『真実の愛』で婚約破棄されたので、手切れ金代わりに「横領の証拠」を置いていきます
王宮の夜会は、社交の場というよりも、私にとってはただの「予算執行の現場」でしかなかった。
シャンデリアの魔石消費率、給仕の配置コスト、提供される料理の単価。
グラスを傾ける貴族たちの笑顔すら、私、ルティア・ワイズの目には経費の塊に見えてしまう。
「ルティア! ここにいたのか!」
会場のざわめきを切り裂くような大声。
振り返らずとも分かる。私の婚約者であり、王宮騎士団の会計補佐を務めるベイルの声だ。
手元のグラスを給仕に預け、私はゆっくりと振り返った。
「こんばんは、ベイル様。声のボリュームが大きすぎます。周囲の方々が驚かれていますよ」
「うるさい! 貴様のその、人を小馬鹿にしたような態度……もう我慢の限界だ!」
ベイルは顔を赤くして、私の目の前まで大股で歩み寄ってきた。
その腕には、ピンク色のドレスを着た小柄な令嬢がしがみついている。
私の部署の後輩、ミィナだ。
勤務中も「計算って難しくてぇ」と媚びるばかりで、伝票一枚満足に処理できない彼女が、なぜここに?
「ルティア・ワイズ! 貴様との婚約は、今この瞬間をもって破棄する!」
ベイルが高らかに宣言した。
音楽が止まり、周囲の視線が一斉に私たちに突き刺さる。
あぁ、またこれだ。
最近流行りの『真実の愛』とやらだろうか。
私は小さく溜息をつきたいのを堪え、努めて事務的に問い返した。
「……理由は、お伺いしても?」
「理由だと? 決まっている! 貴様には『愛』がないからだ! 常に仕事、仕事、仕事……俺の体調を気遣う言葉ひとつなく、会えば予算の不備ばかり指摘する! その点、ミィナは違う。俺の疲れを癒やし、俺の才能を認めてくれる、真実の女神だ!」
「そうですぅ、ルティア先輩。先輩みたいに冷たい女の人、ベイル様には似合いません。愛し合う二人の邪魔をするのは、野暮ってものですよぉ?」
ミィナが勝ち誇ったように私を見上げ、ベイルの腕に胸を押し付ける。
周囲からは「可哀想に」「地味な女だもんな」「愛想がない」といったひそひそ話が聞こえてくる。
なるほど。
状況は理解した。
私の胸に去来したのは、悲しみでも怒りでもない。
──純粋な、『完了』の感覚だった。
「承知いたしました」
「……は?」
私が即答したことに、ベイルが呆気にとられた顔をする。
私は夜会用のクラッチバッグを開き、丁寧に折りたたまれた書類を取り出した。
「婚約破棄の件、異存ございません。慰謝料も結構です。その代わり」
私はその書類を、ベイルの目の前に掲げた。
「これを、手切れ金代わりに置いていきますね」
「な、なんだそれは」
「貴方が先月、騎士団の備品購入費として申請した稟議書の『原本』です」
「なっ……!?」
ベイルの顔色が一瞬で白紙のように変わった。
私は冷静に、周囲の貴族たちにも聞こえるよう、よく通る声で事実を読み上げる。
「魔剣の手入れ用オイル、五百本。単価は市場価格の三倍。発注先は『ミィナ商会』……そちらのミィナさんのご実家ですね? 納品記録はありますが、倉庫の実地棚卸しでは、在庫が一本も確認できませんでした」
「そ、それは! 使い切ったんだ! 訓練で!」
「五百本を三日で? 騎士団員全員で体に塗ってレスリングでもしない限り不可能です」
「ぶっ」
近くにいた武官の一人が吹き出し、慌てて口を押さえた。
「これは明白な架空発注、つまり公金横領です。ベイル様、貴方は私の指摘を『細かすぎる』と無視なさいましたが、私は貴方の将来を案じて、修正の機会を三度も提供しましたよ? それを全て破り捨てたのは貴方です」
私は淡々と告げた。
愛がない? とんでもない。
私は彼が犯罪者にならないよう、必死で計算を合わせ、裏で奔走していたのだ。それを「小言」と切り捨てたのは彼自身。
「で、でも、ここは夜会だぞ! こんな紙切れ、証拠になるか!」
「ええ、ただの紙切れなら、揉み消せたかもしれませんね。でも、残念です」
私は一歩、彼から距離を取った。
空気が変わる。
夜会場の入り口付近の気温が、氷点下になったかのような錯覚。
黒い軍服に身を包んだ長身の男が、無音の威圧感を纏って歩み寄ってくる。
「その証拠は、私が受理済みだ」
低い、地を這うようなバリトンボイス。
銀色の髪をオールバックにし、氷のような青い瞳をしたその人は、王国の全官僚が恐れる『生ける断頭台』。
監査局長、オルシス公爵その人だった。
「お、オルシス公爵閣下……!?」
「ベイル、貴様には横領および背任の容疑がかかっている。さらに、その横領金を不貞相手への貢物に流用した疑いもな」
オルシス公爵が指を鳴らすと、影のように控えていた監査官たちが現れ、ベイルとミィナをあっという間に拘束した。
