7.預かった名前
黒い巨影が、夜空の向こうでうごめいていた。
息を吸うたび、空気が重く感じる。
「でっっっ……かぁ……」
山が動いている、みたいだった。
翼が広がるだけでだけで雨が霧になり、翼が空を裂いた。
――こんなときに、『竜狩り』なんて便利なスキルを持っていたらなぁ。なんてことを無想してしまう。
私なんて、あれの指先ほどの大きさもない。
逃げ続けてきた足だけが、今もかろうじて私を支えている。
「はぁ……あんなの、勝てるわけないって……」
――でも、今回は陽動するだけだから!
頬を叩いて気合いを入れる。
「こっちだよー!」
ランタンを振り回しながら、稜線の尾根を横切るように疾走する。
空路を点々と編んで、そこを駆ける。
竜がこっちに気づいた。
黒竜の瞳に火が灯る。
ぐわ、と空気が裂け、咆哮が夜を貫いた。
その瞬間、胸が震えた。――来る。
「っわあああ!?」
巨体が弾丸のように迫る。
あれだけでかいのに、一瞬で距離を詰めてくる。質量、反則では!?
後ろから噛みつかれる寸前で、空路を踏み抜く。
身体を回転させ、直角加速で離脱。
竜の爪が空気を切り裂き、風が爆ぜた。
「ふーっ、い、いまの絶対死んだと思ったぁ……!」
息をつきながらも、頭は冷静だ。
風の流れを読み、雨の粒の動きで竜の軌道を推測する。
空の天井を蹴り、次は背後。反転して右。
急停止からの直角加速で軌道を乱し。正面、右、反転、落下、再上昇――まるで星を織るかのように、空を駆け抜けた。
「楽しくなってきたかも!」
普段、こんな真似できない。
でも今は、私一人。
一人なら、背負うものがないのでこういう動きも存分にできちゃいます!
竜の目がぎょろりと動く。
胸が膨らんだのを見た瞬間、脳が叫ぶ。
(来る――ブレス!)
反射的に空路を踏み外す。
直後、背後で爆音。熱が背を舐め、雨が一瞬で蒸発した。
光と炎が夜を裂く。
「よかった~……炎の竜で」
雷だったら感電して終わってたかも。
ブレスを回避。そしてまた回避。
攻撃の隙間に魔法ランタンを崖際へ投げつける。
ガシャァン、と破裂音。
転がった火が岩肌を照らし、竜の注意が一瞬逸れる。
その隙に空路を高く編んで上昇。
竜の背を見下ろす位置に回る。
谷風を利用して、さらに遠くの岩へ石を蹴り飛ばす。
――カンッ!
反響音が響いた。竜の頭が、そちらを向く。
巨大な影が再び旋回し、探るように鼻先を揺らす。
「そうそう、そっちそっち……」
雨脚がさらに強くなる。翼が軋む音。
黒い影が一度上昇し、輪を描いて旋回する。
そして、竜と目が逢った。
まるでこちらを伺うかのようなその視線。
なんか、凄いのが来そう!――そう思い、
思わず身構えたが、少しばかりの静寂の後に竜は尾を翻し、山の背を越えて去っていった。
「……あ、あれ、帰った……?」
気が抜けて、肩の力が抜けた。
全身びしょ濡れ。息が白い。
でも、胸の奥だけがまだ熱かった。
「ふぅ……勝ち逃げ、成功ってことでいいよね?」
勝手に去ってくれたのは良かったんだけど、なんだろう。
投げたランタンや蹴り出した岩にまで反応していたことから、明らかに何かを探していた。……もしくは私を捉えられないことにイラついて退散したのかな。
まぁ、何はともあれ勝利ということで!
星を蹴るたび、水が飛び散る。
空路を編んで大ジャンプ。
そのまま廃小屋の屋根に着地し、転がるように滑り込んだ。
「やりましたー……びしょ濡れです~……」
言い終えるより早く、彼女が駆け寄ってきて――
「ヴッ」
勢いのままに抱きしめられた。
毛布の匂いと、雨の匂いが混じる。
その腕は驚くほど強くて、でも震えていた。
「ちょ、ちょっと! 濡れますって!」
「……」
何も言わないけれど。ただ、震えていた。
心臓の鼓動が、布越しに伝わる。
言葉の代わりに、その温度だけがまっすぐ届いた。
「陽動……たぶん成功です。雨のおかげで、なんとかなりました……」
そこまで言って、胃の奥がぎゅっとねじれる。
やばいかも――
「ぅお”ぇ!!!!」
「ちょっ――!?」
盛大に吐いて、その場に崩れ落ちた。
視界がぐるぐる回って真っ白で、ほんとに何も考えられない……
「だ、大丈夫!? どこか怪我でも――」
「すみません、私、実は……おぇ、酔いに弱くて……。無茶に動くと、三半規管が……おえぇ……」
「……ほんとに、変わってる」
呆れたように言いながらも、彼女は黙って毛布を掛けてくれた。
濡れた服の上からでも、あたたかさが染みてくる。
おかげで、ちょっとだけ落ち着いてきた。
気づいたら、膝枕されていた。
目の前で炎が揺れ、彼女の金の髪がほのかに光る。
「さっきの動き……人間のものじゃなかったわ。あんな加速に急停止……。重力なんて関係ないみたいにどこでも張り付いて。“飛脚”って、ああいうこともできるのね」
「はい……。逃げるのだけは得意なので……」
へにゃっと笑う。
次の攻撃がどのあたりに来そうか、とか、そういうのが直感的に理解るんだ。自分でも不思議なことだけど、たぶん……この臆病な性格のせいだと思う。
「……それに、守る人がいると、けっこう頑張れますし」
彼女が、わずかに目を伏せた。
火の光が頬を撫で、影がゆらめく。
その横顔は、痛いほど綺麗で、少しだけ寂しそうだった。
火がぱちりと弾け、外の雨音が遠のく。
「……リシェル」
「え?」
「名前! ……私の」
私は毛布の中で、息を吐いた。
胸のざわめきが、別の音に変わる。
呼吸が、少し軽くなった気がした。
「リシェル、さん」
そう呟いて私が笑みを向けると、彼女はただ照れくさそうに顔を逸らした。
最後まで読んで下さり、ありがとうございます!
『おもしろかった!』、『続きが気になる!』と思った方はブックマーク登録や、↓の『☆☆☆☆☆』を『★★★★★』に評価して頂けると今後の執筆の励みになります。




