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星が重なる日(改訂版)  作者: 橘花


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もう一つの名前

西暦××××年××月××日 ダーウィン基地 言語解析室 早朝


十六夜は、面会の前に、一人で発音の練習をしていた。


ミゼン。


三つの音節。AIが確定した音の並び。何度も聞いた録音と、自分の口から出る音を、繰り返し照合した。


呼び方の切り替えは、書類の上では昨日から始まっていた。だが、声に出して呼ぶのは、今日が初めてになる。名前を初めて呼ぶ瞬間の発音が不正確だったら、と十六夜は思った。名前は、その人だけを指す語だ。だからこそ、最初の一回を、正確に出したかった。


窓の外で、ダーウィンの朝が始まっていた。あの朝から数えて、何度目の朝だろう。数えるのをやめてから、もう長い。


録音をもう一度再生した。ミゼン。自分でも発音した。ミゼン。


大丈夫だ。行ける。


十六夜はノートを閉じて、面会室に向かった。


────


同日 隔離区画 面会室 午前


「ミゼン。おはよう」


十六夜は、向こうの言語で言った。


ミゼンは、少し間を置いてから、頷いた。


「おはよう。イザヨイ」


名前で呼び合う面会が、今日から正式に始まった。


書類の上では昨日から変わっていた。だが、声に出して呼ぶのは、今日が初めてだった。ミゼン、という音が面会室に響いたとき、本人の表情が、わずかに動いた。嬉しさとも照れともつかない、短い動きだった。


そして、ミゼンは「イザヨイ」と返した。


こちらの名前を呼ぶのも、初めてだった。互いの名前が初めて通じた日、音として繰り返されたことはあった。だが、呼びかけとして名前を使ったのは、今日が初めてだ。呼ばれた側になってみて、十六夜は分かった。名前を呼ばれるというのは、自分がその場にいることを、認められることだ。


記録者が、小声で言った。「双方向で、名前の呼びかけが成立しました」


記録としては、それだけのことだった。だが、面会室の空気は、記録に残らない分だけ、確かに変わっていた。


────


「ミゼン。名前。意味。ある」十六夜は聞いた。


こちらの名前には意味がある。十六夜、という名前の意味を、いつか伝えたいと思っていた。その前に、向こうの名前の意味を聞いてみたかった。


ミゼンは、少し考えた。それから、両手で船の形を作った。船体を示し、その後方を指した。


「帆」ミゼンは言った。「後ろの帆」


レイスが補った。「船の。後ろ。帆。支える」


十六夜はAIに照合させた。「後ろ」と「帆」の間に、これまで確認されていなかった短い音節が挟まっている。所有や所属を示す助詞に相当する可能性が高い、という結果が出た。


「『の』に相当する音節かもしれません」十六夜は記録者に言った。「語と語を繋ぐ音です。文法が、一段進みます」


これまでの解析は、語彙が中心だった。船。水。合意。継続。一つ一つの語に、一つ一つの意味を対応させてきた。だが、語を並べるだけでは、文にならない。語と語を繋ぐ小さな音——助詞に相当する要素——が確認できて、初めて文の構造に手が届く。


