第8話
僕は鈴木さんと繋がれた手から目が離せなかった。
誰かと手を繋ぐなんて、小学校の運動会以来ではなかったか。不思議な気持ちで、僕は鈴木さんと手を繋ぎながら走った。どこに行くのかもわからず。だけど僕は、鈴木さんとなら、どこまでも走っていけそうな気がした。
時間にしたら二十分ぐらいだっただろうか。鈴木さんの足がふいに止まった。
僕たちは大きな建物の前に立っていた。僕は息を整えながら、目の前の建物を見上げた。
古びた五階建ての建物の名前を見ると、聖音病院と書かれてあった。
僕は隣にいる鈴木さんを見た。鈴木さんは見たことがないぐらい真剣な表情で病院を見つめていた。
鈴木さんは何も言わず、病院の中に入っていった。僕も鈴木さんを追いかけるように、病院の中に入って行った。
病院の匂いだ。
鈴木さんは僕がいることを忘れているかのように、慣れた様子でエレベーターに乗りこみ、五階のボタンを押した。どこに行くの?とは迂闊に聞けない雰囲気が、鈴木さんから漂っていた。
五階でエレベーターを降りると、右に受け付けがあり数人の看護師さんがいた。すると突然鈴木さんが腰をかがめ気配を消した。驚いている僕のズボンを引っ張ってきたので、僕も腰をかがめ気配を消そうと努力した。二人で腰をかがめながら、見つからないように受付を通り過ぎしばらく進むと、鈴木さんの動きがピタっと止まった。
鈴木さんが立ち上がり、スカートの裾をはらいながら「ここです」と小さな声で言った。僕も立ち上がり、部屋のネームプレートを見た。そこには『鈴木朔也』と書かれてあった。
鈴木?
僕は鈴木さんの顔を見た。
「兄です」
鈴木さんはどこか悲しげに見える表情で、僕に教えてくれた。
病室の中に入ると、ベッドの上に眠っている男性の姿があった。
二十代に見える男性の顔は、鈴木さんによく似ていた。白い肌にまつげが長く、きっと目を開けたら綺麗な目をしているような気がした。
鈴木さんのお兄さんは、たくさんのチューブに繋がれてそこにいた。
「五年間、眠り続けてるんです」
鈴木さんが静かな声で言った。
「えっ」
「兄は高校三年間、苛めにあっていました。あなたと同じです。誰も兄を見ない、誰も兄と喋らない、兄の高校生活は、生きている事を無視される三年間だったんです」
「無視・・・・・・」
「兄が無視された理由って何だと思いますか?」
僕は答えられなかった。
「自分を持ってるから」
と鈴木さんが言った。
「自分を?」
「学校って怖いところですよ。人と同じじゃなかったら、異物と見なされて排除されるんですから」
排除。なんて恐ろしい言葉なんだろう。
「よく苛められる側にも原因があるなんて偉そうに言う大人がいるけど、あれ、意味わかんないです」
鈴木さんは、ベッドの側にある丸椅子に座り、兄の手を優しく擦りながら言った。
「苛められていい人間なんて、この世の中にいない」
鈴木さんは話し続けた。ずっと誰かに言いたかったのかもしれない。
「あんなの苛めた側の人間が、自分を正当化する為の言い訳です」
「うん」
「それでも兄は自分を持ち続けたんです。無視されても自分の信念を曲げなかったんです。でも、卒業式の日、兄は高校の屋上から飛び降りたんです」
僕は息が苦しくなった。
「兄は笑えなかったんです。あなたみたいに」
鈴木さんは、僕の方を見ずに話し続けた。
「兄は絶望したんです。あなたみたいな人間たちに」
僕みたいな人間のせいで、鈴木さんのお兄さんは絶望したというのか・・・・・・。
「兄は死ぬことで、自分の存在を見せつけたんだと思います」
僕は絶望しながら、眠っている朔也の顔を見た。
朔也の顔が自分の顔に見えた。
苛められた時、僕は闘わない選択をし、今生きている。彼は闘う選択をし、屋上から飛び降りた。
どちらが正解だったんだろう。
あまりの衝撃に、そこからどうやって自分の家まで帰ってきたか、よく思い出せなかった。それほどにショックだった。鈴木さんの悲しみも、痛いぐらい伝わってきた。
僕は自分の部屋の机の前に座った。そして、目の前にある白い画用紙をじっと見つめた。
何かを描かなければいけないという使命感を感じていた。でも、何を描けばいいのかわからない。
――僕は何のために漫画を描くのだろう。
僕は静かに目を閉じた。
つづく