予行運転
ようやく艤装工事も終わり、大和が運用出来る準備は整った。昭和16年10月16日から3日間、土佐沖で大和の予行運転が初めて行われたのである。最終日は南西の風速20メートルの強風が吹く荒れた天候になった。
随伴した3隻の駆逐艦は、改めて世界最大の戦艦に乗り組む事への喜びと気負いを感じていた。この日は、機関出力15万3000馬力、速力27.4ノットと予想以上の数値を記録していた。続いて、同年10月22日から8日間投楊錨テスト、全力後進テスト、操舵テスト、飛行機射出テスト等を続けた。主砲、副砲、高角砲、機銃等の兵器装備のテストも、順調に進み同年11月下旬からは、大小各砲の公試が始まった。
折からの内外情勢も波乱を含んでいた。大和が、予行運転を開始した、昭和16年10月16日のその日、近衛内閣が倒れて2日後に東条英機の戦争内閣が誕生した。開戦への不気味な地鳴りは、間近に聞こえ始めていた。同年10月30日には対米開戦を巡り、大本営政府連絡会議で激論が闘わされた。同年11月5日の御前会議で、開戦は同年12月上旬と決定された。
帝国陸海軍は、既に12月8日を開戦日と決定し、作戦準備が進められた。大和は開戦日に間に合うように急ピッチで、戦争準備が進められた。勿論、こうした予行運転で悪い所が見つかれば、改める必要があるし、何よりも欠陥がある状態で大和を出撃させる訳にはいかない。
いくら予行運転で成果を挙げても、実戦で成果を挙げなければ、何の意味も無い。最早、開戦不可避となった情勢となった事で、大和が戦争に参加する事は決まったも同然である。勿論、この段階では、日本側の誰一人として、日本史上最大の戦艦大和の活躍を信じて疑わなかった。




