蛇口
「なあ、最近、水の色……変じゃないか?」
同棲中の彼氏・悠馬が言い出したのは、8月の蒸し暑い夜だった。
そのとき私は、洗い物をしながらうなずいた。
「うん、なんかさ、ちょっと濁ってる気がする。茶色っぽいっていうか」
引っ越してきてまだ一ヶ月も経っていない築年数不明の賃貸マンション。外観はリフォームされていたが、水回りは古さが隠せなかった。最初は「サビかもね」と軽く流していたが、異常は確実に進行していた。
蛇口をひねると、最初に出てくる水が“赤い”。
茶色じゃない。赤。透明感のない、濁った赤。
「サビじゃねぇだろ、これ」
悠馬が言ったとき、私もついに認めた。これは、ただの水ではない。
数日後、さらに変化が現れた。
水から“臭い”がしたのだ。
鉄さびのような、でもどこか甘ったるい臭い。生ぬるくて、息を止めたくなるような、生臭さ。
私は思わず口を覆った。
「悠馬、これ……ほんとに飲んだの?」
「最初はな。今はミネラルウォーター買ってる。料理にも使ってねぇ」
「水道局に電話した?」
「した。異常は確認されてないってさ。調査に来る気もねぇらしい」
悠馬はそう言ってタバコを吸った。苛立ちが隠せない様子だった。
「じゃあ、もう引っ越そ?」
「契約、まだ解除できないよ。保証金も飛ぶ。てか、俺は大丈夫。問題ないって」
そう言った悠馬の顔色は、どこか悪かった。
その夜、私は台所で奇妙な音を聞いた。
キッチンのシンクから、**“ぴちょん……ぴちょん……”**と水が落ちる音。それに混じって、“くくく”という、笑うような声。
私は目をこすり、耳を澄ませた。
音はやんだ。
だが、翌朝。蛇口から出た水は、真っ黒だった。
ドロリと濁って、とても「水」とは呼べない。血のように暗く、濁った泥水。しかも、ぬるい。腐ったような臭いが立ちこめ、吐き気を催した。
「悠馬!! ねぇこれ、やばいって! 絶対……」
私が叫ぶと、彼が風呂場から顔を出した。
だが、その顔が変だった。
肌が青白く、唇が紫色に近い。目の下にクマができ、体がふらついている。
「……なんだよ。水が出たんだろ?」
「こんなの水じゃない!! 悠馬、あんた昨日もこれ飲んだの!?」
「……慣れた」
その一言に、背筋が凍った。
その日から、悠馬は口数が減った。仕事にも行かず、一日中ぼんやりと蛇口を眺めている。水はますます赤黒くなり、臭いは部屋全体に染みついた。
私は限界だった。
「もう出ていく。ここ、おかしい」
荷物をまとめ、出ていこうとしたとき、悠馬がふらりと立ち上がった。
「……ダメだよ」
「は?」
「まだ……返してもらってない」
そのとき、私は悟った。
この水、ただの汚染水なんかじゃない。
誰かの体液だ。
もしくは、**命の“残りかす”**のようなもの。
そう考えた瞬間、蛇口が勝手にひねられた。
赤黒い水が勢いよく流れ出す。そして、その中に“何か”が混じっていた。
指。
白くふやけた、人間の指。爪が割れ、肉が膨張していた。
私が悲鳴を上げたとき、悠馬は笑っていた。
「やっと返してくれた。やっと、出てこられる……」
その顔は、悠馬ではなかった。
顔の形は同じなのに、目の奥に何もなかった。ただ空っぽの、深い黒。口元からは赤黒い液体が垂れ、蛇口の水と同じ色をしていた。
私は逃げた。
荷物も財布も持たず、裸足で外に飛び出した。
後ろで、キッチンから水の音が止まらなかった。
じゃば……じゃば……
ぴちょん……ぴちょん……
その音に混じって、「誰か」が笑っていた。
⸻
数日後
警察が立ち入ったとき、部屋は完全に水浸しになっていた。
キッチンの蛇口からは、赤黒い水が止まらずに流れていた。
部屋の中央に立ち尽くしていた悠馬の遺体は、もう原形を留めていなかった。
そして彼の手には、蛇口から出てきた見知らぬ女性の指輪が握られていた。