家の中で庭の男を心配する
朝、僕は自分の体が少しは落ち着いている事に気がついた。
だるいままだが、僕を冒していたウィルスは僕の肉体から撤退した模様である。
「起きて大丈夫か?」
僕の隣に眠っていた良純和尚を起こしてしまったらしい。
彼は僕が倒れてから殆んど付きっ切りで看病してくれていた。
仕事にも出かけ、彼は帰って来る度にいの一番に居間で横になっている僕の顔を見て、見るだけでなく脈から呼吸から、つまり僕のバイタルサインを確認して一息つくのだ。
僕は横になったままの彼の胸に、そっと自分の頭を乗せた。
彼の心臓の音は力強く、ただ、僕が頭を乗せた時には大きくドキンと音を立てた気がするが、喉を震わせて響かせる低い笑い声によって心地良いだけのものになっている。
僕の頭に彼の大きな手のひらを感じて、僕は彼の手を感じようと、でも、彼の胸から頭は動かしたくないともぞもぞと動いていた。
彼は僕の馬鹿な動きに、再びの喜びの笑い声だ。
これ以上の安心は無いだろう。
昨夜が怖くて仕方が無かったのだから尚更だ。
僕が眠っている、否、まどろんでいるすぐそばで、二人の男達の静かな声が届き、いつもと違う彼らの声音に怖くなった僕は彼らの声に耳を欹てたのである。
彼らは庭にいて、一人は庭の木を勝手に抜いたことを咎められ、一人はその行為を咎めているだけだが、僕は咎められている男の絶望が怖くて、いつものように外にいる男達の元へと行く事など出来なかったのである。
言い訳をすれば、数日間固形物が食べられなかった体は衰え、僕には立ち上がる気力も体力もなかったのだ。
しかし、それでも彼らを呼ぶ声ぐらいは出せたはずだ。
彼は僕の寿命が尽きると思い込んだ。
語弊があるな。
完全に寿命が切れている僕が、動いていられる猶予時間も失ってしまったと思い込んで駆けつけたのだ。
僕は手足口病と診断されたが、それは、この程度のウィルスに抵抗できない体になっていたという証拠だと考えれば、彼の杞憂は間違ってもいない。
今の僕は抵抗力を失い、赤ん坊並みの免疫力しか持っていないのである。
「いや、だってさ、俺の木があったら邪魔だろう。俺はいないのに俺の木があったら邪魔だろう?お前達の約束の木なんだろう。死んだら骨の欠片を埋めるって重い約束のさ。」
僕は漏れ聞こえた彼の言葉に耳を塞いだ。
彼は自分を消そうとしている?
前世の人殺しの記憶など、今の彼には関係がないだろうに。
「あぁ、どうしたらいい?どうしたら、そんな馬鹿な思い込みから彼自身を救えるの?」
するとそっと僕の額に手を当てる男がいた。
「まだ熱があるんだから、心配せずにお眠り。」
良純和尚がするように、あるいは親ならば誰しもそうするのか、子供の顔を安心させる笑顔で覗き込みながら額に手を当ててくれているのだ。
僕はそんな彼に思わず不安を吐露してしまっていた。
「どうしたらいいの?」
そして、口にしてしまったと後悔した。
この男は契約の悪魔だ。
それも、とても狡猾な。
僕の不安を理解した彼は口角を上げて、それはそれは憎らしい笑顔を作ったのである。
でも僕にはどうでも良かった。
楊が「かわちゃん」で、いつまでも僕の傍にいてくれるのであれば。
もうそろそろ使い物にならない魂ぐらい差し出してもいいくらいなのだ。
「何でもする?」
「何でもする。」
「それじゃあ、今はお眠り。いい子には前払いだ。」
冷たく温かいその手は僕を落ち着け安心させ、僕を深い深い眠りに落したのである。
「昨夜は起きていて聞いていたのか?庭のボケは大丈夫だよ。」
「どうしてわかるの?」
僕が顔を上げて良純和尚の顔を覗き込む、彼はにんまりと微笑んで居間の障子を指差した。
居間の雪見障子の下部が一枚上がっており、そこから庭のボケを眺められるように廊下の障子も一枚開いていたのだ。
良純和尚こそ不安で、そこから木を一晩中眺めていたのであろうか。
僕達を心配させていた木は、僕達の事など気にしてもいない様に、何時もと変わら無い顔で庭に植わっていた。




