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第6話

 翌朝、朝食を食べている僕の前に、ひとつも悪びれた様子のない姉が、わざと音を立てて座った。



「まだ怒ってんの。あんたって言いたい事言わないくせに根に持つよね」



 僕はチラッと姉を見てから、黙々とごはんを食べ続けた。



「何よ、そんな目で見たってあたしは謝らないわよ。あたしは悪くないんだから」



 今だ!



「そんなんだから、旦那さんに浮気されんだよ」



 姉がいつものようにすごい勢いで言い返してくるのだろうと、身構える僕の予想は綺麗に外れた。


 何も言わないので恐る恐る見ると、そこには一気に年老いたように見える姉が、疲れたように座っているだけだった。


 僕は何か取り返しのつかない失敗をしたような気になったが、ここで負けてはいけないと気づかないふりをした。


 心に重しが乗っかかったような気分だったけど、僕はいつも通りに、早朝の田圃道をコンビニに向かって自転車で走っていた。ハンドルが直ったので、また自転車通勤に戻した。



「なんだよ、いつもあの何百倍も僕に当たってるくせに。なんなんだよ」



 僕は姉の傷ついた顔を思い出したくなくて、勢いよく自転車を漕いだ。




 レジカウンターの上に苺大福が置かれている。


 よく見ると、一口かじられている。カウンター越しに僕は菊枝とにらみ合っていた。



「苺大福って書いてあるじゃない。すっかり騙されて一口食べちゃったじゃない」


「食べられた商品は基本返品出来ない決まりですので」


「苺が中に入ってないから悪いんじゃない。普通苺大福って苺が中でしょ」


「それはお客様の勘違いで、苺が上に乗ってる苺大福もございます」



 今日の僕は決して負けたりなんかしない。



 いつものように見かねた木崎くんが間に入ってきて「まあまあ、ここは返品という事に――」と、いつものように事を運ぼうとしたが、僕は、「店長は僕だ」と言ってやった。


 木崎くんは驚いたように僕を見ている。僕はとどめの一発を菊枝に投げつけた。



「そんなんばっか食べてるから、太るんですよ」



 菊枝が黙った。初めて黙った。



 僕はそんな菊江を無視して、伝票に印を押したりして仕事を続けた。


 ドアの開く音がした。僕は入口の方を見た。そこには、一回り小さくなったように見える菊枝が出て行く姿があった。


 視線を感じた。


 木崎くんや数人のお客様が、僕を遠巻きに見ていた。



「僕は悪くない」



 僕は負けたくなかった。


 だって僕は、もっともっと傷つけられてきたんだから。



 より強い視線を感じて見ると、鈴木さんが僕をじっと見つめていた。ただ逆光で、鈴木さんの表情が見えなかった。彼女は怒っているのだろうか、それともよくやったと微笑んでくれているのだろうか。




 仕事帰りにまたあの白い大型犬に遭遇した。でも今日の僕は逃げない。僕は自転車から降り、犬を睨みつけた。大声で「ワンっ」と吠えてやった。


 犬がしっぽを巻いて逃げていった。



 ――勝った。



 僕は満足げに頷いてみせた。



「何してるんですか」



 僕が驚いて振り返ると、鈴木さんが不思議そうな顔をして立っていた。



「別に」



 僕はそれだけ言うと、自転車を全速力で漕いで、家に帰った。




 家に入ると、驚くぐらい静かだった。いつもなら子供たちが走ってきて、僕から廃棄の食べ物が入ったビニールをひったくるように奪っていくのに、今日は誰ひとり走ってこなかった。


 食卓につくと、姉と子供たちが信じられないぐらい静かにごはんを食べていた。


 母が僕の分も並べてくれていたので、僕も食卓について食べ始めた。


 さんまに醤油をかけたくて、姉に「ごめん。醤油取って」と声をかけたが、無視された。僕は味の薄いさんまの身をほじりながら、まだ朝のことを怒ってるんだなと思った。



 しつこい奴め。



 僕はごはんをかき込むように口に入れた。




 食後に、コンビニからもらってきた廃棄のパンの入った袋を無言で姉に差し出した。すると姉は黙ってパンを受け取り、次の瞬間、ゴミ箱に捨てた。


 拒絶されていることに傷ついた。


 先程から結構長い時間、僕は自分の部屋で、机の上の白い紙をじっと見つめていた。


 これで漫画に集中出来ると思い、新しい漫画を描くために白い紙を広げたはずだった。だけど、一向に何も浮かんでこない。いつもなら、次々と絵が浮かんでくるのに、今日は全く浮かんでこなかった。


 浮かんでくるのは、姉の傷ついた顔、菊枝の小さくなった背中、遠巻きに見ていた人たちの顔、逃げていく犬だけだった。漫画は一切浮かばず、今日僕が傷つけた人たちの顔ばかりが浮かんでくる。



「何も浮かばない」



 僕はベッドに身体を投げ出し、目を閉じた。


 今日の鈴木さんは、どんな表情で僕を見ていたんだろう。僕はなんだか悲しくなってきた。


 当たられる前に当たってみたけど、全然楽しくならなかった。人に当たっても虚しいだけだった。僕は人を傷つけて笑える人間にはなれないって、それがわかっただけだった。




                   つづく

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