条約派と艦隊派
大正11年2月6日、米国の首都ワシントンで開かれた「ワシントン会議」において、海軍軍縮制限条約所謂ワシントン条約が締結された。その条約で、米国、英国、フランス、イタリア、日本の五大国は、10年間主力艦の建造を停止すると共に、主力艦や航空母艦の保有トン数の比率を米英日は5:5:3に制限する事が定められた事は既に述べた。
日本に「6割艦隊」なる言葉が生まれたのは、この時からである。続いて昭和5年の「ロンドン海軍軍縮会議」では、重巡洋艦保有比率が米国や英国に対して7割と言う制限を受けた。「6割海軍」「7割海軍」等と皮肉られたのも、相次ぐ軍縮条約での劣等比率からであった。
こうした軍縮条約で、日本海軍は次第に勢力を減衰させられた。海軍部内に5:5:3の劣等比率に対する不満が爆発したのは、昭和5年のロンドン条約締結の時からである。所謂条約派、妥協派と見なされていた人達が敬遠され、艦隊派と称する人達が主導権を握り、軍縮条約破棄を主張し始めていた。
そこで、これらの条約の期限切れを待ち、直ちに条約から脱退し、未だ米英も建造していない46㎝砲を搭載した戦艦を建造し、米英を圧倒しようとする計画が海軍省と軍令部で密かに進められていた。
日本がこうした大型艦建造を思い至った動機には、かつて48㎝砲を一門作り成功させた経験があったからであった。大正9年に呉海軍工厰の砲熕部で試作、亀ヶ首実験場で試射したところ、その破壊力の大きさに驚いた事がある。新しく強力な戦艦建造を祈願していたのは、軍令部だけではなく、造船官達も同様であった。
「最早、来るべき時は来た。我々技術者もこの瞬間を雁首揃えて待ち構えていたのだ。直ぐにでも飛んでいって、ワシントン会議の条約文を引き千切りたい様な気持ちを抑えて、雌伏を続けていた時だった。」