第55話 命懸けの試練 5
祝さんの腕に何かをみた高月先生は腰を抜かしたようでそのままロビーの床に座り込んでしまった。
驚愕している表情から涙がポロポロとこぼれ出している。
「先生・・・」
綺麗だと思う反面どうして二人は苦しんでいるのだろうと思った。
忍さんと二人で先生を立ち上がらせようと膝まづくと、視線が定まらないまま誰かにつかまりたいように両腕を伸ばして呟いた。
「祝の手首の所に傷が・・・」
「リストカットか?」
まさか?と信じられないという忍さんの思いが現れた言い方だった。
私も祝さんと知り合ってからの時間が短いけど、簡単に命を絶とうとするような方には思えなかった。
「祝が・・・嫌っ・・・死んじゃっては嫌・・・・」
忍さんにしがみついたまま首を横に振って泣きじゃくる高月先生。
かけていい言葉が見つからず、私は黙ったままそばにいることしかできない。
「急ごう。桃乃ちゃん、車を入口に持ってきますから、紫と外に出ていて下さい。」
「はい。」
忍さんは駐車場に向かって走って行った。
私は高月先生に肩を貸すようにして一緒に扉の外に出た。
タクシーを待つ人、私達のように駐車場から出てくる車を待っている人が数人いるので、その人達の邪魔にならないように立っていた。
しばらく待っていると忍さんの赤い車が現れた。
車に乗り込んで一般道に出たとろで忍さんが高月先生に質問を始めた。
「紫、祝はどこにいるか心当たりはある?」
「・・・・S区に由香里様所有の一軒家があるの、忍くんが前に住んでいたアパートの近くの、覚えてる?」
「菖蒲の庭の?」
「そう。留学する前まで、そこの庭の手入れを祝はずっとしていてじゃない。まだ鍵を持っているなら、他にマンションとか購入していなければ・・・あの庭がすごくお気に入りだったから・・・」
「分かりました。今から行くって祝の携帯に連絡して」
「番号知らない。っていうか祝が留学した時に祝の連絡先消去しちゃってるから・・・」
「あっ私分かります。この前祝さんに教えてもらったので」
「それですぐに電話して!留守電になったら紫を連れて今向かっているって言い残してくれればいいから」
「分かりました。」
忍さんの指示を受けるや否や私は制服の胸ポケットにある生徒手帳に挟んだ祝さんのメモを開いて携帯に電話をした。
制服でパーティーに参加したのは不本意だったけど、この状況だと帰って良かったのかもしれない。
私服だったらこのメモは手元になかったからね。
携帯は案の定留守電になっていた。
私は忍さんに言われた通り「先生を連れて行きます」とメッセージを残した。
気持ちは急いているのに車のスピードは法廷速度しか出せない。
最悪の場合は一刻を争うというのにスピード違反で捕まっては行けないし、事故に遭っても行けない。
忍さんはいつにも増して慎重に運転しているように見えた。
「どうして、祝を拒絶したの?」
信号待ちのところで再び高月先生に問いかけた。
「おじ様に、周防院の利になる家の娘さんに嫁いでもらいたいって、祝は忍くんと違って小さい時にしっかりと教育できなかったから、それを補える女性にそばにいて欲しいって・・・」
「どうでもいいでしょ。そういうことは。」
「忍くんのせいでもあるのよ!」
呆れたとでも言いたげな忍さんの言葉に高月先生が声を荒げた。
「祝は跡を継ぎたいなんて思っていなかったんだから、二人でお父さんの着ものを作る手伝いをして行こうって話していたんだから。それなのに、忍くんがあんなことしなかったら・・・周防院の亜紀枝様の後継ぎなんて・・・でも跡を継ぐなら、亜紀枝様達からちゃんと認められてそれで、その方が祝だって、きっと自信が、つくだろう・・・し・・・・・私じゃ、そんな風に祝の事支えられないって」
高月先生は言い終わると俯いたまま黙ってしまった。
忍さんはものすごく辛そうな表情になっていて・・・
でもふぅっと息を吐きだし、メガネに一瞬触れた次の瞬間表情ががらりと変わって
「祝はそんなこと望んでないでしょ。跡取りとしてダメって烙印を押されたとしてもあいつには大したダメージはないはずだ。むしろ紫の拒絶された現状の方が大きなダメージなんじゃないの?こっちに帰ってきてから二人の間に何があったの?紫が見たキズがリストカットとは思えないけど、そこまで祝が追い込まれるようなことだったの?」
「・・・・知らない・・・ただ、去年変えた携帯の新しい番号、祝には教えてなかったの。今住んでいる住所も祝が聞いてきても教えないでってお父さん達には頼んであったし・・・多分それで立花の在校生を巻き込もうってしたんじゃないかな?津和蕗さんに手紙を預けるなんて・・・腕に傷はどうしてかな?・・・・やっぱり私が苦しめちゃったのかな?・・・どうしよう・・・」
涙声で先生は言った。
「祝が死んだら生きていけない・・・」
ただそれだけが高月先生の本心なんだと痛感した。
車はどこかで見たことがる様な風景の中を走っていた。
「紫、もうすぐ着くから、祝のところに行ったらちゃんと言うんですよ。今のこと。」
先生は静かに頷いた。
「もし、周防院の跡取りとしてダメだとかって話しになれば二人で好きなように生き行けばいいでしょ。紫がいれば祝にはそういうたくましさはちゃんとありますから。貴女だけは絶対に不幸にはしないはずです。」
「それでいいと思う?」
俯いたままだった高月先生が顔をあげた。
自信なさげな疑問に満ちたまなざしだったけど、さっきよりは全然いい状態に感じた。
迷いながらも前に踏み出そう、祝さんの元へ行こうとしているような雰囲気だから。
「いいと思いますよ。」
忍さんも微笑んで告げた。
その笑顔は高月先生には見えてはいないかもしれないけど、きっと忍さんの声音で分かったのだと思う。
だって忍さんの言葉を聞いた高月先生はとても嬉しそうな表情をしたから。
それから窓に顔を向けた高月先生。
多分のその先が祝さんがいる場所なんだろう。
車は古めかしくでも上品な趣の家の前に到着した。
その途端先生がものすごい勢いで車を飛び出した。
そして私が知っている先生とは思えないほど乱暴な音を立てて門扉を開けて敷地の中へ飛び込んで行った。
門が勢いよく開く音が聞こえたのか中の明かりが点いて縁側の扉が開いた。
先生は迷いもなく一目散にその扉の方へ走って行って、扉を開けた人物に抱きついた。
扉を開けた方の人も先生の背中にしっかりと腕を巻きつけている。
その人は、祝さんだった。
室内の明かりが逆行となっていて祝さんの表情は見えないけど、私達が乗っている車の方に顔をあげてくれた。
きっと世界で一番幸せ、っていう表情をしているんじゃないかなと思った。
ジャケットのうちポケットから忍さんは携帯電話を取り出した。
どこかに電話をかけているようです。
「・・・忍です。今紫を送り届けました。・・・桃乃ちゃんも一緒です。」
え?