子供が言葉を覚える順番と似ている、と十六夜は思った。最初は単語。次に、単語を繋ぐ小さな音。その音が入った瞬間に、片言が言葉になる。


「名前の意味を聞いたことで、文法が進むとは思いませんでした」記録者が言った。


「名前は、意味を説明したくなるものですから」十六夜は答えた。「説明しようとすると、語を繋がなければならない。繋ぐ音が、自然に出てきます」


語彙の積み上げから、語と語の関係へ。解析は、次の層に入りつつあった。


────


「後ろの帆」十六夜は日本語で繰り返した。それから、向こうの言語で確認した。「目立たない。だが。船。支える」


ミゼンは頷いた。


「良い名前」十六夜は言った。


ミゼンは、何も言わなかった。ただ、深く頷いた。


はぐれた艦の乗組員として、あの朝の後の海で捕らえられて、ここまで来た。橋渡し役として、二つの文明を支えてきた。後ろの帆、という名前の通りに。


────


それから、ミゼンが、逆に聞いてきた。


「イザヨイ。名前。意味。ある」


同じ問いが、そのまま返ってきた。十六夜は少し笑った。聞かれると思っていた。聞かれたかった、のかもしれない。


十六夜は、紙に月を描いた。丸い月。満月だ。


「月」十六夜は、向こうの言語で言った。月に相当する語は、初期の解析で確認済みだった。夜空の観察は、双方の文明に共通していた。


ミゼンは頷いた。


十六夜は、満月の隣に、もう一つ月を描いた。ほんのわずかに欠けた月。そして、二つの月の間に矢印を引いた。満月の、次の夜。


「月。いちばん丸い。その。次の。夜」


覚えたばかりの「の」に相当する音節を、早速使ってみた。ミゼンの目が、わずかに動いた。通じている。


「十六夜。意味。満月の。次の夜の。月」


ミゼンは、絵と十六夜の顔を、交互に見た。それから、何かを確かめるように、ゆっくりと言った。


「いちばん丸い。少し。欠ける。でも。月」


「そう」十六夜は頷いた。


ミゼンは、少しの間、黙っていた。それから言った。


「良い名前」


さっき十六夜が言った言葉が、そのまま返ってきた。


面会室が、静かになった。悪い静けさではなかった。名前の意味を交換し合った後の、満ちた静けさだった。


名前の意味を知ることは、その人を知ることに、少しだけ近い。十六夜はノートにそう書いた。その下に、もう一行書いた。名前の意味を教えることは、その人に知られることに、少しだけ近い。


────


面会の後半で、レイスの様子が変わった。


これまでの面会で見たことのない、改まった気配だった。レイスは背筋を伸ばし、十六夜をまっすぐに見た。


「私の。上。あなたたちの。上。会う。望む」


十六夜は、一語ずつ確認した。


「あなたの上の人。私たちの上の人。会う」


「そう」レイスは頷いた。「直接。会う」


直接会談の提案だった。


レイスは補佐官だ。その上に、外交を統括する人物がいる。これまで、その人物の存在は推測でしかなかった。今、向こうから、その人物と日本側の代表との直接会談が提案された。


十六夜は、記録者と目を合わせた。記録者の手が、一瞬止まっていた。


「重要な提案です。慎重に確認します」十六夜は日本語で小声で言った。それから、向こうの言語に戻った。


「確認する。あなたの。上の人。ここ。来る。それとも。私たち。行く」


レイスは、少し考えた。それから答えた。


「まだ。決まらない。話す。これから」


場所も形式も、これから協議する。提案の段階だ、ということだった。誠実な答え方だと十六夜は思った。決まっていないことを、決まっていないと言う。この誠実さは、最初の面会からずっと変わっていない。


十六夜は、ミゼンの方を見た。


ミゼンは、静かに座っていた。驚いている様子はなかった。事前に知らされていたのだろう。ただ、その表情には、これまで見たことのない種類の張りがあった。


自分が繋いできたものが、代表同士の会談という形に届こうとしている。後ろの帆が、船を、行くべき場所まで運ぼうとしている。そういう表情に、十六夜には見えた。


十六夜は、慎重に、次の問いを出した。


「あなたの上の人。名前。ある」


レイスは、少し間を置いた。それから、はっきりと発音した。


「アルセナ」


面会室が、静かになった。


記録者が、その音節を記録した。AIが照合を始めた。人名。これまでの通信解析で断片的に検出されていた固有名詞と一致する。


「アルセナ」十六夜は、できる限り正確に、その音を繰り返した。


レイスは頷いた。「正しい」


それから、レイスは、もう一言、付け加えた。


「アルセナ。良い人」


短い言葉だった。公式の説明ではない。補佐官が上位者を紹介する言葉としては、あまりに簡素で、あまりに個人的だった。だが、だからこそ、十六夜の中に残った。


ミゼンも、頷いていた。


「アルセナ。私。助けた」ミゼンが言った。


私を助けた。ミゼンが艦隊に戻ったとき、あるいはそれ以前に、アルセナという人物がミゼンに何かをしたのだろう。詳細は分からない。だが、ミゼンがその名前を口にするときの表情は、信頼している人間の名前を口にする表情だった。