「ち、違います! 俺はルティアに嵌められたんだ! この女が勝手に!」
「見苦しい。ルティア嬢が提出した監査資料は完璧だ。貴様の拙い偽装工作など、彼女の計算の前では児戯に等しい」
公爵は冷たく切り捨てると、怯えるミィナには目もくれず、真っ直ぐに私の前まで歩いてきた。
周囲の貴族たちが息を呑む。
あの冷徹な公爵が、一介の財務官である私に何を言うのか。叱責か、それとも尋問か。
公爵は私の目の前で止まり、その整った顔をふっと綻ばせた。
見たこともない、甘く優雅な笑みだった。
「ご苦労だった、ルティア。君の仕事はいつも美しい」
「……恐縮です、閣下。ですが、これは私の私情による告発ですので」
「謙遜するな。君のおかげで、国庫の害虫を駆除できた。……さて」
公爵はいきなり、私の手を取った。
大きくて温かい手が、私の指を包み込む。
「害虫はいなくなった。これで君は自由だ。……私の元へ来る障害はなくなったな?」
「はい……え?」
思考が停止した。
数字の計算なら誰にも負けない自信があるが、今、公爵が口にした言葉の計算式が成り立たない。
「私の執務室に来てくれと言っている。君の淹れる茶と、君の作る書類がないと、私は仕事にならない」
「はあ、それは転属命令ということで……」
「違う。……これからは、公爵夫人として、私の人生の収支決算を管理してほしいと言っているんだ」
会場が、静まり返った。
連行されていくベイルが「はあああ!?」と間の抜けた声を上げる。
「か、閣下? それは、どういう……」
「言葉通りの意味だ。君が婚約者という『不良債権』を処理するのを、私はずっと待っていた」
公爵は私の腰を強引に引き寄せると、耳元で低く囁いた。
「逃げられると思うなよ、ルティア。君が私に提出した膨大な報告書……その行間から滲み出る君の誠実さに、私がどれだけ欲情していたか、教えてやろう」
――計算外だ。
私の人生設計に、この「氷の処刑人」からの溺愛なんて項目は、1ビットも計上されていない。
***
「座りたまえ。紅茶は私が淹れよう」
「……はい?」
連れ込まれたのは、王宮の最奥にある監査局長執務室だった。
普段なら、不正をした官僚が青ざめながら呼び出される『処刑場』だ。
けれど今、この国の法と秩序の番人であるオルシス公爵は、自らティーポットを手に取り、優雅な手つきでカップに琥珀色の液体を注いでいる。
「閣下、お戯れを。お茶汲みは私の仕事です」
「君はもう私の部下でも、あの愚か者の婚約者でもない。私の『客』であり……これからは私の『全て』になる予定の女性だ」
「っ……!」
公爵がカップを差し出すと同時に、私の隣のソファへ当然のように腰を下ろした。
距離が近い。
夜会服の生地が触れ合う距離だ。冷徹な鉄仮面の下から、男性用香水の香りと、熱を帯びた視線が漂ってくる。
「さて、ルティア。単刀直入に言おう。私はずっと前から君を欲していた」
「……私の実務能力を、でしょうか?」
「君という人間そのものを、だ」
公爵はテーブルの上の書類タワーを指差した。
それは、過去三年間分の騎士団会計の写しだった。
「君がベイルの尻拭いをしていたことは、全て知っていた。計算間違いの訂正、申請書の書き直し、彼が忘れた会議への代理出席……。君は自分の名前を出さず、全て『ベイルの功績』として処理していたな」
「それは……婚約者としての義務でしたので」
「義務でここまで出来るものか。君が徹夜で仕上げた書類の筆跡が、深夜になるにつれて少しずつ乱れていくのを見るたび、私は彼を八つ裂きにしたい衝動と戦っていた」
公爵の声が低く震えた。
その瞳には、昏い独占欲が渦巻いている。
「君の献身は美しい。だが、捧げる相手を間違えている。……その有能さと誠実さを、私に向けろ」
公爵の大きな手が、私の頬を包み込んだ。
逃げようとする私の顎を優しく持ち上げる。
「私なら、君を徹夜などさせない。君の仕事を正当に評価し、君が望むなら宝石よりも価値のある『完璧な決算書』を与えよう」
「……っ、なんですか、その口説き文句は」
「君にはこれが一番効くと分析した結果だが?」
くすり、と公爵が喉を鳴らして笑う。
その無邪気な笑顔を見た瞬間、私の胸の奥で、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
三年間。
どれだけ尽くしても「可愛げがない」「細かい」と疎まれ、それでも彼のためになればと数字を積み重ねてきた日々。
それを、この人はずっと見ていてくれた。
評価してくれていた。
「……私の計算、間違っていたみたいです」
視界が滲む。
涙など流すまいと決めていたのに、一度溢れると止まらなかった。
