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タイム・カプセル

作者: 増瀬 司

 秋野純一が、妻の恵子を亡くしたのは、彼が27歳のときだった。


 秋野と恵子は、幼なじみだった。


 お互いに好きだと言葉にはしなかったものの、二人のあいだには恋心が存在するのだと秋野にはわかっていた。


 それは、静かに寄り添うような恋だった。燃えるような、激しいそれではなく。


 小中高と、二人は同じ学校に通った。


 秋野は、東京の大学へと進学し、一方、恵子のほうも、東京の、別の大学へと進んだ。


 東京でも、二人はしばしば会っていた。


 秋野は大学卒業後、一般企業へと入社し、少しして、恵子と結婚した。


 結婚後しばらくして、恵子はたびたび発熱や貧血を繰り返して、倒れるようになった。


 病院で検査した結果、白血病だと彼女は診断を下された。


 夜、恵子からそのことを聞いた秋野の目の前は真っ暗になった。


 ♪


 恵子の葬儀が終わったあと、秋野は抜け殻のようになった。


 まるで、死んだかのように生きていた。


 それでも、彼の仕事の成績は落ちなかった。


 彼にとって、仕事は救いだったのだ。それに集中しているあいだ、失われた妻のことを忘れていられたからだ。


 深夜に帰宅すると、酒を飲み、気絶するかのように眠った。


 休日は誰とも会わずに、ただただ眠った。眠れない日は酒を飲んだ。睡眠もアルコールも彼にとっては救いだった。余計なことを考えずに済んだからだ。


 自分はいつかアルコール中毒になるのではないかと不安になった。あるいは既にそうなっているのかもしれない……


 実家の母親や、恵子の両親からも、新しい人を見つけるようにと云われたが、秋野にはどうしてもそうする気にはなれなかった。


 失って初めて気がついたのだった。自分にとって妻の存在がここまで大きな存在だったということに。


 彼女は、常に彼の傍にいたのだ。これまでの彼の人生の、ほとんどの時間を――


 どこか、ありがちなシナリオをなぞっているかのようにも思えた。しかし、その感情は本物なのだから仕方がなかった。それが事実なのだからどうしようもなかった。


 ♪


 お盆が、間近に迫っていた。


 秋野は、実家に帰省するつもりだった。恵子の墓も、地元の町にあったからだ。


 その日も最終近くの電車に揺られて帰宅した。


 自宅の最寄り駅から出て、人気のない夜道を歩いていたとき、不意に、病院のベッドにいたときの恵子の姿が頭をよぎった。


 「タイム・カプセル」と彼女がふと呟いた。


 「えっ?」と秋野は顔を上げた。


 そこは、病室の個室だった。


 恵子は、上半身を起こして、窓の外へと目を向けていた。


 窓の外は、夕焼けで茜色に染まっていた。外から入ってくる西日が、彼女の姿をシルエットのようにしていた。


 長い黒髪が、後ろで束ねられていた。


 入院して間もなくで、まだ抗がん剤治療は行われていなかったが、彼女は以前と比べて、だいぶ痩せ細ってしまっていた。


 「埋めたよね」と彼女は云った。


 「ああ……」と秋野は答えた。「確か、小学校の六年のときだった」


 それを二人で埋めたのだ。二人の家の近所にある、神社の大木の下に――


 本当は、その八年後の二十歳になったときに、それを掘り戻す予定だったのだが、行こう行こうと云っているうちに、結局今日までそれを実行できずにいたのだ。単に忘れてしまったり、用事が入ってしまったりして――