向こうの外交担当の名前が、初めて、こちらに届いた。名前だけではなかった。その名前を信頼する二人の表情も、一緒に届いた。


────


面会後、廊下に出た。


赤城が待っていた。


「今日は長かったな」


「二つ、大きなことがありました」十六夜は言った。「一つは、ミゼンの名前の意味が分かりました。後ろの帆、という意味です。船を支える帆です」


「本人にふさわしい名前だな」


「そう思います。もう一つは——」十六夜は少し間を置いた。「直接会談の提案です。レイスの上にいる外交担当者と、こちらの代表との会談。そして、その人物の名前が分かりました。アルセナ、という名前です」


赤城は、すぐには何も言わなかった。


「……いつか会うことになるだろうと、前に話したな」


「はい。その日が来たら、また名前から始めるんだと思う、と言いました」


「名前から始まったわけだ」


「始まりました」


赤城は廊下の窓の外を見た。ダーウィンの午後の光が、滑走路の向こうで揺れていた。


「会談になれば、通訳が要る。今の語彙で、会談は成立するか」


十六夜は少し考えた。「片言の往復なら、成立します。ただ、外交交渉の細部を詰められる段階ではありません。抽象的な概念——条件、保証、例外——そういう語彙は、まだほとんど確認できていません」


「時間が要るということか」


「時間が要ります。あるいは、会談の目的を絞ることです。細部を詰める会談ではなく、顔を合わせて、互いの代表が互いを確認する会談。それなら、今の語彙でも成立します」


「最初の会談は、そういうものかもしれないな」赤城は言った。「握手をするために会う。話は、その後だ」


「握手、という習慣が向こうにあるかは分かりませんが」十六夜は少し笑った。「趣旨は、そうだと思います」


「通訳は、お前がやることになるぞ」


「分かっています」十六夜は答えた。答えながら、胸の奥で何かが静かに緊張するのを感じた。あの朝から積み上げてきた語彙の全部が、その日、試される。


────


同日 官邸地下 夕方


「向こうから、直接会談の提案がありました」


藤堂が報告した。「外交補佐官レイスの上位者——外交を統括する人物と、こちらの代表との会談です。その人物の名前も判明しました。アルセナ、という名前です」


室内が静かになった。


「アルセナ」黒崎が繰り返した。


「はい。これまでの通信解析で検出されていた固有名詞と一致します。艦隊の外交責任者と見て、ほぼ間違いありません」


「会談の場所と形式は」


「まだ提案の段階です。詳細はこれからです。ただし、向こうから言い出したという事実が重要です。合意、往来の制度、呼称の切り替え。積み上げの先に、向こうが次の段階を提案してきました」


吾妻が言った。「軍事的な観点から一点。向こうの外交責任者が艦隊を離れてこちらに来るのか、こちらが向こうに行くのか、あるいは中間で会うのか。形式によって、警備の設計がまったく変わります」


「洋上での会談も、あり得るか」


「あり得ます。双方の船を寄せて、中立に近い場で会う形式です。向こうは海の文明です。海の上は、向こうにとって自然な場かもしれません」


黒崎は少し考えた。「こちらの代表を誰にするかも、決めなければならないな」


「代表の格の問題があります」藤堂が言った。「向こうの外交責任者が出てくるなら、こちらも相応の立場の人間を出す必要があります。格が釣り合わなければ、向こうに対して失礼になる。かといって、最初の会談から最高位を出すのは、危機管理上のリスクがあります」


「現場の指揮官級か、政府から派遣するか」


「両方の案を用意します」


吾妻が続けた。「もう一点、言語の問題です。会談は、通訳を介して行うことになります。通訳ができるのは、実質、十六夜一人です。現在の語彙水準では、複雑な交渉は成立しません」


「では、最初の会談で何を目指すか」黒崎が言った。


白瀬が答えた。「会うこと自体、だと思います。あの朝から今日まで、こちらと向こうは、一度も代表同士で顔を合わせていません。捕虜と補佐官という、いわば現場の接触だけで、ここまで来ました。代表同士が同じ場所に立って、互いの存在を確認する。最初の会談の成果は、それで十分です」


