昭和三十二年 秋
女神と出会ったのは今から数ヶ月前だ。
俺が女神と思うだけで、友人知人は目元がモサモサしているだけの濃い顔の女性だと笑いからかう。
俺が彼女を美人だと、女神だと思うのだからいいだろうに。
彼女に出会ったきっかけは、嘘吐きな父親が妻が暮らしやすい家にと引っ越した先である。
俺は引越しの手伝いに訪問し、そこで彼女に荷物持ちをさせられたのだ。
いや、俺から進んで荷物を持ったのか。
子供ぐらいの身長しかない女が、大きな四角い板を運んで俺の目の前を横切ろうとしていたのだ。
まるで、働き蟻が自分の体よりも大きな葉っぱを運んでいる光景だ。
「何をやっているの。」
見かねて板をひょいと持ち上げると、眉毛と睫毛が毛虫のような真っ白い肌の少女が俺をギラリと睨んだ。
自慢ではないが、一般人でありながら週刊誌に憧れの男性と特集されるようなこの俺だ。
この女のような険悪な目で睨まれるのは新鮮であった。
「持ってやるよ。」
「お前は今何をやったのかわかっているのか!」
時代がかったお姫様のように叱り飛ばされ、嫌な予感がしながら彼女から取り上げたものに恐る恐る目線を動かすと、俺が掴んだ絵は乾燥途中であり、しっかりと俺の指先は油絵の具に突き刺さって彼女の絵を台無しにしていた。
端の方だけだったけれども。
「あー。ごめん。」
すると、彼女は俺には答えず無言で、俺から絵を奪い取ろうと手を伸ばした。
俺はそこにカチンときたのか、彼女の手から、彼女の所有物を遠ざけた。
「返してよ。」
「イヤ、運ぶよ。お詫びもかねて。これ以上台無しにしないように運ぶからさ。」
「じゃあ、そこのゴミ置き場に放って。」
俺はゆっくりとマンション住人用のゴミ置き場の方角を見てから、彼女に目線を戻した。
「君の進行ルートにゴミ置き場はなかったよね。俺が台無しにしたからゴミ?凄くいい絵じゃないか。俺の妹分と違って魂がある絵だろう。」
星空を不恰好な白い馬と彼女によく似た金髪頭の女が駈けている、少々不恰好な絵であるが俺にはいい絵に見えた。
絵心が無いと笑われる俺ではあるが。
「ちょっと不恰好な馬も想像力豊かっていうか、可愛くていいじゃないか!」
「それ、道産子。そういう形の馬。」
「……北海道の人?」
「青森。とにかく、もうその絵はいいの!捨てちゃって。もういいの!美大の先生にもありがちな絵だって酷評を受けたのだから。もう、いいの!」
小さくて怒りんぼうの妖精は、俺に言い捨てると親父の部屋の斜め上の部屋へと帰っていってしまったのである。
小さい体で偉そうにズカズカとだ。
「誠ちゃん、どうしたの?それ。」
先程の女性とは大して違わない身長の、小さな俺の信奉者が現れた。
親父の娘で、彼には似ていないが彼のロシア人の母親にそっくりだという千代子は、母親譲りの浅黒い健康そうな肌も相まって、冬国のロシアというよりも南国のギリシャの風景、透明な青い海に真っ白な建物という背景が似合いそうな美少女なのである。
「うん?将来の画家に絵をもらったんだ。車に片付けたらすぐ戻るから。そうしたら苦労の多いお姉さんと遊んであげるよ。」
すると、今年十歳になったばかりの少女は生活に疲れた中年女性のように、ぐるりと首を回して肩をとんとんと叩きだす。
俺は彼女のその子供らしくない素振りが大好きだ。
「お疲れのようで。」
ふうと彼女は上向きに息を吐き、彼女の前髪を上に持ち上げた。
親父によく似たきれいな額。
親父は俺よりも小柄であるが、俺よりもとても魅力的な男なのだ。
俺は彼の子供達を眼にする度に、俺も彼に似たかったと、いつも思うのである。
「赤ちゃんのお世話で私はもうクタクタよ。ママが体を壊しちゃったからね。」
この引越しは彼の再婚した妻が出産時に骨盤を痛めたからだそうで、確かに彼女が生んだ息子は大き過ぎる巨漢であり、目元がそっくりでなければ親父の子には決して見えない。
妻の一族も小柄であり、親父も中背でしかないのだ。
背で笑えるのが、彼は親友と同じ身長でありながら百七十二センチだと言い張る嘘吐きなところだ。
たった一センチ高いと嘘をついて何になる。
また、嘘吐きな親父は親友の物件を横取りする形で手に入れて、賃貸の振りをして税金を誤魔化している。
友人も彼に乗るのだから最悪だ。
親父は友人の家への勝手な間借りで固定資産税をごまかし、友人はそれによる損失しかないと赤字を計上しての申告だ。
今現在の政府が気に入らないのだから金をやらないという抵抗なのだそうだ。
俺が真面目に税金を払っている事に対する嫌がらせだろうか。
まぁ、俺も嘘吐きだ。
嘘ばかりだ。
大昔、ほんの一瞬人生が交差しただけで、俺達はただの他人だ。
あいつも俺の事を覚えていないどころか、覚えていたところで息子とも思っていない筈である。
彼は俺の母の客だったというだけなのだ。