 「取りにいってよ」


 「えっ?」と彼は云った。


 「わたしが死んだあとで」


 「そんなことを云うなよ」秋野が眉を寄せた。


 「あの頃は、いつか大人になるだなんて、思ってもみなかった」彼女はまだ窓の外を見ていた。「八年先なんて、まるで永遠のように感じられた」


 彼は黙っていた。


 「取りにいってね」と彼女は云った。「約束だからね――」


 ♪


 お盆に入り、秋野は新幹線で、地元の町へと向かった。


 鈍行列車に乗り換えて、その町へと着いたのは昼過ぎだった。


 駅前は開発が進み、小綺麗になってはいたが、少し歩けば、昔と変わらない風景がそこには広がっていた。


 見渡す限り、畑と荒地だらけだった。小さな用水路には水が流れていて、太陽の光を受けてキラキラと輝いていた。その底では、魚が泳いでいた。


 遠くのほうでは、民家がポツリポツリと点在していて、それらは霞んで見えた。


 都会と比べて、時間の流れがゆったりとしていた。「重力」が弱かった。何かから解き放たれた思いがした。ああ、これが本来の俺だったんだ、とまた再認識する。


 俺はすでに恩寵のなかにいたんだな、と秋野は小道を歩きながら思った。


 それを知るために、俺は都会へ出たのかもしれない。恩寵のなかにずっといては、それが恩寵なのだと気づくことはできないのだ。


 あるいは、恵子がいなくなったのも――と秋野は思った。


 しかし、頭では理解ができても、心がそれには追いつかなかった。彼女がいなくなってから、あまりに間がなかったのだ。


 まだ、彼女が思い出になるには、あまりにも早すぎたのだ。


 ♪


 実家で、両親と食事を取ったあと、彼は二階の自室で眠った。母親が事前に干してくれたのか、フトンからは太陽の匂いがした。


 翌日は、両親とともに、親類の墓参りをした。翌々日は、彼は恵子の両親のもとへ挨拶に出かけ、その足で彼女の墓へと向かった。


 「恵子のことは、忘れてもいいのよ」と彼女の母親はそう云った。


 恵子の家で、食卓を挟んで、彼女の母親と少し話したのだった。


 掃除の行き届いた広い居間の片隅には、仏壇が置かれている。


 そこには、恵子の遺影があった。


 彼女は、淡く微笑んでいた。


 「純一くんはまだ若いんだし……」と彼女の母はそう続けた。


 秋野は曖昧に微笑み、取り繕うかのように、温かい日本茶を飲んだ。


 恵子の墓参りの帰り、彼は自宅へと続く道を歩いていた。


 いつか、彼女を忘れる日が来るのだろうか……と秋野は思った。


 たとえば、五年後や十年後、俺は恵子のことを考えなくなっているのだろうか? それから、誰か他の女を愛しているのだろうか……


 未来のことはわからなかった。しかし、そのことに現実味は感じられなかった。


 だけど、と秋野は思った。このままでは俺は……


 ♪


 翌日の早朝。彼は自宅からスコップを持って、外へと出かけた。


 それから、近くの神社の境内へと入っていった。


 あの大木は、まだそこにあった。ここの御神木なのだろう。


 秋野はスコップで、その根元近くを掘り返した。


 何かバチが当たりそうな気もしたが、構わずに掘り進めた。子どもの頃は、ある意味で怖いもの知らずだった。


 五分もしないうちに、スコップの先端が何か硬いものにぶつかった。


 さらに掘り進めていくうちに、土塗れになった、錆びたスチール缶が露わになってきた。確か、自分の家から持ってきた煎餅の缶だった……


 そこからスチール缶を取り出した。


 そして、自宅から持ってきた手拭いで、軽く表面を拭いてから、蓋を開けた――


 なかには、玩具やカード、人形なのが入っていた。おはじきやビー玉などもあった。


 秋野はその場にしゃがみ込み、中身を一つひとつ取り出していった。


 プレミアものだろうか……とカードのうちの一枚を手に取りながら思った。それは、スナック菓子のオマケについてきたカードだった。


 底のほうに、ビニール袋に包まれた何かがあった。


