海軍の伝統
鹿児島の西南西300㎞(釜山港から約16時間)の場所に戦艦大和は眠っている。350メートルを越える程の深さがあり、令和の現代に至ってもそれらの艦体が浮かび、日の光を浴びる事は無い。浸水し、火の手が直ぐに弾薬庫に回った為、手がつけられなかった。
沢山の弾薬に誘爆して、艦体は4つに爆裂。海中奥深くへと沈んで行った。主砲弾は戦後米軍の命令によって、火薬厰に送られた。その後、進駐軍は「全ての弾薬を投棄せよ」と、厳しく命令した。だが、それでは余りにも面子が立たないので、極秘に火薬を抜き10発程の空薬莢が水中で爆破されている。
さて、艦長が艦と運命を共にすると言う、帝国海軍の伝統について、少し触れておきたい。そもそもこの伝統は、明文化されたものではなく、そんな規定は何処にもない。山本五十六等もそうした軍人の死生の処し方について、疑問を警鐘していた。艦長が艦と道連れになる事を美談とし、名誉として受け止める風潮は、ミッドウェー海戦以降特に嘆いていた。そうした自死の問題で優秀な艦長や指揮官を大量に、失う事を日本海軍は恐れた。
艦が沈没に至る戦闘の経験が艦長にとっても、得難い経験であるはずであった。しかし、軍隊の精神構造は、そうした個人の能力を越えた士気を問題にした。「艦長の退艦時期は最後」と言うこの規定だけが、海軍には実際にあった。いつ誰が始めたかも分からない、この愚かな伝統は、結局の所日本人らしい、言わば「恥を嫌う」精神の現れかもしれない。艦と言う殿様を失った家臣にしてみれば、後は死あるのみであろう、と考えれば合点がいく。




