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星が重なる日(改訂版)  作者: 橘花


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答えを返す

西暦××××年××月××日 首相官邸地下 危機管理センター 午前7時


昨夜の解析結果が届いていた。


黒崎は報告書を読んだ。二度読んだ。


「今日の語は、完了あるいは既定事実を示す語族に属する可能性が高い。向こうは合意の成立を待っている状態にある」


一文を繰り返して読んだ。


待っている状態にある。


向こうはすでに決定している。合意が成立した瞬間に、艦隊が止まる。そういう状態でこちらの答えを待っている。


あの朝から今日まで、この部屋では多くの報告を受けてきた。最初は「確認できない」という報告だった。少しずつ確認が積み上がって、今日「向こうは待っている」という報告に辿り着いた。


向こうが待っている。


待っている相手に、答えを返す。それが今日やることだ。


「今日、答えを出す」


黒崎は言った。


部屋には白瀬と藤堂と相馬がいた。全員が頷いた。


誰も異論を言わなかった。異論が出なかった理由は、全員が分かっていた。今日答えを出さなければ、機会が失われる可能性がある。それだけではない。今日答えを出すことが、正しいと全員が思っている。その静かな一致が、今日の部屋にあった。


────


「確認する」


黒崎は続けた。「合意の内容は、艦隊の停止だ。こちらが合意の意思を示せば、向こうの艦隊が止まる。この理解で正しいか」


「昨夜の解析結果と、これまでの面会の積み上げからは、そう読めます」白瀬が答えた。「ただし、停止の範囲と期間はまだ確認できていません。完全停止か。一時停止か。期限付きか。その詳細は片言での確認が必要です」


「今日の面会で確認できるか」


「できます。ただし、先に合意の意思を示してから詳細を詰める形になります。詳細が全て確認できてから合意する、という手順は取れない可能性があります」


「なぜか」


「向こうがすでに決定済みで待っている状態にあるとすれば、こちらが詳細の確認を続けている間に、向こうの状況が変わる可能性があります。三日間の猶予に一日の延長が加わりました。今日が実質的な最終日です」


「つまり、今日合意しなければ、機会を逃す可能性がある」


「可能性として。ただし断定できません」


黒崎は少し間を置いた。「了解だ。今日、合意する」


部屋に、その言葉が残った。


あの朝から今日まで、この部屋では多くの判断が下されてきた。どれも「確認できたことを踏まえた次の一手」だった。今日の「合意する」は違う。これから起きることに向かって踏み出す言葉だ。


全員が頷いた。


藤堂が言った。「一点確認です。今日合意した後、向こうとの接触はどう続けますか。合意が成立したとして、次の段階はどういう形になりますか」


「今の段階では分かりません」黒崎が答えた。「今日の面会で合意を伝えて、向こうがどう動くかを見る。向こうの動き次第で、次の段階を考えます」


「艦隊が止まった後、向こうがどう動くかの想定は」


相馬が言った。「こちらに接触してくる可能性があります。あるいは、こちらが出向く形になる可能性があります。どちらにしても、今の捕虜を通じた片言の接触とは別の段階に入ります」


「準備できているか」


「今日の面会の結果を見てから、具体的な準備を進めます」


「了解だ。今日の面会が終わってから次を考える。今日はまず合意を伝えることだ」


────


「合意の意思をどう伝えるか」


相馬が言った。「言語が完全には通じていない段階で、合意の意思を伝える手段が必要です」


「今日の面会で伝える」藤堂が答えた。「これまでの面会で確認してきた合意の動作と、肯定の音節を使います。片言での確認が成立しています。今日はこちらから積極的に合意の意思を示す」


「誤解が生じる可能性は」


「ゼロではありません。ただし、これまでの面会で合意という概念を共有してきました。向こうも今日の答えを待っています。誤解よりも、伝わる可能性の方が高い」


「誤解が生じた場合の対応は」


「今日の面会の反応を見て判断します。捕虜の頷きが合意の確認として機能しているなら、伝わったことが確認できます。頷かない場合や、予期しない反応が来た場合は、別の手段を試みます」