 そのビニールを取り払うと、一枚の封筒が出てきた。元は白い封筒だったのが、黄色く変色していた。


 その表面に、秋野の名が黒いサイン・ペンで書かれていた。彼女の字だった。癖のある、あの角張った字――


 恵子は、八年後の秋野に宛てて手紙を書いたのだった。


 あいつ、こんなものを入れていたのかと秋野はそれを手に取った。あのときには、どうしてだか気づきもしなかった……


 封筒の中身を、秋野は取り出した。


 それから、やはり黄色くなった、その便箋を読んだ――


 ♪


 その後しばらくして、恵子が彼の夢のなかに現れた。


 まだ病気になる前の姿だった。きっと、その姿で現れたかったのだろう。


 そこは、二人がよく行っていた喫茶店だった。裏路地にある店で、カフェ・オ・レが美味しく、静かで居心地が良かった。


 「あの手紙を、俺に読ませたかったんだろう?」と秋野は訊ねた。


 彼女は柔らかく微笑んだ。


 あの便箋には、こう書かれていた。


 「八年後も、あなたへの想いは変わっていないでしょう。20年後も30年後も……。わたしたち二人の関係は、けっして替えの利かないそれだからです。


 八年後に、わたしがあなたの傍にいるのであれば、そのこと自体が、その答えとなるのでしょう。


 ところで、あなたのほうはどうですか? あなたは、わたしへの想いはまだ変わっていませんか……」


 「どうなの――」と彼女が訊ねた。「変わってしまった?」


 「変わらなかったから、君と一緒になったんじゃないか」と彼は答えた。「君が手紙に書いたように、そのこと自体が答えだよ」


 そうね、と彼女は笑った。「だけど、あなたの口から直接聞きたかったの……」


 沈黙が流れた。


 恵子は、窓の外を眺めていた。


 ねぇ、と彼女は云った。


 秋野は黙って、彼女の横顔を見ていた。


 彼女の長い黒髪は、まるで天の川のように艷やかだった。この世の人間のそれではないようにも見えた。


 「もう、わたしのことは忘れてもいいから」と恵子は云った。


 秋野は黙っていた。


 恵子が、秋野のほうへと顔を向ける。「だって、このままじゃあなたは……」


 目覚めると、秋野は自宅のマンションのベッドの上にいた。


 両方の頬とマクラが濡れていた。泣いていたのだ。


 胸が押しつぶされそうなほどに、哀しかった。


 ♪


 それから時間の流れとともに、彼の心は静かに癒えていった。


 恵子のことを考える時間も少なくなっていった。


 時間とはある意味、残酷なものだな……と秋野は思った。


 それらに比例して、ガムシャラに仕事をすることもなくなっていった。


 なるべく定時で帰るように努めた。課長や同僚はあまり面白くなさそうだったが、別に構いはしなかった。


 酒の量も徐々に減らしていき、休日も寝て過ごすことをしなくなった。


 空いた時間で、昔から興味のあったことをし始めたり、昔の友人らとよく会うようにもなった。


 11月の日曜の夕暮れどき。秋野は、近所の公園を歩いていた。


 ふと秋野は、背後に気配を感じ、立ち止まった。


 誰かが自分のことを、背中から抱きしめているように思えた。


 懐かしい感覚がそこにあった。


 彼女が傍にいたときの雰囲気が、そこにはあった。


 それでいいの、と声が聞こえた気がした。恵子の声だった。


 「もう行くわ」と彼女は続けた。


 「どこへ?」と秋野は心のなかで訊ねた。


 「遠いところへ」と彼女は答えた。


 それから、綺麗に微笑んだ。


 少しして、彼女の気配は消えてしまった。


 期待に反するようだけれど……と秋野は思った。君を、俺は忘れはしないだろう。


 ずっと、忘れはしないだろう。


 忘れたくても、忘れられないのだ。


 君が思っている以上に、君は俺にとって、大きな存在だったのだから。君は、あまりに特別な存在だったのだ。

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