嘘しか持っていない魔物
髙は前世からの付き合いのある魔物に、何の感慨も無い風に答えていた。
「あなたを殺していたでしょうね。俺の目的は生き残ること。自分を含めてできる限りの人間をね、生かすことです。あなたのように選別と調整は自然じゃない。」
「君こそ選別した上で僕達を教育したでしょうに!」
再び長谷は笑い出すと立ち上がり、書斎机を回って髙の方へと歩いて来た。
それから彼は書斎机前の応接セットに座るように髙に手で示した。
質の良い応接セットの一角に丸いスツールがちょこんと置いてあるのを目にして、彼は目の前の男への敵愾心が消え、代わりに同情心が沸くのを感じた。
小さな白いスツールは、出産で腰を悪くした妻のためにと長谷が妻に贈ったものなのだ。
あの椅子に座って長谷の赤ん坊を抱いていたのは、田辺の妹の祥子である。
田辺と長谷は戦後再会し、互いに皮肉な思いを抱きながらも家族となったのである。
その小さく柔らかい椅子には妻どころか家族全員が気に入り、十歳になる姪と三歳の甥が座ろうと争うと、長谷が「ママのものだ」と祥子を抱きあげてそこに座らせるのだ。
すると、子供達は次々に父親に抱いてもらおうと長谷に縋りつき、彼は大声をあげて笑いながら子供達を次々に抱き上げるのが約束となり、子供達は長谷に甘えるためだけに毎日毎日椅子を廻って騒いでいた。
祥子は出産後の禿げた頭にスカーフを巻くようになり、その上痩せて骸骨のような姿となってしまっていたが、それでも家族のはしゃぐ光景に笑う姿はとても美しく輝いていたと思い出す。
あれは長谷の幸福だった頃の残骸なのである。
いや、田辺にとってもか。
「ほら、早く座って。コーヒーでいいよね。」
長谷は部屋の奥にあるらしいコーヒーメーカーに既に向かっており、茶器の用意をしているようだ。
長谷が揶揄う田辺の心酔した怠け者中尉と違い、働き者の長谷は全て自分でやろうとするので、副官であった田辺には楽な上司でもあった。
「帰りますから結構です。」
「君らしくも無い。情報は生き残るための必需品ではなかったかな。この素晴らしい応接セットで持て成す最初の客なんだからさ、有難く思って欲しいね。見事だろう。名人の手によるジャコビアンだ。何も持たない僕が可哀相だと、あの可愛い玄人君の贈り物なんだよ。彼は本当に可愛いよね。」
「嘘つきのあなたの情報が何になります。本当に酷い大嘘つきだ。このあからさまに安っぽい舞台装置であの子を騙したのですか?あなたは唸るほどの金を隠し持っている癖に。」
長谷はにやりと悪辣な表情を浮かべた。
「今の僕は全部君のお陰でしょう。それよりもね、クロちゃんはああ見えて全部見抜いているよ。見抜いていて僕にこれを贈ったのさ。大事なかわちゃんの心を守ってくれてありがとうってね。あるいはこれからいいお付き合いをしたいのならばってヤツかな。武本物産の当主だけあって、彼はなかなかの策士だよ。知っている?長く豊かにいたいのならば、程々が大切なんだ。武本物産が老舗であり続けるのは、儲かるからと大きくしない小賢しさがあるからさ。誠司にぴったりな相手だったのに、死人どもめ。」
髙は長谷の言葉を聞きながら遺体安置所で自分が気を失った理由を理解し、酷い眩暈を感じた。
目の前の楊と同じ容貌の男は、髙が田辺大吉であった時代の戦友で上官だった長谷貴洋であり、髙は彼との逢瀬で楊自身がまだ知らない真実に気づいてしまったのである。
「かわさんの本当の前世は相良誠司なのですね。何が佐藤雅敏だ。何が猫だ。あなたは本当に嘘吐きだ。」
「雅敏だったのは本当。」
「誠司が死んだ時には佐藤は三歳ですよ。生まれています。」
「僕の子供。誠司が殺してしまった良祐の死んだ肉体に誠司の魂を入れた。僕は温かい子供の体を冷たくしたくなかったし、誠司に違う人生を与えたくてね。」
「どうして最初から真実だけを伝えないのです。」
「仕方がないよ。あの子に前世の殺人の罪悪感を与えたくない。生まれ変われば違う人間でしょう。同じような行動はしてもね、前世で失敗した行動をしないってチャンスも理性もあるでしょう。人間であるならね。」
髙はハハハと乾いた笑い声を上げ、首を振りながら手近なソファに腰掛けた。
鬱々とした気分ながら、クッション性の高い座面の生地の柔らかさと手触りのよさに目を見張った。
軽やかさのない実務的で重厚的な印象と違う、立ちたくなくなる座り心地の良いソファであったのだ。
「凄いでしょう。クロちゃんは凄いよ。この素晴らしいセットはね、そのまま僕への皮肉でもあるの。ジャコビアンってジェームズ一世の事。平和王と呼ばれていても、その実、財政難で戦争ができなかっただけの王様でしょう。貧乏な僕にぴったり。」
「戦争を仕掛けるなって、釘を刺しているのかもしれませんよ。」
「ははは。そうかもね。」