「別の手段とは」


「より単純な動作と語の組み合わせに戻します。合意の動作だけを出す。肯定の音節だけを出す。段階を下げて確認し直します」


「了解だ。今日の面会で伝えろ」


「急ぐな。だが止まるな」


────


同日 ダーウィン基地 言語解析室 午前9時


報告書が届いていた。


十六夜は読んだ。


「今日、合意する。今日の面会で合意の意思を示せ」


一文を二度読んだ。


これまでの面会は、向こうが何を言っているかを理解するための面会だった。今日は違う。こちらが何を言うかを伝えるための面会だ。


役割が逆になる。


「面白いですね」


誰もいない部屋で言った。


あの朝から今日まで、ずっと受け取る側だった。今日初めて、こちらが伝える側になる。


受け取ることと伝えることは、同じように見えて違う。受け取るとき、相手の意図を読もうとする。伝えるとき、自分の意図が相手に届くかどうかを確認しようとする。どちらも「通じているか」を確認しているが、主体が逆だ。


今日から、その主体が変わる。


「準備します」


今日の面会の方針を考えた。


合意の動作。肯定の音節。艦隊の語。止まるの語。そして昨日確認した既定事実を示す語。これらを組み合わせて、こちらから伝える。


向こうが出してきた順番と同じ順番で、こちらから出す。


「合意する。艦隊が止まることが決まっている」


その内容を、向こうの言語で返す。完全ではない。片言だ。だが、伝わるはずだ。


伝わる、という確信はない。確信がないまま出す。確信がなければ出さない、では何も始まらない。これまでの面会で積み上げてきたものが、今日の片言を支えている。単語一つずつ確認してきた。動作の意味を確認してきた。語根を分析してきた。その全てが今日に向けての準備だった。


十六夜は声に出して練習した。


合意の動作。艦隊の語。止まるの語。昨日の語。


音節を確認した。捕虜が矯正してくれた発音に近づけるよう、AIの解析結果と照合しながら一音一音確かめた。


完全ではない。だが今日できる最善だ。


────


同日 午後 ダーウィン基地 隔離区画 面会室


今日の捕虜は、昨日より落ち着いていた。


待っている、という静けさだ。焦りがない。急いでいない。


昨日の面会で言うべきことを言い終えた。今日はこちらの答えを待っている。その静けさだ。


面会室に入った瞬間から、その変化が分かった。数日前まで張り詰めていた空気がない。急いでいた数日間の緊張がない。昨日の落ち着きがさらに深まっている。


向こうは待ち慣れている、と十六夜は思った。捕まることを計算に入れて来た。長い時間をかけてこちらと通じ合うことも計算に入れていた。今日こちらが答えを返すことも、あるいは計算に入れていたかもしれない。


十六夜が椅子に座ると、捕虜は最初の音を出した。


十六夜は返した。


手順の確認が終わった。


今日は、この後の流れが昨日までと違う。これまでは捕虜が先に動いた。今日はこちらが先に動く。


そのことを、捕虜も知っているかもしれない。これまでの面会で、こちらがどういう役割を担ってきたかを捕虜は理解している。今日、その役割が変わる。捕虜がどう反応するかは、出してみなければ分からない。


それから、十六夜は今日の準備をしてきた内容を、順番に出した。


合意の動作。


捕虜が見た。


こちらから合意の動作が出てきたことに、捕虜は反応した。これまでは捕虜がこの動作を出して、こちらが受け取る形だった。今日は逆だ。捕虜が受け取っている。その立場の逆転を、捕虜は瞬時に理解したように見えた。


