14
リシェル・アグラスは、もう何年も屋敷から出ていなかった。
出たくても、出られないのだ。
部屋の中央には、黒鉄色に光る髪が、とぐろを巻いていた。
蛇の巣のように何重にも折り重なり、触れると金属のような冷たさと硬さがある。
この髪は呪いだと、みんなは言う。
切ろうにも普通の刃では通らない。
伸びるたびに重くなり、今では髪の塊を両腕で抱えなければ、一歩も進めないほとであった。
父——この村の領主セオドル——はリシェルを案じてくれている。だが領地の仕事に追われ、彼女の部屋に来ることは滅多にない。
母親は幼い頃に亡くなり、彼女はひとりでこの髪と生きてきた。
村人たちは「呪いなんて気にしない」と言ってくれる。
それでも、リシェルのそばに立つとき、彼らの体がわずかにこわばるのを知っている。
この髪から漂う魔の気配は、彼女自身ですら息苦しいほどなのだから。
そんなある日、部屋の扉の向こうがざわめきに包まれた。
廊下を走る足音。そして、父の声がした。
「勇者だ!聖剣を持つ勇者が村に現れた」
叫びながらこちらに向かっているようだ。
勇者?
遠い物語の中の存在が、なぜこの辺境に現れたのか?
やがて扉が開き、父は子を見る。
その目には希望が宿っていた。
「リシェル。勇者の剣なら、この髪も断てるかもしれん」
そう言って、父は勇者に会ってほしいと言った。
村人以外の人に会うのは久しぶりだった。
小さい頃は、この髪をどうにかできる人がいるのではと、各地から理髪師や魔法師を呼び寄せたし、こちらから会いにも行った。
しかし、いつしか希望は絶望に変わり、誰にも会うことなく、重い髪をかかえて歩くことも億劫になり、屋敷から出ることもなくなった。
リシェルが想像していたのは、大柄で屈強な男だった。
厚い胸板、肩に担がれた巨大な剣。
だが部屋に現れたのは
「……女の子?」
ふわりとした髪の毛、服は少し大きいようではあるが、村人と同じ動きやすいワンピースを着た少女だった。
勇者には見えない。
「これが、勇者の剣……らしいよ」
少女——美咲は、気まずそうに笑った。
「一応、本人は切れるって言ってるし……いけるとは思う。ただ、人の髪を切ったことはないから、オシャレにできるかは自信ないけど」
恐る恐る近づいてきた美咲は、何のためらいもなく呪われた髪に手を伸ばした。
リシェルは驚いた。
この髪の呪気は、メイドですら触るのをためらわせる。
けれども彼女の指は温かく、柔らかく、普通の髪に触れるかのように私の鉄の髪を撫でていた。
そして——
「じゃ、いくよ」
軽い声と共に、鋼を裂くような音が響く。
まずは試しにと、毛先を少し切ったようだった。
サクッ、サクッ、サクッ。
夢のように軽やかに、髪が切り落とされていく。
呪いの塊が次々と床へ落ち、体が軽くなる。
膝の上から髪が消え、ついに——立ち上がったリシェルの髪は地面につかなくなっていた。
「……! 軽い……」
父も、メイドも、目を見開いて喜んでいる。
美咲はというと
「あ、案外いけるね」
笑って、さらに聞いてきた。
「で、どこまで切る?」
常識的には、貴族の娘の髪は腰の長さが普通。
だが気づけば叫んでいた。
「肩より短く!」
美咲はにっこり笑い、「了解」と答えた。
髪が肩でさらりと揺れた瞬間、リシェルは十年分の鎖を断ち切ったような気がした。
その後、久しぶりに外に出た。
太陽の光が肩に当たり、軽くなった髪が風に踊る。
その日は、美咲と二人で、村の隅々まで歩き回った。
——あの日が、リシェルの人生が変わった日だった。