第1章 別れと猫の旅立ち
私に不思議な能力が備わったのは、悲しい出来事からだった。
あれは雨の降る、寒い冬の日、しばらく前から体調の悪そうな飼い猫 宇宙がふらふらとリビングにやってきて、わたしの膝に転がり込むように寝ころんだ。
「今日は寒いね。ソラ」
声をかけながらストーブの前で撫でていると、ソラは大きな瞳でジィっと私を見つめて小さな声でニャーと鳴いた。まるで、自分に話しかけてきているようにニャアニャアと何度も私も見ながら鳴いていた。
ソラと暮らし始めてからもうかれこれ十数年が経ち、父母は年を取り、弟は家を出て、私はすっかり大人になっていた。
ソラは茶色い毛がフサフサした大きなオス猫。首の周りに立派な鬣があって、大きな耳はピンと立ち、黄色く澄んだ瞳をしていた。
彼は警戒心が強くて、母と私以外の人には決して触れさせず、家に家族以外の客人が来ると押し入れやクローゼットに隠れてどこにいるかわからなくなり、客が帰ってしばらくするまでは出てくることは無いくらいに臆病者だった。
普段、ソラはいつも遠くから大きな黄色い瞳でみんなを見守るように部屋の隅やキャットタワーの最上段、階段上から見下ろせる場所や階段下から見上げる場所に陣取っては家族を監視しているようにいつも見渡していた。
今、思えば、ソラは弟にだけは心許していたような気がする。ソラは時折、弟を呼んできては床に寝転がって撫でる事を強要していた。まるで兄弟のようにじゃれあう一人と一匹は微笑ましい風景だったと思う。
そう考えると、ソラが家族で心を許していないのは父だけだ。いつも家にいないのだから、客人扱いされてもしかたがないと言えば、仕方がないのかもしれない。
弟が家を出てからソラは私と過ごす時間が増え、今朝みたいに膝の上でくつろぐことも多くなってきたけれど、この朝は少し様子が違っていた。ソラは何か私に伝えたいように大きな瞳で私をじっと見てた。
しばらくすると膝の上から立ち上がり、よろよろと歩いて去っていった。
昼過ぎに母がソラを探しながらリビングにやって来た。
「ねぇ、ソラ君知らない?いないのよ。どこいったのかしら。ソラ~、ソラ~。」
「今朝はここで私といたけど、それから見てないよ。また、どこかに隠れて寝てるんじゃない。」
母と私はソラの名前を呼びながら家の中を探した。
それからソラはいなくなってしまった。どこを探しても見つからず、家の中も、外にも近所も。
母が心配をして、外を探し回り、保健所にまで問合せをしていた。
ソラはその日を境に私たちの前から姿を消してしまった。
猫は死期を悟ると飼い主の前から姿を消すと言うし、長生きをすると妖怪になるという伝説もあるし、ソラはもう高齢で歩く姿も弱弱しくなっていた。
もしかすると、ソラは死期を感じて、私たちの前から姿を消したのかもしれない。それとも、妖怪になって、私たちとは違う世界に行ってしまったのかもしれない。
ソラがいなくなった事は寂しかったけれど、悲しくはなかった。なぜかまたどこかで会える気がしているから。
そんな事を思いながら、夜、自分の部屋の窓から月を見ていた。
満月のまるい月は、まるでソラの大きな瞳のように黄色く、美しく、明るく輝いていた。