両手を胸の前で組み合わせる動作を、十六夜はもう一度出した。


それから、昨日矯正してもらった「艦隊」の語を出した。


「止まる」の語を出した。


そして、昨日捕虜が出した既定事実を示す語と同じ語を、十六夜が出した。


昨日の解析で確認した音節だ。完全に正確ではないかもしれない。だが、できる限り近い音で出した。


捕虜は聞いた。


一拍の間があった。


長い間ではなかった。向こうが理解するのに要した時間は、ほんの一拍だった。あの朝から今日まで積み上げてきたものが、その一拍に全部入っている。


それから捕虜は、頷いた。


「頷きました」記録者が言った。声が少し上ずっていた。


十六夜も動かなかった。頷きが来ると思っていた。来ると思っていても、実際に来ると、少しの間動けなかった。


────


捕虜は頷いた後、自分から動いた。


これまでの面会で確認してきた語を、順番に出し始めた。


帆船。地図。方向。合意。艦隊。止まる。昨日の語。


全部並べた。


その順番を、十六夜は頭の中で追った。帆船で来た。地図の方向を確認した。合意した。艦隊が止まる。それが決まっている。あの朝からの全部が、今日の語の列挙に入っている。


あの朝から今日まで積み上げてきたことが、一つの文として並んだ。


その順番が、一つの文として成立している可能性がある。


それから捕虜は、初めての動作をした。


両手を前に出した。手のひらを上に向けた。受け取る、あるいは差し出す動作だ。これまでの面会で見たことのない動作だった。


「新しい動作です」記録者が言った。


十六夜は動作を見た。


差し出している。何かを渡そうとしている。あるいは、何かをこちらから受け取ろうとしている。


どちらの解釈も取れる。


だが今日の文脈では、向こうが合意を示した後のこの動作は、「次へ」を意味する可能性がある。合意が成立した。だから次に進もう。そういう動作かもしれない。


十六夜は、捕虜と同じ動作をした。


両手を前に出した。手のひらを上に向けた。


捕虜は頷いた。


面会室が静かだった。外の廊下の音が聞こえる。空調の音が聞こえる。だが面会室の中は静かだった。


動作を返して、頷きが来た。


それだけだ。言葉ではない。完全な文ではない。だが、今この瞬間、言葉と動作の往復が成立している。向こうが出した動作をこちらが返した。こちらが返した動作に向こうが頷いた。


繋がっている。


「今日、繋がりました」


十六夜は小声で言った。記録者には聞こえなかったかもしれない。


捕虜は十六夜を見ていた。急いでいない。焦っていない。待っていない。ただ、見ていた。確認が終わった、という目だ。今日言うべきことを言い終えた。こちらも言うべきことを言い終えた。その後の静けさだった。


────


面会後、廊下に出た。


赤城が待っていた。今日の赤城は廊下の壁にもたれて立っていた。いつもと違う立ち方だ。


「伝わったか」


「伝わったと思います。こちらから合意の動作と既定事実の語を出したところ、捕虜が頷きました。それから全ての語を順番に並べて、新しい動作を出しました」


「新しい動作とは」


「両手を前に出して手のひらを上に向ける動作です。受け取る、あるいは差し出す動作に見えました。今日の文脈では、合意が成立したから次に進もう、という意味の可能性があります」


「次に進もう」


「可能性として。解析は今夜行います。ただし」


「ただし」


「今日の面会は、これまでと種類が違いました。これまでは向こうが伝えて、こちらが受け取っていた。今日はこちらが伝えて、向こうが受け取った。その後、向こうが新しい動作を出した。一方通行だったものが、今日双方向になりました」


赤城は少し間を置いた。


廊下が静かだった。面会室の扉が閉まっている。中に捕虜がいる。あの朝から今日まで、捕虜はずっとあの部屋にいた。今日何かが終わった。捕虜にとっても、今日は一区切りだ。


「捕虜の表情は」


「確認が終わった表情でした。急いでいない。焦っていない。言うべきことを言い終えた後の静けさでした。今日で一区切りがついた、という表情です」


「向こうも今日で終わりだと思っている」


「そう見えました。合意が成立した。次の段階に進もうとしている。そのために新しい動作を出した。そう読めます」


「官邸に上げるか」


「上げます。"こちらが合意の動作と既定事実の語を出した。捕虜が頷いた。全語の列挙の後、新しい動作が来た。両手を前に出す動作。次へ進むことを示している可能性がある"。それだけです」