「合意文書のようなものは、目指さないのか」


「目指せる語彙がまだありません。無理に文書を作れば、双方が違う意味で理解したまま署名する危険があります。誤解された合意は、合意がないより悪い」


室内が、少し静かになった。


「その議論は、慎重に進めるべきです」白瀬は続けた。「ただ、一つだけ、今夜の段階で言えることがあります。名前が分かった相手と会うのと、名前の分からない相手と会うのとでは、まったく違います。私たちは今夜、会うべき相手の名前を知りました」


「了解だ。会談の詳細を詰める。急ぐな。だが止まるな」


────


ヴァルタ連合 外交補佐官レイス ダーウィン基地 滞在区画 同日夕方


レイスは、窓辺に座っていた。


今日、伝えるべきことを、伝えた。


会談の提案。そして、殿下の名前。


名前を伝える許可は、数日前に届いていた。だが、いつ伝えるかは、レイスの判断に任されていた。早すぎれば、向こうを警戒させる。遅すぎれば、機会を逃す。補佐官として、任される裁量の中で、いちばん重いものだった。


今日を選んだ理由は、単純だった。


今日、向こうは、ミゼンを名前で呼んだ。


朝の面会で、イザヨイがミゼンの名前を呼んだ瞬間を、レイスは横で見ていた。捕虜、という立場の言葉が消えて、名前が響いた。ミゼンの表情が動いたのを、レイスは見逃さなかった。


名前を大切にする相手には、名前で応えるべきだ。だから、今日だった。


イザヨイは、殿下の名前を、正確に発音しようとしていた。一度で、ほとんど正確に発音した。ミゼンの名前で練習していたからだろう。あの丁寧さは、技術ではない。姿勢だ。


「アルセナ。良い人」


自分がそう付け加えたことを、レイスは思い出した。公式の伝達には含まれていない言葉だった。補佐官が言うべき言葉ではなかったかもしれない。だが、後悔はしていなかった。事実だからだ。捨て駒として送り出された艦隊を、誰も死なせずにここまで運んできた人を、他にどう説明すればいいのか、レイスには分からなかった。


窓の外で、ダーウィンの夕方が始まっていた。


殿下が、ここに来る日が、いつか来る。


その日の光景を、レイスは想像してみた。うまく想像できなかった。あの朝より前の世界では、あり得なかった光景だからだ。


想像できないことが、次々に実現していく。それが、あの朝からの日々だった。


────


ヴァルタ連合 派遣艦隊旗艦「エイカ」 艦橋 同日夕方


「伝えたのか」ドラフォの声が、通信機から聞こえた。


「伝えさせた」アルセナは答えた。「レイスに、私の名前を向こうに伝えることを許可した。直接会談の提案と一緒に」


「殿下の名前を、向こうが知った」


「知った」アルセナは窓の外を見た。止まっている艦隊。夕方の海。「向こうは、ミゼンの名前を正式に使い始めた。捕虜ではなく、名前で呼ぶことを選んだ。名前を大切にする相手だ。だから、こちらも名前から始める」


通信機の向こうで、短い沈黙があった。


「直接会談には、私も同席する」ドラフォが言った。「警護の問題だ」


「分かっている。形式はこれから詰める。指揮官の意見も聞く」


通信が切れた。


アルセナは、通信機を見つめたまま、しばらく動かなかった。


ドラフォは反対しなかった。同席する、と言った。数ヶ月前のドラフォなら、外交責任者が艦隊を離れること自体に反対しただろう。危険だ、無意味だ、本国の許可がない——反対の理由は、いくらでも作れた。今日のドラフォは、警護の話だけをした。会談が行われること自体は、もう前提になっていた。


強硬派の指揮官が、いつの間にか、会談の警護を考える側に回っている。


あの朝から、変わったのは海図だけではなかった。


レナが言った。「殿下。本当に、ご自身で行かれるのですか」


「行く」アルセナは答えた。「誰も行きたがらない任務だから、私に回ってきた。あの朝の後、この任務は、誰もやったことのない仕事になった。ここまで来て、最後の段階だけ人に任せる理由がない」


