久しぶりかな?
戦況は嘆かわしいばかりで、今更功績を挙げることなど無駄でしかない。
勲章など不要である。
なまじ評価されて尉官にあがることになれば、それだけ敗戦した時の戦犯として、処刑台への道が短くなる事を意味するだけであるからだ。
田辺大吉が考えていたことは「生き抜くこと」それのみで、出世するよりも自分自身のスケープゴートを探していた。
死地を必死に生き抜いただけであるのに、気が付けば「死神」と敵陣に渾名をつけられ呼ばれる程の兵士に、田辺はなっていたのである。
このままでは敗戦時には、名指しで処刑されるのが確実だ。
彼はその田辺が初めて見つけたカモであった。
外交官の父を持ちながら母親がロシア人だということで、大学に進学する夢を諦めて日本男児らしく士官学校に進んだ青年。
色白の肌に日本人離れした彫の深い二重は印象的で、しかしながら白人の血を引いている割に背も普通で、ゴツゴツした所が無い童顔でもある。
そして外見どおり、彼はいつまでも新兵臭さが抜けない甘い男であった。
「飲み過ぎにはどうか注意してください。」
初対面で挨拶した時と違い、今の彼は膿み疲れ切り、そして田辺は彼を捨てようとしていた。
外見が目立つだけでなく上手く立ち回れない彼は、田辺のスケープゴートになる前に、他者のスケープゴートになってしまっていたのである。
彼の情報は敵に売られ、彼はゲリラの狙う餌と為っている。
しかし、そんなことは「死神」の田辺にはどうでも良い事だ。
ゲリラなど屠ってしまえばいい。
敗戦までに生き残り、敗戦を迎えたその時に育てた羊を生贄に捧げるだけた。
それが困った事に、羊がゲリラ兵一人の死で使い物にならなくなってしまったのだ。
此れでは有能な上官に使われるだけの駒、という図式が成り立たない。
また、田辺には上官の身代わりとなって死ぬことなど論外でしかない。
自分の戦果を押し付ける身代わりにさせようと育てていたのに、この自分こそが上官の身代わりにされるのでは、本末転倒ではないだろうか。
「それでは、長谷少尉。短いお付き合いでしたがお世話になりました。どうぞ、御武運を祈っております。」
「口では何とでも言えるよね。あの自爆した少女ゲリラは、僕を鍛える一環で君が手配したのでしょう。」
田辺は目の前の記憶違いに目を見張った。
あの日、田辺が去った時の長谷貴洋は酒臭く、そして楊が良く浮かべる真っ赤な目元をして、捨てられる犬のような顔で田辺を見つめていたはずだ、と。
目の前に座る余裕綽々の男では決して無い。
軍服は着ているが、髪はあの時のように坊主でなく、夜会に出かける貴公子のようなオールバックだった。
「あなたはどなたです?」
田辺の良く知っている男はけたたましく笑い出し、男が笑う度に部屋は戦場の幕営ではなく煌びやかな書斎へと変化し、彼の姿は軍服から白いドレスシャツに煌びやかなベストを羽織ったものへと変化していった。
煌びやかだが安っぽい舞台装置に嘘臭い舞台俳優。
「ハハハ。君が僕を幸運の男と呼んでいた本当の意味を知った時の驚きは、言葉だけじゃ言い表せないね。驚きというよりも恐怖と裏切られていた悲しさかな。まさか、信頼していた部下が、僕の人格を変えるためにだけに無垢な少女に自爆テロを唆していたとは考え付くはずは無いからね。目の前で起きた彼女の自爆は、本当に僕は辛かったよ。」
「違いますよ。」
「違うの?」
「違います。そこまでしないですよ。しなくてもあの少女は現れ、俺は結果を知りつつ帰結するまで見逃していただけです。使えるものは何でも使えと教えたでしょう。下手に策略を練るよりも、偶然を上手に使う方が生き残る手だとも俺は教えた筈です。作為的な人死は恨みや余計な柵ばかりが増える一方だ。お心当たりがあるでしょう。」
アハハハハと長谷は弾けた様に大きな声で笑い、そして笑いを納めると悪戯そうに目元に笑い皺を寄せて田辺を見上げた。
「あぁ、本当に懐かしい。久々の君の叱責だ。君はいつでも人を自分好みに変えようとする。可愛そうな山口君に、僕の可愛いマサトシ君。そうだ、それに山口君のお父さんも。相棒となるや、君が年上の彼を有能な刑事に仕立て上げたのには驚きだよ。そして大昔は僕。僕は大失敗だったようだけれど、僕の後のあの中尉殿は君の作品として最高だったね。素晴らし過ぎて君は彼を殺せずにいつまでも副官であり続けた。ドンキホーテのサンチョ・パンサに身をやつしてまで。誠司に殺されなければ、君はどうしていたかな。」




