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けもの道を使わないで

 楊はどこにも行っていなかった。

 彼は床にしゃがみ込んでいただけだ。

 実際は、しゃがみ込んだのではなく、立ち眩んで潰れたが正しいだろう。

 疲労困憊していた彼はとうとう動けなくなってしまったのである。


 そんな彼を布団に寝かせようにも、非力な僕が彼を部屋に連れて行くことなどできないので、それで、膝枕だ。

 彼の頭を撫でながら狭い脱衣所を見回すと、彼が脱いで丸めた服の横にちょこんと革靴が置かれていたことがわかり、そして、その革靴はかなり痛んでいた。

 数日履いたまま彷徨っていたかのように。


「かわちゃん。獣道を使うのはもう止めて。この道は危険なの。楽そうだけど楽じゃない。かわちゃんは落ち込んでいるだけじゃなくて、心底疲れきっているでしょう。」


 彼はすでに眠っていた。


 ぼろぼろの布人形の様にぐでっと力を抜いて、それでも以前のように子供みたいに見えないのは、眉間に皺を寄せて険しい顔で苦しそうにして眠っているからだろう。

 僕は溜息をつくと、眠る彼の眠りを妨げることのないように髪をゆっくりと撫でることに集中することにした。

 僕が湯冷めして風邪をひいても良純和尚が看病してくれる。

 良純和尚が倒れたら、楊が看病に飛んで来てくれるだろう。

 僕や山口だけでは慌てふためき、良純和尚の休息を妨げるだけだ。


 では、楊が倒れたら?

 楊が倒れる時には、僕達の前から消えてしまうような気がする。


「かわちゃん。膝ぐらい幾らでも貸すから、だから、だから、倒れる時は僕達の所に来て。喜んで良純さんが看病するよ。」


「クロちゃんは看病しないの?」


 狭い脱衣所に千客万来だ。

 楊とお揃いの黒いコートを纏った、白く老けた楊が現れたのである。


「看病しますよ。膝に乗せたり、背中を叩いたりね。僕にはご飯は作れないってだけ。」


「作らないだけでしょう。君は百目鬼君に教えてもらったじゃない。まぁ、出来るのにしないで人にやらせるのが贅沢って言うからね。」


「料理は自分の味が出るって言うじゃないですか。不味いのよりは美味しい方がいい。」


「先に逝く君は百目鬼君に君の味を残したくないのか。彼が完全に君の味をコピーして、君が逝った後にその味の食事だけをするからね。そうだね。不味いご飯は最悪だ。」


「そのとおりです。不味いご飯は不幸の元です。それでお願いがあるのですけど、かわちゃんを宿の布団に運んでくれませんか?布団の中で膝枕しないと僕が風邪をひいてしまう。そんなの、僕が可哀相でしょう。」


 最初はくすくすと、そして次第に長谷は笑いを弾けさせた。


「せっかくだから、この子を家まで運んじゃうよ。」


「いいえ。ここに泊めます。そして明日一緒に戻ります。僕はかわちゃんに二度と獣道を使わせたくない。それでも、刑事ですものね。あなたが雅敏の能力を封じ込めたことで彼が暴漢から逃げ切れなかった事を考えると、そうですね、百あればいいのかな。」


「できるの?」


「僕がオコジョ達にルールを与えればいいだけです。獣道は百メートルまでって。」


「そんなことをして、君が悪者に誘拐されたら戻ってこれないじゃないか。……あぁ、さすがだ。その方法を使うんだね。君は何て悪たれなんだ。」


 僕は彼ににんまりと笑いかけた。

 危険な獣道など妖怪が使うべきものだ。


「困った時は助けてくれるのでしょう。わが武本物産は洋酒にも煩いですよ。最高のブランデーを定期的に贈ってくれる相手なんて失ったら悲しいでしょう。」


「本当はブランデーよりも欲しいものがあるのだけれどね。いいね。妖怪と契約するには今のところは酒が一番だ。さぁ。そろそろ動こうか。本気で君が風邪をひく。」 

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