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10.紅い終景

 黒竜の咆哮が、空そのものを震わせた。

 大気が裂ける。鼓膜が焼けるような轟音。


「――行きます!」


 背中の温もりを確かめ、私はリシェルさんを強く抱えたまま急上昇。

 腕に力を込め、思いきり――空へ放り上げる。

 

 金の髪が風に散り、彼女が私を見下ろした。

 その瞳は――覚悟に染まっていた。

 

 リシェルさん——必ず届けて見せますからね!


 黒竜の瞳が、ぎらりと光った。

 狙うのは――やっぱり、私。

 この手に握られた、ヴァレオラの宝剣。


「こっちだよ!」

 

 叫び、星路を蹴る。

 身体は軽い。限界突破で壊れそうなくらい軽い。

 視界一面に星路を散らし、全速力で急降下。


 今は私の身体一つ。自分でも恐ろしいくらいに身体が軽い。だからこそ――限界まで、飛べる。さっきの要領で視界一杯に空路を散らばらせてからの……全力アクロバット回避!

 

 黒竜が吼えた。

 尾が空を裂き、牙が風を噛み、灼熱の吐息が背を焼く。

 それでも足は止まらない。空路を渡り、宙を駆ける。

 急旋回、急降下、急上昇。視界が何度も反転する。


「捕まるもんか……!」


 身体を焼く炎も、皮膚を裂く風刃も、全部、紙一重でかわす。

 息が切れる。肺が痛い。けど、まだ走れる。

 竜がブレスのために大きく息を吸った――!


「来る……!」


 空気が震える。

 熱が一点に凝縮され、世界が赤に染まる。


 その瞬間、私は宝剣を高く振りかぶり、空へと放り投げた。


「リシェルさんっ!!」

 

 光の尾を引いて、剣は空へ――リシェルさんの方へ。


 炎の奔流が世界を薙ぐ。

 灼熱の渦の上で、落下するリシェルさんの瞳が光を捕らえた。

 その瞬間、宝剣が吸い込まれるように彼女の手へ。


 パシンッ――と、音がした。気がした。


 光が弾けた。

 次の瞬間、彼女の身体が弧を描いて竜の背後へと舞う。

 燃える風の中で、彼女の金髪が星光を浴びてきらめいた。


「よくも……!」


 宝剣が閃き、瘴気の滲む背鱗の裂け目へ――

 ズブリ、と音を立てて突き刺さった。


 黒い霧が爆ぜ、竜の咆哮が天を裂く。


「グオオオオオオオオ!!」


 空が震え、風が悲鳴を上げた。


 二撃目。

 リシェルさんの叫びが、轟音の中でもはっきりと届いた。


「――くたばれぇぇぇぇっ!!」


 宝剣が深く沈み、竜の体が硬直する。

 どす黒い瘴気が背中から噴き出し、空を黒く染めた。

 それはまるで、竜そのものが苦しみながら“浄化”されていくようだった。

 

 リシェルさんの身体がその衝撃で弾き飛ばされる。

 空の中で、彼女の金の髪が一瞬だけ光を散らす。


「危ないっ!」


 咄嗟に空路を連打し、星を踏み、光を滑る。

 落ちていくリシェルさんの身体を、地面に触れる寸前で抱きとめた。

 勢いで地面に転がり、背中に冷たいコンクリートの感触が走る。


 ――気づけば、そこはヴァレオラ王国だった。

 

