ここに泥沼がある
部下を帰すと楊はけだるそうに、のそっと立ち上がった。
そして彼は靴を履いたまま玄関を上がると、玄関と室内の部屋を隔てるドアを開けた。
溝口の部屋は入ってすぐに小型の台所にカウンターに風呂とトイレに洗面台のスペースがあり、そして、奥の惨劇の舞台となった八畳ほどの空間にダブルベッドがベランダを頭側にして縦に置いてある。
小物も無くベッドが占領する部屋は、女性の部屋というよりは、ただの寝るための部屋にしか見えないだろう。
楊はベッドの足側、楊から向かって左下に座る全裸の男を見下ろした。
重さのあるベッドの脚には、猿轡を嵌められた全裸の男が後ろ手に縛られて括りつけられているのだ。
ベッドを背に座る彼は真っ赤に血に塗れた大股を恥ずかしげもなく開いており、頭を死んだようにがっくりと下げている。
「うぐぐぐ。」
楊は後ろを振り返ると、口元に右手の人差し指を当て、彼に唸る主に微笑んだ。
「シー。ごめんね。また逃げられると追いかけるの大変でしょう。でも、どこに行くつもりだったの。君は死んだんだよ。大人しくしていようよ。」
カウンター前の場所には、先程逃がしてしまったので捕獲しなおした溝口だ。
猿轡を嵌められて毛虫のように縄で縛られた彼女は、風呂上りのように頭髪が濡れてぼそぼそだが、それは後頭部がぱっくりと割れているからである。
その大怪我から痛みはかなりあるだろうにと楊が憐れむほどの姿であるにもかかわらず、彼女は楊を仇のように睨んでいる。
楊が溝口の気力に賞賛を抱いてもいるが、それは今の彼女には何の救いにもならないはずだ。
なぜならば彼女は十数分前に死亡しているはずの人間であり、つまり死人化しているからである。
哀れな彼女の死の証拠は、楊から見て右側の壁にあった。
まるで水風船が壁にぶち当てられてできたかのような、壁紙に広がる真っ赤な染みが全てを物語っているのである。
しかし、楊は刑事として現場の惨状を元に、溝口の死の原因を推測したのではない。
彼こそが彼女の死の原因なのである。
つまり、突然部屋に現れた楊に驚いた溝口が咥えていたモノを噛み切ってしまい、噛み切られた八重は痛みによって反射的に溝口を殴り飛ばした、という事だ。
楊は自分が引き起こし自分の目の前で起きた惨劇にどうする事も出来ずに目を見開くだけであり、壁に打ち付けられて死んだはずの彼女は、自分の死を招いた男を責めるかのようにじっと楊を見つめたまま、白い壁に真っ赤な模様を描きながら下に落ちた。
ゴトリと、溝口が床に転がり落ちた音で楊は体と頭がようやく動き、八重が楊に向かう前に拘束して縛り上げたのである。
後ろ手に縛るだけでなく、縄を首に回してから腕を縛るという、生きている人間にとっては拷問となる結び方だ。
死人は死にはしないが生者と同じくらい痛みを感じる。
この縛り方は、動けば動くほど首が絞まり、苦痛を与えるというものだ。
八重も溝口も毎日顔を合わせていた同僚であり仲間であったはずなのに、と、自分の行為にウンザリしながら楊は八重の猿轡を外した。
「八重巡査。君はどうしてこんな事をしでかしたの。子供も奥さんもいるでしょうに。」
下腹部を真っ赤に染めた全裸の男は、ゆっくりと楊に顔を上げた。
「あんたには判りませんよ。俺達同様に島流しにされたのに、順調過ぎるくらいに出世している。次は警視正ですか?見事なものだ。その顔で武本物産のあの可愛い子までも垂らしこんで、羨ましい限りですよ。」
楊は死人となった八重に微笑み返すと、八重の腹を強く蹴った。
ぐんにゃりとした死人特有の感触と、八重の痛みに対する嗚咽に、楊は自分が嵌っている泥沼のようだと自分を鼻で笑った。
自分は人を助けるどころか、死体を積み重ねるだけだ、と。