「捨て駒、とはもう言わないんですね」


アルセナは少し笑った。「捨て駒は、拾われないものだ。私は拾われた。ミゼンも拾われた。向こうに、名前ごと」


夕方の光が、艦橋に斜めに入っていた。


「向こうの代表は、どういう人間でしょうか」レナが言った。


「分からない。だが、一つだけ分かっていることがある」アルセナは言った。「捕虜を名前で呼ぶことを決めた人間たちだ。悪い相手ではない」


レナは少し間を置いた。「会談で、何を話されるのですか。言葉は、まだ片言だと聞いています」


「話せることは少ない」アルセナは認めた。「だから、最初の会談で伝えるべきことを、一つだけに絞る」


「一つだけ、ですか」


「戦う意思はない。それだけだ」アルセナは窓の外の艦隊を見た。「一隻沈められて、宣戦布告もないまま、あの朝の後の海で睨み合った。そこから、言葉を積んで、ここまで来た。最初に代表同士が確認すべきことは、条約でも取引でもない。互いに、戦う意思がない、ということだ。それが確認できれば、残りの全部は、時間が解決する」


「片言でも、それは伝わるでしょうか」


「伝わる」アルセナは言った。「ミゼンが証明した。言葉が三十語しかなかった頃から、向こうとミゼンの間には、戦う意思がないことだけは通じていた。言葉は、意思の後から付いてくる」


────


同日 深夜 官邸廊下


白瀬はメモ帳を出した。


「もう一つの名前」


今夜の言葉を書いた。


これまでの言葉が並んでいる。「確認できない」から「呼び名」まで来た。


そして今夜。「もう一つの名前」。


ミゼン。後ろの帆。船を支える帆。あの朝から、二つの文明を支えてきた人物に、ぴったりの名前だった。名前には意味があった。意味を知って、また少し、向こうが近くなった。


そして、アルセナ。


まだ会ったことのない相手の名前が、今夜、こちらに届いた。向こうの外交のいちばん上にいる人物。その人物が、直接会うことを望んでいる。


名前を知ってから会うのと、知らずに会うのとでは、違う。


あの朝、こちらは何も知らなかった。星の位置がずれたことしか、分からなかった。そこから、言葉を一つずつ積み上げて、名前に辿り着いた。一つ目の名前は、ミゼン。二つ目の名前は、アルセナ。


白瀬は、報告書の一節を思い出した。レイスが名前を伝えたとき、短い言葉を付け加えたという。良い人、と。


外交文書に載る種類の情報ではない。分析にかけられる種類の情報でもない。だが、白瀬は、その三文字ほどの報告が、今日の報告書の中でいちばん重要かもしれない、と思った。部下が上司を、公式の場の外で、良い人と呼ぶ。その一言が漏れる組織は、恐怖で動いている組織ではない。


会談の相手が、どういう人間か。まだ分からない。だが、部下からそう呼ばれる人間だ、ということだけは、今夜分かった。


十六夜の報告書には、もう一つのことが書かれていた。ミゼンとの間で、名前の意味を交換し合ったという。後ろの帆。満月の次の夜の月。


意味の交換は、語彙の確認とは違う、と報告書は続けていた。語彙の確認は、情報が増える。意味の交換は、距離が縮まる。


距離が縮まった先に、会談がある。


次は、会う番だ。


白瀬はメモ帳を閉じかけて、もう一度開いた。


これまでの言葉を、最初から辿ってみた。「確認できない」。あの夜は、何一つ確認できなかった。確認できないという事実だけを、確認した夜だった。そこから、一語ずつ、一夜ずつ、言葉が増えてきた。


そして今夜の言葉は、人の名前についての言葉だった。


確認できないところから始まって、名前に届いた。この距離を、あの朝の自分に伝えたら、信じないだろうと白瀬は思った。


廊下の蛍光灯がいつも通りに唸っていた。あの朝からずっと、そうだった。


その音の下で、まだ見ぬ相手の名前が、今夜、書類の上に加わった。

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