 朽ちた尖塔、崩れた城壁、ひび割れた街路。

 灰色の王国の真上で、竜と私たちは戦っていたのだ。


 黒竜が最後の一声を上げ、静止する。

 翼が痙攣し、瘴気が霧散していく。

 それは、長い呪いがようやく解けたかのようだった。


 そして――

 巨体がゆっくりと傾き、光の中を墜ちていく。


「……っ」


 自然と息を呑んだ。

 竜は崩壊した王都の中心にある噴水広場へと墜ちた。

 轟音と共に水飛沫が舞い上がり、陽光を浴びて虹がかかる。

 静寂のあと、ただ水の音だけが響いていた。


「……やった、の……?」


 リシェルさんの声は、震えていた。

 肩で息をしながら、彼女の瞳がわずかに笑う。

 それがあまりに人間らしくて。


「はい。……私たちの勝ち、です」


 焦げた風が頬を撫で、遠くの塔の影が長く伸びていく。

 互いの鼓動が、やけに近くに聞こえた。


 私は小さく息を吐き、微笑んだ。


「……届けましたよ。あなたを」


 リシェルさんはしばらく目を見開いたまま、そして――小さく頷いた。

 光の粒が彼女の頬を照らし、涙が一筋こぼれる。


 空が、ゆっくりと赤く染まっていく。

 戦いの終わりを告げるように。

 ――まるで、滅びゆく王国が最後の夕焼けで祈っているみたいに。


「本当に……綺麗な景色」


 リシェルさんが空を眺めて、そう呟いた。


 

 ♢ ♢



「おえ!! うっ……ぉええええ!!!」


「ちょっと……大丈夫?(笑)」


「な、なんで笑ってるんですか……ぉぇ! こ、こんなに苦しんでるのに、ひどいです……!」


 案の定というか、いつも通りというか。

 安心した途端、私の三半規管はぐっちゃぐちゃに悲鳴を上げて、私はこの通りゲロまみれ。さっきまでの勇気とかっこよさ、全部リセット。

 英雄とは程遠い、飛脚の末路である。


「ふふ……あなたって、ほんと、変わってる」

 

 リシェルさんが少しだけ笑った。

 その笑顔が戻ってきただけで、少し報われた気がした。


 だが――

 空気が、再び変わった。

 

 水面が、ひとりでに揺れる。

 崩れた噴水の中心――沈んだはずの黒竜の影が、かすかに蠢いた。


「……噓でしょ」


 リシェルさんが宝剣を握り直す。

 立ち上がろうとするが、胃が逆流して身体がいうことを聞かない。

 ――まずいかも。このままじゃ……。

 

 濁流の底から、瞼がゆっくり――開く。


 そこにあったのは、さっきまでの血のような赤ではない。

 夜明け前の空を思わせる、深い蒼。


 ……よ、よみがえった……!

 

 声にならなかった。


 竜は怒りも狂気も見せず、ただじっとこちらを見つめる。

 まるで“何かを確かめるように”覗き込んだ。


 体温が奪われるような感覚。

 それが恐怖か、理解できない何かへの戦慄なのか、自分でも分からない。

 

 ――ゆらり、と。


 濡れた翼が広がり、水飛沫が散った。

 低く吐いた吐息は炎ではなく、風だった。

 優しい、まるで祈りのような風。


 リシェルさんが息を呑む。

 

 黒竜は何も言わず、金色の陽を浴びながら空を仰ぐ。

 砕けた噴水の水がきらめき、光の粒が舞う。


 そして――

 ゆっくりと翼をはためかせ、滅びの王国を背に、赤く染まる空へと飛び立っていった。


 音も、風も、すべてが消える。

 残ったのは、崩れた石畳と、夕陽を映す水面だけ。


「……今の、竜……」


「たぶん、正気に戻ったんですよ。あの瘴気が……消えたから。瘴気だけに……おぇ……」


 リシェルさんは呆れたように笑いかけたが、その瞳はわずかに震えていた。

 怒りでも、悲しみでもない――救われた誰かを見送るような震え。


「……きっと、また会えますよ」


「……え?」


「なんとなく、そんな気がするんです。だって、あんな目……“敵の目”じゃありませんでした」


 ……それにしても、あの瘴気。

 どこかで見たことがある。

 けれど、思い出せない。


 頭の奥がじんわり痛む。

 まだ空は赤い。

 私は小さく息を吐き、目を閉じた。


 ――今は、ただ休もう。

最後まで読んで下さり、ありがとうございます!

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