「ベイル様への投資は……全部、損切りすべき案件でした」
「ああ。だが回収は私が請け負おう。元本保証に、慰謝料という莫大な利子をつけてな」
公爵は私を抱き寄せると、涙を指で拭い、そのまま躊躇いなく唇を重ねた。
冷たいと思っていたその唇は、火傷しそうなほど熱かった。
***
翌日。
王宮の査問会は、異例の速さで開かれた。
被告席には、やつれ果てたベイルと、化粧の落ちたミィナが座らされている。
「お、俺は知りません! 全部ルティアが勝手にやったことで……!」
「そうですぅ! 私、ただベイル様に頼まれてサインしただけでぇ!」
二人は口々に責任を私になすりつけようと叫んでいた。
監査官として同席した私は、無表情に手元の資料をめくる。
「往生際が悪いですね」
私が口を開くと、隣に座るオルシス公爵(私の腰に手を回している)が、冷ややかな視線を彼らに向けた。
「ベイル。君の実家である男爵家から嘆願書が届いているぞ。『息子の不始末により家が取り潰しになるのは耐え難い。勘当するので厳罰に処してほしい』とな」
「なっ、父上が!?」
「当然だろう。ルティア嬢は、昨夜のうちに全ての証拠書類の写しを、君の実家とミィナ商会の双方へ『内容証明郵便』で送付済みだ」
そう、これが私の用意した『逃げ道封鎖』だ。
夜会の断罪劇が感情論で揉み消されないよう、彼らの後ろ盾である実家へ、物理的な証拠を送りつけておいたのだ。
身内から切り捨てられれば、彼らはただの犯罪者でしかない。
「ま、待って、ルティア! 俺が悪かった! 愛していたのはお前だけだ! あの時は魔が差して……!」
ベイルが必死の形相で私にすがりつこうとする。
かつては愛した人の、あまりに無様な姿。
けれど私の心は、驚くほど凪いでいた。
「ベイル様。貴方の言う『愛』の定義が不明確ですので、却下します」
「そ、そんな……」
「それに、今の私は公爵閣下の『専属監査対象』ですので。他の方からの愛の申請は、全て受け取り拒否となっております」
私が事務的に告げると、公爵が満足げに頷いた。
「判決を言い渡す。被告人ベイル、およびミィナ。両名は横領および公文書偽造の罪により、爵位剥奪および全財産没収。さらに──」
公爵は、最も残酷で、最も合理的な罰を告げた。
「北方の魔石鉱山にて、懲役二十年。なお、横領額の全額返済が終わるまで、労賃は全て天引きとする」
「こ、鉱山!? あそこは一度入ったら出られないという……!」
「嫌ぁぁ! 私の肌が荒れちゃうぅぅ!」
絶叫する二人を、衛兵が無慈悲に引きずっていく。
北方の鉱山は、過酷な肉体労働だけでなく、厳密なノルマ管理で知られる場所だ。
数字を軽んじ、楽をして生きてきた彼らには、数字に追われ続ける日々こそが相応しい罰だろう。
扉が閉まり、静寂が戻った法廷で、公爵が私の耳元で囁いた。
「……さて。邪魔者はいなくなった。今夜は私の屋敷で、私的な『監査』の続きといこうか」
「閣下、仕事中ですよ」
「構わん。我慢の限界だ」
呆れる私の首筋に、公爵が所有印をつけるようなキスを落とした。
***
それから数ヶ月。
王都の社交界では、ある噂でもちきりになっていた。
『氷の処刑人』オルシス公爵が、溺愛する妻の前でだけは『熱烈な愛妻家』に溶けてしまう、という噂だ。
「ルティア、今日のドレスも素敵だ。計算され尽くしたラインが君の知的な美しさを引き立てている」
「……旦那様。褒め言葉のレパートリーが独特すぎます」
夜会のバルコニー。
公爵夫人となった私は、夫の腕の中で苦笑していた。
かつては「地味」「可愛げがない」と言われた私が、今では「知的な麗人」と持て囃されているのだから、世間の評価など当てにならない。
確かなのは、隣にいるこの人の体温だけだ。
「幸せか、ルティア?」
「ええ。……予算オーバーなほどに」
私が答えると、彼は嬉しそうに目を細め、私の左手の薬指に口づけをした。
そこには、彼が「君の瞳の色と同じだ」と言って選んだ、最高級のサファイアが輝いている。
私の人生の収支決算は、どうやら大幅な黒字で確定したようだ。
これからはこの愛しい人と共に、幸せな日々を積み上げていこう。
──たとえ彼が、執務室で二人の時間を確保するために、とんでもない速さで仕事を終わらせて迫ってくるのが、少しだけ計算外だったとしても。
最後までお読みいただきありがとうございました!
ルティアの冷静なざまぁと、公爵様の重すぎる溺愛を楽しんでいただけたなら幸いです。
「スカッとした!」「公爵様の溺愛よかった!」と思っていただけたら、
下の【★★★★★】マークから評価を入れて応援していただけると、大変励みになります!
(感想もお待ちしております!)




