三條英明の正体
「書類仕事ですか?」
楊は机上から顔を上げると、相棒の気難しそうな顔を見つめた。
「今回の事件は結局のところ八重の汚職と自殺で片付けた。それから、外科医森と丸彦利枝子の死を医療過誤が理由の被疑者不明の怨恨殺人でお蔵入り処理。彼の勤務していた病院ではかなり悪い噂もあったからね、不倫三昧の娘婿の死の真相は遺族も調べて欲しくないようだ。今井優もそこの患者だったね。今井直人が死人化せずに亡くなったのは良しとするしかないかな。後、一番嫌なのが、八重の息子をどうしようかねって。」
「祖父母がいるから大丈夫でしょう。」
「そうだね。俺が人様の子供を心配する立場などないものね。」
髙は何時ものように自分の椅子を引きずって楊の机の脇に座ると、楊の机に我が物のように両肘をついて手を組んだ。
そこに顎を乗せて楊をじっと見つめるだけだ。
警察学校時代でもこれほど怖い教官は存在せず、楊は彼に出会ってから彼にしごかれて顎で使われてきたが、彼の存在に逆らう気など起きないのだから仕方ないのだと自分を慰めた。
部下の山口など、警察学校上がりの十代から彼にしごかれて耐えていた筈ではないか、と。
そして、楊はハッと自分を鼻で嗤うと、髙に微笑み返した。
彼が今望んでいるのは楊ではなく、相良誠司との話し合いだと気づいたからだ。
「君の妹と甥っ子達。そして、君。謝って済むことではないね。」
「そうですね。ですが、俺への一撃は俺の責任です。俺があなたに教え込みましたからね。引き金を無意識に引く事をね。生き存えるための反射神経を鍛えたのは俺です。覚えているでしょう。意識を失う前に指が動くように、突発的な事態に急所を庇う動きができるように俺が鍛えたのを。あなたは俺の最高の教え子でしたよ。」
「わざと痛みを与えたよね、君は。痛みを与えても性的なことは一切起こらない。痛みはただの訓練の痛みだって教え込んだんだね。痛みで気絶をしても体は無事って、君は誠司の過去を知っていて、その上であの訓練をしたんだ。俺は恐怖を感じると自分を抑えられない人間なのに、どうしてそんな危険な人間に育てようとしたの。」
「中尉殿がね、するべきだって。あなたが自分を守れない恐怖で熟睡できなくて可哀そうだって。無意識の時も防衛に体が動くと知っていれば眠れるようになるからってね。俺達の家ではよく眠っていたでしょう。安心した子供の顔でね。」
楊は不当逮捕の尋問で重傷を負った誠司が、田辺が仕えていた中尉の家に引き取られていた事を思い出していた。
彼らは誠司の世話を嫌がるどころかすんなりと当たり前のように受け入れ、誠司は生まれて初めての安全と自由を感じていたのだ。
誰も守らなくていいし、見捨てられることを考えなくてよい一時の休息。
誠司の妹分が中尉の妻としてその家に戻るまでその家に居座り、子供の生まれるその家では彼は彼らの邪魔になるだろうと、相良の家に戻ったのだ。
自分を息子にした相良に見捨てられないように素晴らしい男でいなければと、思い込んでいたその場所に。
「それから、敏朗は生きていました。長谷ちゃんは嘘しか言わない男ですからね。嘘かもしれませんよ。かわさんの父方の祖父の弟です。」
楊は豆鉄砲を食らった鳩のような目で相棒を見返し、ごくりとつばを飲み込んだ。
「生きていて、それで、俺の祖父の弟?え?前にあいつは俺の親父と母が従兄妹だと。」
髙は楊の知っている何時もの顔に戻ると、眉を嫌そうに上下させた。
「敏郎を養子に出した相手は彼の昔の女だそうで、彼女の子供の半数は彼の子供なんだそうです。祥子に隠し子だった良祐を身寄りのない子供だと騙して育てさせたのと一緒ですよ。亭主持ちを誘惑して自分の子供を産ますなんて、本当にろくでなしだ。」
「え?でもどうして千代子ばあちゃんだけは側に置いて敏郎を養子に?」
「誠司が死んで三條英明を引き継いだので危険だからと。」
「三條英明を使って悪さをしていたのか。」
楊は自分が誠司だと確信してから三條のファイルを漁ったが、自分の覚えていない事と、自分が死んだ後にも三條の存在感のある事件がある事から、三條を名乗る誰かがいることは確信していたが、それがあの二人だと知って妙に納得していた。
「俺の中尉も乗ったのだから止まりませんよね。俺が死んでしまったばっかりに。あの馬鹿どもは。中尉はそのうち日本にいられなくなって、家族を連れての海外逃亡ですよ。」




