それぞれはそれぞれの所に戻れ
僕が見つめた髙の妻、現在マタニティーブルーどころかノイローゼを患っているらしい杏子は、僕に相槌を打つ気力もないぐらいに暗い顔付をしていた。
鋭角的な顔立ちの顔立ちの彼女は笑うと涙袋が出来てとても柔らかい雰囲気になるが、今日はぴりぴりと神経質だ。
梨々子と杏子が姉妹のように連れ立つようになったのは、彼女達の婚約者と配偶者が相棒同士だからという理由ではない。
僕の親族の披露宴が見たいと非常識に参加してきた二人は、非常識同士、意気投合して姉妹のように仲良くなっただけである。
梨々子は僕の従兄の由貴の婚約者の早坂海里とも、出会ったその時に親友の誓いを立てていた。
だがしかし、海里は梨々子の心の友になりうるべき属性、つまりストーカー属性を持っていたらしく、海外に仕事で飛び立った由貴を追って彼女も日本を飛び出してしまったのだ。
海運王の娘らしく最高速度三十ノットの改造船にて世界に漕ぎ出した海里が、果たして、ジェット機で客を運ぶ仕事をしている由貴に再会できるのであろうか。
梨々子が楊により執着して壊れているのは、同性で同い年の生まれて初めての友人を失ったというそれもあるのかもしれない。
そして、杏子も傷心を抱えている。
即ち、弟同然に可愛がっていた盲目の犬を愛せなくなった自分を許せない、だ。
「ねぇ、杏子ちゃん。虎輔が今まで以上に暴れるのはミミちゃんが恋しいのかも知れないよ。今からでも青森のおじさんの牧場に送りましょうか?」
すると僕の提案に喜ぶかと思った彼女は、両手で口元を押さえ、ぽろぽろと泣き出した。
「え、杏子ちゃん。どうしたの?」
「駄目。やっぱり、虎輔を手放したくない。でも、傍に来ると怖いしイライラするの。私は酷い飼い主よね。酷いママだわ。」
あの自分だけの梨々子が、自分も泣きそうな顔で杏子の腕に自分の腕を絡め、慰めるような動きを見せたのである。
驚いて次に言うべき言葉を失った僕に、年の功の助け舟が現れた。
「そりゃあ、これから子供を産む人ですからね。子供を守ろうと過敏になるのは当たり前でしょう。僕のママなんて、弟がお腹にいる時に僕が抱きつきに行くと、ひっぱたいてきた事が何度もあるからね。全然普通だよ。」
善之助が杏子を慰めたが、善之助の母親は白波の人間だ。
女達がろくでなしでは世界一だと、良純和尚が匙を投げた程なのである。
一族の書入れ時の神社仕事を一切手伝わずに、年末のパーティ後に東京だ海外だと白波の女達は好き勝手に散っていった。
白波の女に感化されたか、家出をした幼い娘を放って、年末年始は大好きな歌手のディナーショー廻りをしていたお嫁さんだっているのだ。
しかし、せっかくの慰めに僕が口を出して台無しにしては可哀相だと、僕は開きたがりの口を閉じた。
杏子には早く立ち直って僕の犬神を返してもらいたいからだ。
呉羽大吾は、僕を守りきれなかったと、死んでからも延々と泣き続けた。
彼は僕から離れがたく、最低な僕は彼を手放したくなかったがために、そんな彼の霊を犬神にしてしまったのである。
顔だけが黒く全身がフォーン色のボクサーの顔立ちをした大きな犬に姿を変えた彼は、僕の心の呼びかけを知ったか杏子の後ろからうっすらと姿を現すと、悲しそうな目で僕を見つめてから再びひゅっと姿を消した。
あぁ、ダイゴ。
良純和尚によって、勝手に杏子に貸し出されてしまった、僕の可哀想なダイゴ!
僕は大きく息を吐いて、今にも涙を零しそうな梨々子に提案をしてみた。
「ねぇ、梨々子は春休みに卒業旅行だって海里の所に行っちゃえば。久美ちゃんがね、かわちゃんのコートがいたくお気に入りでね、同じの作るってフランスに行くらしいからね。彼に海里の船に連れて行って貰いなよ。それから、六月の由貴ちゃんの仕事はかわちゃんの好きなバンドでしょう。かわちゃんを海里の船に乗せたら凄く喜ぶよね。婚前旅行?その事も海里と相談してきたら?絶対にバンドのライブ目当てで久美ちゃんが飛ぶからね、それにも便乗できるよ。」
「そっか。そうだよね。そうすれば海里と遊べるし、まさ君とべったりの旅行もできるのよね。警察官の仕事中は我慢一点てお祖母ちゃんも言っていたもの。そうよね。」
「そうよ。悠介も連絡つかないことが当たり前よ。慣れないとね。」
「ありがとう。杏子さん。今日はお祖母ちゃん家でパジャマパーティしない?帰って来ない夫や婚約者の事を思ってイライラするよりも、贅沢をしてゆったりしようよ。」
「素敵ね。」
彼女達は仲良く腕を組みあうと、僕達から踵を返した。
梨々子の祖母松野葉子は、左遷された楊を追って横浜市から相模原市へ転居して、警察署すぐそばに豪邸を建てたストーカーの女王様でもある。ストーカーの彼女達が集うには最適な場所ともいえるだろう。
僕は廊下を遠ざかっていく梨々子達の後姿を見送りながら、今こそモンシロチョウを逃がしてあげるべきだったのかもしれないと後悔も湧いていた。
ごめん、かわちゃん。
「おい、それで、騒ぎはこれでおしまいか?ケダモノはいねぇし、クロ、俺達だけで箱根に行くか?麻子、親父達に挨拶したら出るぞ。」
良純和尚の呼びかけに子犬のように反応した麻子は、非常識親父達を可哀相なくらいあっさりと振り切って、タタタと僕達の方に駆け出した。
しかし、辿り着く前に、ほんの三メートルもない距離であるのに、彼女は大柄の刑事に拘束されてしまったのである。




