さあ、諳んじてくれたまえ
髙の目の前にはいつの間にか湯気のたったマグカップが置かれ、そこから香り立つ芳醇な豆の香りに、髙は田辺だった時代に再び引き戻された。
「コーヒーだけはいつもご自分で淹れていましたね。」
「好きだからね。けれど寂しいよ。昔みたいに長谷ちゃんて呼んでくれなくてさ。君の中尉さんには僕達の気軽さが羨ましいと、何度愚痴られたことか。」
「あん人は見えているようで見えていない。」
「そうだね。銃殺目前の僕の命乞いを彼にしたのは、彼を殺したくないからだものね。嘘吐き僕は誰よりも情報が早い。逃げようと進言して脚を撃ち抜かれるとは考えていなかったけれどね。負傷した僕を後方へ連れて行けと、自分一人残って隊員全員を逃がしちゃうなんてさ。君もでしょう。隊員思いの彼は僕達を連れて逃げるはずだと思っていた?それとも僕と同じ彼との玉砕を望んでいたのかな。君だけ中尉殿の傍に残ったものね。」
髙はマグカップを取り上げて軽く啜った。
目の前の魔物には自分の内面など決して晒してはいけないのだ。
自分の望んだ行動を起こした男の見事さに心酔し、間抜な従僕として最期まで見届けたいと、自分を曲げてしまった阿呆な男の内面など、誰にも知らせる必要などないだろう。
一緒に死ぬも生きるも無く、田辺は初めて誰かと最期まで一緒にいたいと望んだだけなのである。
田辺の頃を思い出して、自分が出会う人間を全て自分好みに変えようとしてしまうのは、あの中尉を求めていたからだと気がついて、髙は思わず咽てしまった。
長谷はそんな髙の様子に目を細めて喜びだし、ティーテーブルの上に乗っていた箱を開いて差し出した。
中には薄い丸型のチョコレートがぎっしり詰まっていたが、チョコレートの上には砕いたナッツやドライフルーツが乗っている宝石のような菓子だった。
「どうぞ。フランスみやげ。」
「かわさんのコートはフランスの有名な会社のものですってね。」
「あそこの国は昔から戦争屋でしょう。良い会社が沢山あるからね。二回も同じ死に方をした馬鹿が心配で心配で。」
「かわさんは外回りのいざという時には、あのコートを脱いでますよ。」
「うそ。どうして。」
「汚したくないって。」
「なんて、馬鹿な子。」
ばしんと両手を顔に打ちつけるように顔を覆って嘆く長谷を鼻で笑って、髙は再びコーヒーに口をつけた。
「それで本題に戻るけどね、今出回っているザクロは泊系かなって、……コーヒーを吹かないでよ。新品のソファに染みをつけたら許さないよ。」
「あれはザクロじゃないじゃないですか!あれは、あれは。」
「あぁ。さすが耳の早い髙君は知っていたんだ。なんてね。僕がせっかく可愛い山口君へと君達に渡したのに、彼に渡さずに君が隠した山口警部の手帳からだね。九月七日。」
長谷は楽しそうに摘んだチョコレートを指揮棒のように髙の目の前で振って促し、髙は苛立ちながらも長谷に情報の続きを語らせるために、手帳のその部分を、髙が何度も呼んで記憶している一文を暗誦した。
「九月七日。公園で遊ぶ七人の子供達をぼんやりと眺めている。斉藤、東、田所、水原、泊、平坂、本条、全員別の家の子供のはずなのに全てが同じ顔に見えるのは自分が昔の人間だからだろうか。それとも最近は性の乱れで隠し子が多いのだろうか。双子は大きくなると違う顔になるというが、彼らは逆にどんどんと似てきている気がする。」
髙が諳んじた文の意味は、ザクロを摂取し続けることで死人でも人間でも、顔がザクロの製作者に家族のように似てくるという事と、ザクロに七つの系統を見つけた事を伝えている。
これは殉職した山口警部が後塵に渡すためにと、私的な日記の形式で綴っていた情報資料であるのだ。
死人関係の報告は上に上げた後は一切合切処分の上、他言無用なのである。
現場に当たる公安の刑事達は、その場その場の自己判断で対処させられているのが実情だ。
「次は十一月二十一日でお願いしようか。彼が殉職した十一月。」
髙は最後に近いページを思い出していた。
長谷が言う日にちの三ページ後は空白の白ページが続く。
山口警部の情報は十一月二十一日まで。
後の三ページは息子へ向けた本当のメッセージだ。
そしてこれは、この日記を手にする者への嫌がらせでもある。
人の心があるのならば、これを遺族に渡さずに隠し続ける事ができるのか、と。
「ほら。感傷はいいから二十一日。その手帳は僕が書いたものだもの。」
「どうしてそんな事を!」
「現場の刑事さんに情報は必要かなって。」
「こんな小面倒臭い小物を作る暇があったら、現場の人間に真っ当な情報を流して下さいよ。故人の嘘日記を作り上げるなんて、どれだけ無駄な作業ですか。」
「そんな面倒じゃないよ。もともと山口君のパパはぎっしりと書き込む人じゃないし、全部じゃ無いもの。彼の手帳を適当に抜き出して書き写してね、ところどころに情報を入れてみただけだから。本物は淳平君が持っているよ。」
「……そのろくでなさを最初に発揮していれば、あなたは勲章に塗れて死ねたでしょうに。」
「君の武勲を背負わされて処刑台へって?純な僕ちゃんで助かったよ。さぁ、二十一日を読んでくれないかな。僕の息子も聞きたがっているからね。」
髙が後ろを振り向くと、青い顔をした楊が二人を睨むようにして戸口に立っていた。




