墜とされた。

ただ一度のキスで、もう元の居場所まで這い上がることすら出来ない程に深く、深く。

こんな私を、愚かな女と嗤えばいいわ」


「笑う?そうだな、笑い出したいくらいだ」



――決定的だ。

ギュッと、瞳を閉じる。

どんな言葉が彼の口から出ても、みっともなく泣きえ喚くことがないように。



「――ようやく貴女を手に入れた。

シェルフィーナ、愛している」


「………え?」



けれど想像していたものと全く違う種類の言葉に、思わず目を見開いて顔を上げた。

――瞬間、後悔する。

甘い微笑み。蕩ける琥珀の瞳。

そんな顔をされたら、ねえ、信じてしまう。希望を持ってしまう。



「そ、んな……だって、貴方は」


「先程の女共のことを言っているなら誤解だ。

あれは勝手に俺に群がってきているだけで、貴女が求婚者に囲まれていたのと同じ。

――だがこれからは近寄らせないし、貴女も俺以外の男と共にいるなど許さない」



額に、まぶたに、頬に、口付けが落とされる。



「貴女が好きだ。ずっと貴女を見ていた。

あの時、バルコニーで貴女を見つけて、チャンスだと思って近づいた。

その心を、俺だけのものにするために。

――シェルフィーナ、貴女は俺に墜とされたと言った。

だがそれは俺も同様だ。

貴女と同じ――いや、もっともっと深く、俺は貴女に墜とされている」



甘い甘い言葉を、半ば呆然と聞く。

口付けが止んで、真剣な表情をした彼の顔が迫った。

息が互いの唇にあたるほどに、その距離は近い。



「シェルフィーナ、俺のもとへ墜ちろ」



なんて勝手な、なんて短い、最上の言葉。

心が震える。頬が熱を持って、瞳が潤んでしまう。

けれど貴方の姿は揺らがない。



「……愛していますジェラルド。私を、もっと墜として」



唇が重なる。




その夜、乙女の心は溶かされた。





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