交渉相手は哄笑する
久美が差し出して来たスマートフォンを、僕は訝しがりながら受け取った。
「これが何だって。」
画面を見るとメール画面であったが、文面が……フランス語だった。
「えぇと。」
「訳さなくていい。画面をスクロール。」
「あ、日本語。あぁ、かわちゃんのお揃いコートお断りかぁ。残念だったね。でも、そんなに欲しかったの?」
「すごいねっかさ。あんな最新の素材を使ったミリタリーコートは格好良いれ。」
裾が短冊のように無駄にぴらぴらして、季節柄もうすぐ着れなくなるコートじゃないかと、僕は日本語の部分をぼんやりと読んでいた。
「あぁ、個人デザインの特注品だからってね。そっか。」
僕は自分のスマートフォンを取り出して、コートの権利者にかけてみた。
「ハイ、クロちゃん。どうしたの?」
「先日はお見舞いどうもです。それで、以前に言っていた本当に欲しいものって何かなって?僕の従兄が長谷さんのデザインのコートが欲しいって泣いているの。どうしたらいいかな?」
僕の頭にごつんと久美の頭がくっ付き、興味津々で盗み聞きしている。
それを知っているのか、電話の向こうは気さくな笑い声が響いて、そして、楽しそうな声で悪辣なことを言い放ったのである。
「君が僕の愛人になるなんてどうだい?独り身が寂しくてね。」
「寂しいのなら、あなたをあの世に送りましょうか?」
「ハっ、オコジョは!」
僕の耳元で大声でけたたましく笑う従兄をグイっと手で遠ざけたが、彼はぐいっと僕をつかんで再びぎゅうとくっ付いてきた。
電話の向こうでも僕の交渉相手が若々しい笑い声を弾けさせている。
「煩いよ。もう、クミちゃんは。それで、長谷さんと僕は交渉決裂ですか?」
「うーん。君達は幾らまで出せるのかなぁ。」
彼は絶対に天国の門で断られる欲深の百戦錬磨の男である。
これ以上の交渉は危険だ。
「残念ですが、諦めるって大事ですよね。」
僕はスマートフォンの通話を切ると、がっかりしている従兄に微笑んだ。
「クミちゃんは、矢那の服も、由貴ちゃんの会社の制服のデザインもしているのでしょう。あのデザインは駄目でも、あの仕様の組み合わせで別デザインのコートを作ってもらえば良いじゃない?」
「あ、そうか。でもさぁ、俺はあれがねぇ。」
「クミちゃんのコートをかわちゃんが欲しがったら、あのデザインのコートと引き換えってね。それにこれからコートの要らない季節になるのだし、コートじゃなくて春夏に羽織ってもおかしくないものにしたら尚更いいかもよ。薄い薄い、着ているのもわからないような防刃ベスト、とか。」
「天才。」
途端に元気になった従兄は僕をぎゅうと抱きしめた。
「賢いオコジョ様よ。さぁ、俺様は君の友人を無事に何事も無く誑し込むことも無く、この地に再び送り届ける事を約束しよう。」
「久美ちゃん、ありがとう!」
僕は嬉しさのあまり、彼を抱き返して頬にちゅっとキスをしてしまった。
彼にキスするなんて初めてのことだ。
腕の中で固まってしまった従兄が動き出す前にと、僕はぴょんとヘリコプターの操縦席から飛び降りた。
「ちょっと、もう一回!今度は写真も撮って!ユキに自慢するから。こら、ちょっとオコジョ待って!もう一回チュー!」
僕は感極まった自分の馬鹿行動を反省しながら、再び梨々子達の所へと駆け出した。
そこでは、梨々子の祖母松野葉子がボッティチェリのヴィーナスような美貌を輝かせて、孫娘に旅の心得をクドクドと言い聞かせていた。
「いいこと?沢山羽目を外して遊んでいらっしゃい。あなたはまだ若いのですからね。沢山遊んで沢山世界を見ていらっしゃい。」
「はい。お祖母様。」
幼稚園児のようにポシェットを斜め掛けにした十八歳は、ミリタリーオタクの親友の影響かピシリと祖母に敬礼をすると、飛び跳ねるようにしてヘリコプターに乗り込んだ。
僕達は彼女達が天空に飛び立ち、そして機影が見えなくなるまでずっと見送っていた。
「葉子さん。今回は気前良く以上に、煽りまで入れて梨々子を送り出したのはなぜ?」
年齢不詳の美女はにやりと笑い、彼女の笑顔に僕の想像通りなのだと僕はとてもがっかりした。
彼女は孫がいない間に楊を独占したいのである。
彼が雅敏の生まれ変わりと知ってから、彼女の楊へのストーカー度が増しているのだ。
けれど、今の楊には葉子の方が必要だろう。
愛されたいけど愛を返す事に疲れた彼には、そっと傍に寄り添ってくれるだけの人が必要だ。
僕でもよいが、僕が死んだら楊はどうするのだ。
「お茶は飲んでいかないの?珍しいわね。」
「これから頼まれ仕事なんですよ。」
僕は松野邸を飛び出すと、僕を待つ車へと急ぎ、そこの助手席に乗り込んだ。
「長く掛からない仕事にしてくださいね。帰りが遅くなると良純さんが心配します。」