忍さん、誰とお話しているの?
「・・・えぇ分かりました。桃乃ちゃんを送り届けたら朱雀に寄ります。」
一体全体どういうことだろうと思って忍さんを見ていると、通話を切った忍さんが私の方を見た。
「約束の時間を過ぎちゃいましたので、なるべく早く送り届けるようにしますね。」
「あのう今のお電話は・・・」
「亜紀枝様です。亜紀枝様の方が津和蕗の家に連絡を入れて置いてくれるそうですから。」
「いえ、そうではなくて。高月先生を送り届けるって・・・」
「あぁそのことですか。僕もずっといつどうしていいのか分からなかったんですが、先日亜紀枝様から『然るべき時に紫を祝の元へ送り届けるように』と言われましてね。なのに肝心な紫と連絡が取れなくて、高月の実家には連絡が欲しいと話してはあったんですが、多分紫は祝に繋がるのを恐れていたんでしょう。僕にも連絡をくれなかったんですよ。」
「でもどうして亜紀枝様は高月先生を祝さんの元へ?」
「運転しながらでもいいですか?」忍さんが静かに車を発進させてそう聞いてきた。
「祝はね、確かに経営者として周防院の跡取りとしての教育は受けては来ませんでした。周りはそうさせようとしていたんですが、本人が拒否していたというか絵の道への才能を発揮させていたので、その頃は僕が正式な跡取りだったから無理強いされることはなかったんです。それでも祝には、厳しくてシビアなビジネスの世界で生きて行く人間としての人を見る目や、駆け引きに勝つため優れた能力は備わっていたんですよ。」
忍さんがおっしゃるには、祝さんが後継ぎとして名前があがったとき、祝さんは高月先生との結婚を後継ぐ条件として希望された。
周囲の望むような後継ぎになるから高月先生と結婚させて欲しいと。
亜紀枝様や祝さんのお父さんは留学でそれなりの実績を作ったら結婚を認めると言ってはくれたものの、祝さんと高月先生は正式に婚約はしないまま祝さんは留学してしまった。
祝さんが留学してしまうと祝さんのお父さんは高月先生に身を引くように持ちかけた。
でも祝さんにしてみたらお父さんの行動も高月先生の反応も想定内の出来事だったようで、事前に周囲の誰にも気づかれないように亜紀枝様に取引を持ちかけいたそうです。
周防院家の中では亜紀枝様の力はまだまだ強く、いくら祝さんのお父さんが反対しても亜紀枝様がOKを出せば効力があることを祝さんは見切っていらしたのです。
「どんなことでもするから自分が不在の間、紫を別の男性と結婚させないでほしい」
祝さんが一番恐れていたのは高月先生が他の男性と結婚してしまうことだった。
周囲に何か言われて一旦身を引いてしまうくらいなら帰国した時に取り返しがつくけど、結婚されてしまっては打つ手がなくなってしまう。
そう考えた祝さんは亜紀枝様に高月先生に来る縁談を止めるようにお願いしていたらしい。
「紫の父親、高月 蒼苑氏の従姉妹が周防院家の分家に嫁いで来ていて、紫は正確にはハトコに当たるのですが朱雀と同じ敷地内に住んでいたので小さい頃から顔を合わせることがあったんですよ。」
そんな縁から親戚というにはいささか遠い存在の高月先生の縁談に関して亜紀枝様の意見が通ることが出来たのだ。
祝さんは留学先のロースクールで論文を書いたり、預けられていた企業では実際に取引を成立させたりと、亜紀枝様に認めてもらうために相当の努力をされたようでした。
そしてその努力の甲斐あって亜紀枝様は忍様にお遣いを言い渡されました。
でも、祝さんを想うあまりに高月先生が身を引こうとして連絡を絶ったり、祝さんは祝さんで亜紀枝様にばかり頼らず自分で行動を起こそうとこれまた周囲に気づかれないように私に手紙を託したり、忍さんのお遣いは簡単には進まなかったようです。
「私が早く手紙のことを忍さんに相談すればよかったんですよね。」
「そんなことはないですよ。それにもう心配しなくてもいいでしょう。あの二人のことは。」
そうだ。
だってもう絶対離れたりなんてしないっていうくらい抱き合っていたんだから。
「そうですね。」
家路に着く私の心はとても穏やかだった。