────


同日 官邸地下 夕方


「今日の面会の結果です」


藤堂が報告した。「こちらが合意の意思を動作と語で伝えたところ、捕虜が頷きました。その後、これまでの語を全て列挙し、新しい動作を出しました。両手を前に出して手のひらを上に向ける動作です。次へ進むことを示している可能性があります」


室内が静かだった。


これまでの静かさとは違う静かさだった。これまでは「分からないから」静かだった。今日は「分かったから」静かだった。


あの朝から今日まで、この部屋でどれだけの沈黙があったか。「確認できない」という沈黙。「判断できない」という沈黙。「待つしかない」という沈黙。それらとは違う。今日の沈黙は、来た、という沈黙だ。


「合意が成立した、ということか」黒崎が言った。


「成立した可能性があります。ただし」


「ただし」


「向こうが次へ進もうとしている。その動作が確認された。合意が成立した前提で、次のステップに進もうとしている可能性があります」


「次のステップとは何か」


「まだ分かりません。艦隊が止まること。そして、次の接触の段階に入ること。おそらくその二つですが、具体的な形は今後の面会で確認することになります。ただし」


「ただし」


「今日の新しい動作が「次へ」を意味するとすれば、向こうはすでに次の段階を想定しています。向こうが次を想定しているなら、こちらも想定する必要があります」


黒崎は頷いた。「北西の状況は」


「現在も五割から六割の減速が継続しています。今日の面会の結果が届けば、さらに変化が出る可能性があります。今夜の衛星データを確認します」


「了解だ。監視を続けろ。変化があれば即座に報告しろ」


「もう一点」白瀬が言った。「今日の面会で新しい動作が確認されました。次へ進もうとしている動作です。向こうが次の段階を求めているとすれば、こちらも次の段階の準備を始める必要があります」


「次の段階とは何か」


「艦隊が止まった後の接触です。これまでは捕虜一人との間接的な接触でした。次は、より直接的な接触の段階に入る可能性があります。どういう形になるかは、向こうの動き次第です」


「準備しろ」黒崎は言った。「ただし今夜はまず今日の結果を確認する。次の段階は明日以降だ」


「了解です」


「急ぐな。だが止まるな」


────


同日 深夜 官邸廊下


白瀬はメモ帳を出した。


「合意」


三日続けて同じ言葉を書いた。


「確認できない」「理由がない」「前提」「確認できた」「話す」「地図」「見えた」「聞こえている」「届いた」「同じ問い」「答えの形」「北西」「速度」「取り決め」「艦隊と合意」「最初の言葉」「合意」「速度が止まる」「速度と問い」「合意」「合意」。


三回の「合意」が並んでいる。


最初の「合意」は、成立した可能性があるという合意だった。二回目の「合意」は、向こうがすでに決定済みで待っているという合意だった。三回目の今夜の「合意」は、こちらが答えを返した合意だ。


同じ言葉が、三日で意味を変えてきた。


明日、艦隊が止まるかもしれない。


止まったとして、その後どうなるか。


そこから先は、まだ分からない。艦隊が止まれば、次の段階に入る。次の段階が何かは、今の段階では見えていない。外交の段階に入るのか。直接の接触が始まるのか。どういう形で次が来るのか。


分からないことが、また始まる。


あの朝も、何も分からなかった。今夜も、まだ分からないことが多い。だが今夜の「分からない」は、あの朝の「分からない」とは種類が違う。あの朝の「分からない」は、全部が不明だった。今夜の「分からない」は、次が来るという方向だけは見えている。


廊下の蛍光灯がいつも通りに唸っていた。あの朝からずっと、そうだった。


その音の下で、今夜もどこか北西で、艦隊が動いている。


だが、その速度は少しずつ落ちている。


明日、止まるかもしれない。


それが今夜の、最後の言葉だった。

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