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マックスウェルの悪魔  作者: 佐藤サイキ
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天使の悪魔

余命1、2年、来年の今頃、僕はもうこの世に居ないかも知れない。

否、そんな考えは甘いんじゃないか。

もし、がんになっていなかったとしても、半年先のことなんて誰にもわからない。

もっと踏み込んで言えば、明日死んだっておかしくないのが人間というものだ。

明日死ぬと思って、後戻りできない時間をもっと大切に生きるべきだった。


これまでの28年間、流されるクラゲのように生きてきたような気がしてならない。

仕事は人並みにやっていたけど、あとは惰眠をむさぼっているか、スマホをいじっているか。

生きているんだか死んでいるんだかよくわからない時間を過ごしてきたと言ってもいい。

時間の密度が薄いというか、本当に何もしてこなかった気がしてくる。


僕は病院の売店で買ったコーヒーを持って、屋上の庭園に出た。

そこは色とりどりの花が咲き、風が気持ちよい場所だった。

造園業者のおじさんが一人、葉っぱの剪定とか、水やりをやっている程度で、他には誰もいない。

僕は藤棚の下にあるベンチに腰掛けた。それからコーヒーにミルクを数滴ポタポタ垂らした。

当たり前のことだが、何もしなくても勝手に混ざっていく。


混ざる。

この現象が厄介なのだ。ミルクはじんわりと煙や渦のようにぼんやり拡散し、平均化されて茶色の液体になる。この世の自然現象は、常にエントロピー(無秩序さ、平均化の度合い)が増大する方向に進んでいくと相場が決まっている。

これこそが熱力学の第二法則であり、時間の矢の進行方向である。物事はいつも混ざったコーヒーとミルクのように取り返しがつかない。俺のがんも取り返しがつかない。


「何を困っているの?」

若い女の声がする。だが、あたりを見渡しても、誰もいない。

「上だよ、上」

声の主は上空に居た。幻覚でも見ているのだろうか。

彼女の姿は、まるで子どもの頃、おとぎ話に出てきた悪魔そっくりだったのだ。

背中には蝙蝠みたいな羽が生えてるし、頭にはヤギみたいな角が生えている。

尻には先端が矢じりみたいに尖った尻尾が生えている。

俺の妄想が具現化でもしたのだろうか?

「やあ、浮かない顔だね」彼女は地上に降りてきてそう言った。

「すげえコスプレだな」と僕は元気なく言った。「正直、参っているんだ。君が何者でもいいから、話を聞いてくれないか」

「いいよ、相談に乗ってあげる」

彼女は天使みたいな表情でにっこりと微笑んだ。

見ず知らずの誰かに何かを打ち明けたい、そんな気分だったのだ。がんになったのは、あまりに突然のこと過ぎて、郷里の家族にもまだ事情を話せていない。


「俺さ、がんでもうすぐ死ぬんだ」

今日の昼飯は焼き魚だったんだ、くらいの感覚で話した。

「がんって、長生きすると掛かりやすくなる病気だよね」と彼女は言った。

「老いた個体を間引く自殺プログラム、アポトーシスみたいなものかな」

「ああ、その通りだ。でも、若くしてがんになると、進行が早くてね」

「なあんだ」と彼女は言った。「そんなことでクヨクヨしていたの?」

「そんなこととはなんだ」と僕はぶっきらぼうに言った。「俺にとっては、俺が死ぬのは世界が終わるのとほとんど同じじゃないか。もっと生きたかったよ。結婚とかもしてみたかった。こんなことなら仕事だって、もっと打ち込めばよかった。何か新しい分子の製造プロセスとか発明して、世の中の役に立ちたかった。映画ももっと見ておけばよかった。でも今更、何をしたって虚しいだけなんだ」

「ちょっと落ち着いてよ」と彼女は俺の愚痴を遮った。「冷めないうちにコーヒーでも飲んだらどうかな。がんってのは結局、生体内の情報の乱れが引き起こす病気なわけ。だから、情報の交通整理をしてやれば、原理的には治せると思う。うん、たぶん私が力を貸せば、がんを治すくらい簡単なことだと思うな」


ふと紙のカップに視線を落とすと、黒い液体がグツグツと煮えたぎり、その中央に真っ白のミルクがぽかんと集合している。熱力学第二法則的には、ちょっとありえない光景ではないかと思った。

「よかったら、悪魔の取引をしましょう」



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